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指揮者の役割 ヨーロッパ三大オーケストラ物語

2019年01月17日 | クラシック音楽
指揮者の役割 ヨーロッパ三大オーケストラ物語
 
中野雄
新潮社
 
 
 オーケストラの指揮者というのは、オーケストラの中でもっとも目立つ。演奏会で我々が眺めているのはたいてい指揮者の後ろ姿だし、演奏会情報やポスターなどで情報として大きく扱われるのは指揮者であることが多い。一般的にはオーケストラの楽団員よりギャラもよいとされる。
 
 しかし、指揮者というのはオーケストラの中で唯一音を出していない存在でもある。それなのにオーケストラの誰よりも目立って誰よりも賞賛を浴びる位置にいて誰よりも稼いでいることになる。今も昔も指揮者とは憧れとやっかみの対象である。
 
 日本を代表するオーケストラ指揮者の故・岩城宏之氏は、そんな指揮者という職業に似たものとして、プロ野球チームの監督を挙げていた。なるほど、憧れとやっかみの対象であろう。しかし、それとは引き換えするに余りある辛苦がそこにある。自分はプレイをしないがしかし監督の采配が勝負の行方を左右する。それも一試合一試合に勝てばよいというものではない。ペナントレース全体を見通しての戦略観がいる。オフシーズンの過ごし方も考えなければならないし、チームの補強も必要だし、ひとりひとりの選手のことも気にかけなければならない。ワガママな外人選手をなだめ、得意げの4番選手を諫めなければならない。それでいて戦績がよくなければあっという間にお客さんに叩かれ、スポンサーから首を切られる。指揮者もしかり。たいへん気苦労が多い商売なのである。
 
 素人的には、指揮者がさっそうと指揮棒をふって、オーケストラが唯々諾々とそれに従っているような、そんな印象があるが、人間同士の営みである限り、そんな簡単なわけにはいかない。むしろ指揮者というのはオーケストラの楽員たちの言うことをきかせてようやく指揮者足りえるということだ。いくら楽曲解釈が優れていても、暗譜の才能があっても、楽員たちの言うことを聞かせて自分の望みの通りの音を引き出せる手腕がなければ「指揮者」ではないのである。名選手が名監督足り得ないことと通じるものがある。
 
 つまり、指揮者というのは音楽的才能とは別に人心把握術というかリーダーシップというかコミュニケーション能力というか、そういう「人を動かす力」を必要とする。ある意味「音楽」とまったく関係がないように思えるが、オーケストラという「音作り装置」をつかって人々に音楽を届けるためには、この能力が必要ということである。
 
 まして、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団とか、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団とか、ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団とか、超ド級のオーケストラ団員を動かすのはまことに至難の技であろう。これくらいのオーケストラになると楽員ひとりひとりがソリストとしても十分通用する技術を持ち、古今東西あまたの指揮者を経験してきた百戦錬磨のつわものである。そんなこわーい人たちの集まりの中に飛び込んで指示を出し、言うことをきかせ、まとめ上げなければならない。経験不足の若い客演指揮者なんか縮み上がるのではないかと思う。
 つまり、カラヤンとかバーンスタインとかシャイーとかムーティとかブーレーズとかゲルギエフとか小澤征爾とかは、音楽の才能云々とは別に、この「人を動かす力」が超人的だということになる。
 
 本書は三大オーケストラ。ウィーンフィル、ベルリンフィル、そしてロイヤルコンセルトヘボウという3つのオーケストラについて著者なりの分析と所感でまとめたものだ。著者は音楽家ではないが、レコード会社の上役に勤務していたこともあってあまたのアーティストと交流があり、そのドキュメンタリーはなかなか興味深い。
 この3つのオーケストラの中で、ウィーンフィルは常任指揮者を置かないことで知られている。いわば、監督がいないプロ野球チームみたいなものだ。試合ごとにゲスト監督を呼ぶのがウィーンフィルである。岩城宏之氏にもウィーンフィルに関してのエッセイがあって、指揮者からすればウィーンフィルというのはたいへん恐れられたオーケストラということらしい。誰を指揮者に呼ぶかはウィーンフィルの投票によって決まるとされる。要するに「誰にオレたちを指揮させるか」という態度なのだ。ウィーンフィルに招聘されるというのは指揮者にとって大いなるステイタスになるそうである。それでいてウィーンフィル客演そのもののギャラはたいして高くはないそうだ。まさに名誉のための仕事だが、一度ウィーンフィルの前にたつと市場での彼のギャラは5倍に上がるというから恐しい。しかもせっかく招聘されてもうまくいかなければ二度と呼ばれない。クラシック音楽の本場たる本場ウィーンフィルのメンバーに言うことをきかせることは並大抵のことではないそうだ。
 
