読んでいない本について堂々と語る方法
著:ピエール・バイヤール 訳:大浦康介
このタイトルはインテリフランス人らしい一種のアイロニーであって、言わんとすることは
「堂々と語れない」本は、読んでいないのと一緒である。
で、堂々と語る、というのは、目の前の相手が誰であろうと、自分のコトバで自分の信念と、それを裏打ちする自分の教養と価値感でもって語る、ということであり、すなわち、その本を堂々と語る、というのは、自分という媒介を通して、再創造するということなのである。
だから、はじめから終りまでアリバイ的に活字を全部拾っただけとか、単に要約できるだけとか、書いてあることを盲信しているだけとか、そういうのは「読んでいない」の範疇なのである。
そこから換骨奪胎していって、“斜め読み”でもそこから完成度の高い再創造の境地に達することができたのならば、それは読書として成功である。
あろうことか、タイトルと目次だけで何かを悟り得れば、これはもうすばらしい読書である。
僕は橋本治の「上司は思いつきでものを言う」というタイトルだけで、なんかもう新たな事象の地平が明けたかのようにいろいろな文脈や編集が頭の中で行われ、たぶんこれをテーマにいつまでも酒飲み話ができそうだが、これだって「読んでいない本について堂々と語る方法」ではあるまいか。
もっとも、本書で扱われているのはもっとずっと教養の書である。
そもそも「教養」というのは、ある受け身で得た情報なり知識なりを自分なりに再編集して(たとえば以前から持っていた知識とつなぎ合わせることで)新たな気付きや悟りを得るための能力であり、「広く応用が効く」知識や知恵を獲得していたり、体技を取得している人を「教養のある人」と称した。単に「知っているだけの人」では雑学者の域を出ない。
特に、長い歴史の試練や多民族の価値観の視点に耐え抜いた書物は、「広く応用が効く」として教養書の代名詞となり、本書でもトルストイとか漱石とか出てくるし、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」は本書自身が内容においても読み手に必要な資質にしても教養を問うトラップとして引き合いに(あるいは著者バイヤーるの小道具として)出てくる。
教養人というのは、そういう「戦争と平和」とか「道草」とか「方法論叙説」とか「ハムレット」とか「ツァラトゥツトラはかく語りき」とか「史記」とか「オデッセイア」とか「国富論」とか「源氏物語」とか読んで、自分なりの文脈で知識の再体系化ができる人、と言うことなのである。ここから、人間とは何かを繰り広げてもいいし、愛と性の差異に思い及んでもいいし、明日の夕食の蓋然的破損性を考察してもよい。
逆に言えば、ムリして名作全集を読んでどの本にはどんな人が出てどんなことを言っている、と博覧強記を披露しても、そこに新たな本人なりの創造的見解がなければまるで意味がなく、それならば「まんがで読破シリーズ」を次々読んで、何か新しい文脈を見つけたほうがずっとずっとよろしい。(ところで「まんがで読破シリーズ」はあれすごくいい企画だとは思うんだけど、絵がどうも個人的に苦手なんだよなあ。ちょっとアクが強すぎるというか‥)
でもこういう教育、というか訓練って今の学校やってるのかなあ。
僕は昔から学校の国語の授業とか読書感想文が嫌いだったんだけど、小学生の娘の教科書とか問題集とかみたりすると、あいかわらず、登場人物の気持ちを探すとか、答えは必ず本文の文章中に書いてあることから見つけることとかあって、これで再創造のセンスなんかできるわけもない。