どうすれば「人」を創れるか アンドロイドになった私
石黒浩
ずいぶんかわった内容の本である。
石黒浩
ずいぶんかわった内容の本である。
「ロボット」と「アンドロイド」というのはぜんぜん違うものなのだ、ということがまずよくわかる。自立した脳やに二足歩行機能さえなければ、「アンドロイド」というのはずいぶん精巧なまでにできるようになったのだ。
つまり、遠隔操作で喋ったり、顔の筋肉を動かす程度であれば、かなり人間に近いところまできている。
で、本書では、そういった精巧なアンドロイドと、アンドロイドのモデルになった人間やアンドロイドの操作者、そして、アンドロイドに相対した人間たちの観察から、人間はどこまで自分のことを客体視できるか、という問いにつながっていく。
つまり、遠隔操作で喋ったり、顔の筋肉を動かす程度であれば、かなり人間に近いところまできている。
で、本書では、そういった精巧なアンドロイドと、アンドロイドのモデルになった人間やアンドロイドの操作者、そして、アンドロイドに相対した人間たちの観察から、人間はどこまで自分のことを客体視できるか、という問いにつながっていく。
つまり、自分そっくりのアンドロイドがそこにあったら、自分はそこに何を見出すか、ということだ。
「近くて見えぬはまつげ」ということわざがあるが、人は、自分自身の立ち振る舞い、顔の表情、声色はわからないものである。鏡で見る自分の姿は左右反転しているし、録画映像を通してみる自分はある程度のことはわかるとしても等身大の臨場感をそこから感じ取るのはやはり難しいだろう。
自分そっくりのアンドロイドと相対することで、自分がどう見えるか、あるいは「他人に何かされる自分」を自分はどう見えるか、という不思議な感覚を味わうことができる。本書の言うとおり、たとえ自分そっくりのアンドロイドではあってもそれはしょせん自分とは違う存在であることは左脳的にはわかっているのだが、しかしやはり「他人事ではない」気分に見舞われる、というのはそうなんだろうなと思う。
なんというか、2人でもないし、1人でもない。1.5人の自分がいる、みたいな感覚だろうか。それは確かに新感覚に違いない。
また、本書では、自分を一人称でとらえる人、二人称でとらえる人、三人称でとらえる人、がいるという話がある。
なるほど、一人称でとらえる人というのは、自分が相手からどう見えているか、この社会空間でどう見られているかにあまり頓着しない人であろう。子どもはそうである。
二人称になると、相手からどう見られているかに気を配るようになるし、三人称になると360度気を使うことになる。女性のほうが二人称や三人称でとらえやすい、という指摘は確かにそうだろうと思うし、役者やテレビのアナウンサーはもっとそうである、というも確かだ。面白いことに、二人称や三人称で自分をとらえる人のほうがアンドロイドの操作が巧いらしい。
また、本書では、自分を一人称でとらえる人、二人称でとらえる人、三人称でとらえる人、がいるという話がある。
なるほど、一人称でとらえる人というのは、自分が相手からどう見えているか、この社会空間でどう見られているかにあまり頓着しない人であろう。子どもはそうである。
二人称になると、相手からどう見られているかに気を配るようになるし、三人称になると360度気を使うことになる。女性のほうが二人称や三人称でとらえやすい、という指摘は確かにそうだろうと思うし、役者やテレビのアナウンサーはもっとそうである、というも確かだ。面白いことに、二人称や三人称で自分をとらえる人のほうがアンドロイドの操作が巧いらしい。
これはつまり、二人称や三人称で自分をとらえる人のほうが、日々の所作がやはり洗練されているということになる。
他人がどう思おうと自分は自分、と強がる人がいるが、本人の想定以上に、その人は「浮いている」可能性がある。自分に自覚はないのに、妙にまわりから「変わっている」と言われてしまう人はこんなところに原因があるのかもしれない。
他人がどう思おうと自分は自分、と強がる人がいるが、本人の想定以上に、その人は「浮いている」可能性がある。自分に自覚はないのに、妙にまわりから「変わっている」と言われてしまう人はこんなところに原因があるのかもしれない。
アンドロイドの話のようでいて、本書が追及しているのは確かに自分を自覚するとはどういうことか、という話である。つくづく、かわった本であった。でも、なんか新しい地平が見えた気もする。