読書の記録

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ある奴隷少女に起こった出来事

2020年07月24日 | ノンフィクション

ある奴隷少女に起こった出来事

ハリエット・アン・ジェイコブズ 訳:堀越ゆき
新潮文庫

 

 単行本が出版されたときにけっこうセンセーショナルだった記憶があるのだが、そのときはスルーしてしまった。
 今頃読んで不明を恥じているわけである。

 ずっとフィクション小説だと思われていたのに130年後に実は実話だったことが判明した、というあまり聞いたことのない経緯をたどった作品である。しかし、これは「フィクション」だと思って読むのと、「ノンフィクション」だと思って読むのでは、まったく読中も読後もその感じは大きく異なるだろう。つまり黒人奴隷をえがいた小説として有名な「アンクル・トムの小屋」の感触よりも、北朝鮮の抑圧生活から壮絶な脱北をつづったパク・ヨンミの自伝「生きるための選択」や、文化大革命を潜り抜けたユン・チアンの「ワイルドスワン」を味わったような感じに近い。

 我々はフィクションを読むときはやはりフィクションという前提が頭のどこかにあって鑑賞をしている。フィクションだからといって軽くみているわけではなく、登場人物の感情移入や、情景描写への没入や、物語展開への感銘というのは、脳みそのどこかにある「フィクションを感受する野」が反応しているように思う。そして多いに感動したり、いてもたってもいられない焦燥を感じたり、落涙したりする。
 だけど、「フィクションを感受する野」が読後に与えるのは、なんといっても解放感だ。たとえ、それがバッドエンドでダークな物語だとしても、それがフィクションであれば、我々が住む現実の世界とは切り離された出来事として、我々の日常の安寧を再確認する解放感がある。
 また、日常がつらければ、フィクションの世界に身を投じる解放感へとつながる。

 しかし、ノンフィクションとなるとそうはいかない。ここに出てくる人物はかつて実際に存在したのだ。奴隷を天井から吊るして文字通り鞭をうって虐待した奴隷所有者も、ひたすら主人の子供を孕まされた奴隷少女も、7人産んだ子供を全員ばらばらに奴隷商品として売られていった奴隷の母も実在したのである。これらは100年以上前のことだとしても、実際にこの痛みと悲しみを味わった人が本当にたくさんいたのだと思うと、たとえ主人公リンダーーすなわち作者のジェイコブズが苦難の末に最終的には自由になったとしても、解放感とは程遠く、非常に深刻な読後感がのしかかってくる。昨今のアメリカの黒人差別に関する暴動の報道をみていると、今につづく歴史なのだと思わざるを得ない。

 
 なお、巻末に収録されている訳者堀越ゆき氏の「あとがき」がこれまた力作である。プロの翻訳家ではなく、外資系コンサルタントに勤める会社員とのことだが、よくある「あとがき」の域を完全に超えている。その後に控える「解説」の佐藤優の文章がかすんでしまうくらいである。
 彼女はたまたま新幹線車中で原書をKindleで読み、その翻訳をかって出たという。つまり、日本においては彼女がこの作品を発見したといってよい。このあたりは、フランクル「夜と霧」の原著をドイツで発見して翻訳を持ち込んだ臨床心理学者の霜山徳爾を連想する。
 堀越氏の着眼点はまことにうなづくものばかりだ。同時代に出版された文学「ジェーン・エア」「若草物語」「小公女」といった、いずれも当時の身分社会や女性史を背景にした「フィクション」が、「そうであってほしいと思う世界観を持つ作者の分身の主人公が、その世界観が成就することになるフィクションの中で戦う創作」であるのに対し、この「ある奴隷少女に起こった出来事」は「こうであってほしいと思う世界観をもつ本人が、その世界観を徹底的に拒む現実の中で戦う実話」と位置付けた。つまり「ジェーン・エア」を読み、「ある奴隷少女に起こった出来事」の両方を読むことで、我々はこの時代の理想と現実、裏と表、その間での戦いを知るのである。
 この本はどのように読み取ってもよいと、訳者堀越氏は注意深く述べているが、しかし一方でこの「ある奴隷少女に起こった出来事」をあたかも「負の世界遺産」として未来永劫読み継がれることを啓発しようという強い意志も感じ取られる。ノンフィクションとして再発見されるまでの経緯、他の文学との相対的なポジション、この作品の社会への受容の変遷、さらにはジェイコブズたちのその後の命運なども補完し、作品の絶対的価値を浮かび上がらせており、外資系コンサルタントがもつ職能センスが光っているなと感じた次第である。こんな風に冷静に作品の価値を批評できるようになれればいいなとも思う。


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