小田嶋隆のコラム道
小田嶋隆
ミシマ社
コラムってのは不思議なシロモノで、シロモノだから決してイロモノではないがなかなか定義のしにくいジャンルだ。時事評論もあれば、映画の感想もあるし、業界の解説もあるし、そのどれでもないこともある。
ただ、コラムは一概にいってそんなに長文ではない。囲み記事程度のものもあるし、せいぜい雑誌の1ページだ。数十ページにわたるコラムというのは想像しにくい。
それからあまり怒りや悲しみの心情を吐露しているようなペシミスティックなものもコラムとはいいにくい気がする。鴨長明の「方丈記」はエッセーではあるけれどコラムとは言い難いように思う。コラムとはもっと軽妙洒脱なオーラをまとっている。
では、清少納言の「枕草子」はコラムだろうか。あれはけっこう上機嫌なテンションが支配している読み物だけれど、あれをコラムと呼べるかというとこれも抵抗がある。あれもエッセーなのだと思う。
ということはエッセーとコラムにはもっと本質的な違いがありそうだ。それは何か。
この「コラム道」を読んでそうか、と膝をうつ。著者が何度も繰り出す「ダブルバインド」というやつである。
本書は名うてのコラムニスト小田島隆による言わば「コラムの書き方」本である。あてずっぽうなのかすべて計算のうちなのか、グダグダなのか超絶技巧なのかよくわからない本だが、世にあふれる「文章読本」や「企画書の書き方」などよりはユニークで面白いことには間違いない。
で、本書のあちこちに「ダブルバインド」が出てくる。(「ダブルスタンダード」というコトバを使うこともある)。
・コラムは文章界の「規格外」でありながら、文章としての「常識」もふまえる。
・「主題」も大事だが「主題の料理の仕方」がもっと大事。
・本来乖離している「魅力的な会話を成立させる能力」と「マトモな文章を書く能力」
・書き続けないとモチベーションはわかないが、書き続けても疲弊するモチベーション
・両立しない文章作法としての「最後のまとめの一文」と「印象に残る一文」
・メモは日々取り続けなければならないが、そのメモを活かしたコラムはたいがい成功しない
・フォーマルで理知的できどった人格の「私」と、個人的で乱暴で気さくな人格の「俺」(主語が決める文体)
・発言の一貫性を心がければ議論は硬直するし、率直さに重点をおくと結果的にダブルスタンダードに陥る
・文章を書くときの頭脳と文章を読むときの頭脳は異なる(相反する「創造性」と「批評性」)
・コラムニストは複数の視点で観察しながら、ひとつの見識のもとにひとつのコラムを書く
・文章を書く人間は〆切を恐れながら、〆切に依存している
著者の目線はつねにダブルバインドにあると言って間違いなさそうだ。確かにこの世の中は複層的であり、複合的であり、複式が横行し、複数の複雑な複線が輻輳していたり、複写して申し込んだ複利で複勝式を狙ったりする。つまり人の世の常というのは、双方に矛盾しあう目的を同時処理しなければならないダブルバインドが横行しているのである。(しかしこの「複」という字はじっと眺め続けているとゲシュタルト崩壊を起こす字だな)
コラムとは世の中のダブルバインドを短い文章でとらえたものだ。コラムニストとは、どんな主題や主語を用いていようと、その世の中のダブルバインドをみつけ、自らのダブルバインドを遊ぶ者である。そして技術と発想でダブルバインドを一瞬でも解き放って昇華させたものが名コラムと言えるのではないか。鴨長明はダブルバインドをただ憂いただけであり、清少納言はそれがダブルバインドであったことさえ気づいていない。そもそも鴨長明も清少納言も〆切には追われていなかったのではないか。