読書の記録

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岐路の前にいる君たちに

2020年02月11日 | 生き方・育て方・教え方

岐路の前にいる君たちに

鷲田清一 式辞集
朝日出版社

 こちとらもうすぐ50に手がとどく年齢でありながら、なんだかじわーっとくる。

 本書は、大阪大学と京都市立芸術大学の学長だった鷲田清一の入学式と卒業式における学生への式辞をまとめたものだ。二十歳前後のぼくがこういう式辞を聞いて果たしてどこまで感銘を受けるのかわからない。難しいコトバ回しはしていないが、そこで示す思想や世界は、まったく酸いも甘いも知り尽くし、思考と内省をはりめぐらせた哲人こそが示せたもので、ほぼ「無知の無知」状態であろう学生にどこまでこの人はすごいことを言っているかわかるはずもなさそうだが、全力で語る鷲田清一もすごいし、学生たちも贅沢な体験をしたということになる。

 プロというのは、他のプローー自分からすればアマチュアーーとうまく共同作業できる人のことであり、そういう意味でのアマチュアに自分がやろうとしていることの大事さを、そしてそれがいかにわくわくするものであるかを、きちんと伝えられる人であり、そのために他のプロの発言にもきちんと耳を傾けることのできる人であり、つまりはノン・プロと「いい関係」をもてる人だということなのです。(大阪大学2010年度学位授与式)
 
 「実学系の学びというのは、自分の身体にまさにそうした「正しい大きさの感覚」を呼び戻すためにあります。(中略)そういう伝承と刷新、保存と創造のダイナミズムに、それぞが身を晒してきたのです。それが実技の学びということです。(中略)さいわい、みなさんは演奏する曲ごとに、制作する作品ごとに、一つの行為の初めと終わりを、何度も、強い緊張のなかで経験してきた。(中略)初めと終わりのあるプロセスを何度も何度も歩み抜いたということ、これはほんとうに幸運なことなのです。(京都市立芸術大学2016年度卒業式)」

 すでにわかっていることよりも、わからないこと、見通しのきかないことに、わからないまま、見通しのきかないまま、どう的確に処するかの知恵やスキルのほうが、ほんとうは大事だということです。(中略)「なんだか分からないけれど、凄そうなもの」と「言っていることは整合的なんだけれど、うさんくさいもの」とを直観的に識別する前‐知性的な能力とは、まさにそういうものなのです。(大阪大学2008年度入学式)

 理解には枠組みがあるということです。これはこんなふうに見る、受けとめるという、それぞれが属している文化の枠です。同じ時代、同じ文化のなかで育ってきた人は、世界を、同じ言語を用いて、同じような仕方で理解します。だから自分たちが世界だと思っているものの外にもっと違った世界があるということに、なかなか想像が及びません。自分のなじんできた解釈のレパートリーのなかへ何でも押し込もうとする。理解できないこと、わからないことを、取るに足らないこととして無視するか、あるいはそれらを無理やり手持ちの枠のなかに押し込めようとするのです、そういうことをくり返しているうち、世界は歪んできます。しかも歪んでいることに、当の本人は気づきません。(京都市立芸術大学2018年度入学式)

 二十歳前後の僕ならば、ここにあらわれた真理はまったくもってピンとこなかっただろう。この年齢になって読むと、自戒の意味も含めて本当にそうだなとしみじみ思うのである。そして若者むけにあてられたコトバだけれど、いまの自分を鼓舞する文章でもある。

 

 高校や大学での名式辞が話題になることがある。ネットなどでとりあげるにちょうどいい温度感のネタとは思う。
 2011年3月の立教高校の卒業式は、東日本大震災により中止となり、校長から卒業生にむけてメッセージが送られた。大学に行くとは「海を見る自由」を得るためなのではないか、という話は心の底から震えた。
 2019年4月の東京大学での上野千鶴子の祝辞も話題になった。「がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。」という挑戦的なものであったが、「これまであなた方は正解のある知を求めてきました。これからあなた方を待っているのは、正解のない問いに満ちた世界です。」と結んでいく下りは名演説だと思った。

 式辞なんて通り一遍のきれいごとを並べるだけで退屈な儀式でしかないなどとも思う。自分の高校や大学時での式辞祝辞がどんなものであったかほとんどなんにも覚えていない。子どもの入学式や卒業式に立ち会っても、大半はちっともココロに刺さらない。こちらの心構えに負うところも多いにあるとは思うが、祝辞を述べる側にも、あちこちの学校をはしごする市会議員の祝辞なんかは、いつでもどこでも通用するコトバを並べただけのものであったりする。儀式とはそういうものである。

 ところが本書のあとがきで鷲田先生はこう書いている。

 哲学をやっていると断言というのを控える習性があります。ここでいま何が言えて何が言えないかに、とても敏感だからです。そういう研究・教育現場の日常とは反対に、卒業式・入学式ではそれぞれ終わりの挨拶、始まりの挨拶なので、どうしても明確なメッセージを送る必要があり、コトバもつい伝えるべき確言と訴えに重きを置くことになります。

 “ここでいま何が言えて何が言えないか”に敏感な人がメッセージとしていまここで断言できることに心を砕いたものがこれらの式辞である。思うに、ひとの心を動かす演説というのはこういうことなのではないか。

 僕がこれまで体験してきた式辞の中にも、ここは一発がつんとみんなの心を動かしてやろうと気概を持つ人間もいたのだとは思う。さきほどちっともココロに刺さってこなかったと書いたが、例外がひとつある。僕がもう30年前になる自分の大学の入学式でのひとりの教授の言葉だ。入学式の会場になった施設を指して「ここにはもう用はない。●●(キャンパス名)にはやく帰りましょう」と言いのけた。あれは誰だったのかまったく覚えていない。その発言で会場の空気をどうなったのかも覚えていない。ただこの教授の一言は、大学で学ぶということの具体的なイメージがまったくなかった18才の僕に、「学ぶところは楽しいところだ」という、これまで考えたこともなかったすさまじいインパクトを与えたのだった。


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