 一方のベルリンフィルといえば、帝王ことヘルベルト•フォン•カラヤンである。カラヤンが亡くなってもう30年以上経つのだが、それでいて彼のブランド力が未だ健在で、著者が言うようにカラヤンが亡くなってこのクラシック音楽業界、とくにレコード業界は衰退がはじまったといっても過言ではない。カラヤンは30年にわたってベルリンフィルに君臨した。最後は喧嘩別れをしたかっこうになったが、30年というのはこの業界において極めて長い。カラヤンのマネジメントは、実際「帝王」というくらいだからさぞ高圧的にしぼりあげるものだったようなイメージがあるが、そばで観察していた岩城宏之氏によると、きわめて団員に気を使い、人前で恥をかかないようにするナイーブなものであったそうだ。岩城宏之に言わせれば、本来指揮者とオーケストラというのは「天敵」同士の関係であり、それが30年にわたって維持されたのは奇蹟的ということだ。しかも相手はベルリンフィルである。本書の著者の観察によると、リハーサルではかなり細かく指示するが実際の本番のここぞというところで団員の自由度に任せる絶妙な手綱さばきがあり、これがカラヤンとベルリンフィルのハーモニーの信頼関係のポイントとのことである。
 
 オランダの名門オーケストラ、ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団は、戦後にカリスマ的な常任指揮者を背負わなかった。このオーケストラに27年間常任に就いたのはベルナルト・ハイティンクという堅実な職人気質の指揮者だった。この楽団は彼をむかえるにあたってオイゲン・ヨッフムというドイツの巨匠をサポート替わりに「もう一人の常任」として短期間のあいだ招聘したり、ヘルマン・クレッバースというたいへん人のできたヴァイオリニストをコンサート・マスターに就けたりして、みんなでハイティンクを支えたようである。そこまで一致団結して頑張ったのは、第2次世界大戦で辛酸をなめたオランダの復興のための使命感のなせるわざというのが本書の主張だが、ハイティンクに他人をしてそうさせたくなる人徳もあったのだろう。彼はカラヤンやバーンスタインのようなオーラやカリスマ性はなかったが、それでも27年間このオーケストラの常任を勤め上げたのだから立派である。温厚で情にあつい人だったようである。
 
 実際、指揮者にもいろいろなタイプがいるようだ。オーラを放つカリスマで団員の尊敬を勝ち取るタイプや、団員の人事権を完全に握って恐怖政治を敷く絶対君主タイプ、グレート!やビューティフル!を連発してとにかく褒め殺しにして団員をその気にさせちゃうキャバ嬢タイプ、とことん理詰めと圧倒的な知識で有無を言わせないプロフィッサータイプ、団員に高額なギャラを約束させて言うことを効かせる成金社長タイプ、さらにはなんとなくみんなにしょうがないなあなどとかわいがられるという小悪魔タイプというのもいる。本書に出てくる下野竜介なんかこの小悪魔タイプなのだろう。ハイティンクもそうだったのかもしれない。
 
 こうしてみると、指揮者の顔ぶれというのはマネジメントタイプの見本市のようだ。よく戦争の指揮官とかスポーツチームの監督を題材にしたマネジメントのビジネス本なんてのを見かけるが、実は指揮者でこの手の本を企画すればそうとう面白いものができるのではないかと思う。急に矮小的な話になるが、実は僕は職場のマネージャーや経営者、あるいは他所でも部長さんや課長さんをみてそのマネジメントぶり、リーダーシップぶりをよく指揮者になぞらえるのである。そして僕自身が憧れるリーダー像は、ほとんど仕事しないで、少ないレパートリーをちょこっとだっけやって、でもそれはもう世界中からやんやの大喝采を浴びて膨大なギャラをかせぎ、そしてまたほとんど遊んで暮らしていたカルロス・クライバーその人である。
 

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