読書の記録

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楽しい縮小社会 「小さな日本」でいいじゃないか

2017年11月24日 | 政治・公共

楽しい縮小社会 「小さな日本」でいいじゃないか

著:森まゆみ 松久寛
筑摩書房


 さいきん、読書がおっくうで間があいた。たまにこういうことがある。こういうときに無理に読んでも、一冊読むのにひどく時間がかかったり、文字を目で追うだけで頭に入らなかったりするので、しばし本から離れていた。

 で、たまたま本屋で手にしたのがこれ。
 以前も書いたが、森まゆみは僕にとって一種の清涼剤である。口うるさそうなオバサンだが、日々追い立てられている生活をはたと見つめなおす視点があり、オレはなんでこんなに毎日あせってたんだっけ、と立ち止まらせてくれる。


 
 日本の人口問題は、少子高齢化社会というところに尽きる。
 少子高齢化というのは、非生産世代の数に対して生産世代が減ることを意味する。それも「少子化」だから将来になるほどその傾向は激しくなる。将来、生産世代になる子供たちの数が減っているからだ。
 このことは決して日本だけの現象ではなく、多かれ少なかれ先進国の宿命となっていて、だから欧州とかは労働力を移民で賄おうとしているが、周知のとおりそれはそれでいろいろと問題がある。

 ただし、日本の場合は、この少子高齢化のスピードが先進諸国の中でもっとも速い。先進諸国はどこも少子高齢化の道を進んでいるが、日本はトップランナーよろしく超・少子高齢化ゾーンに突入しているのである。

 さらに日本という国の足元を心もとなくしているのが、食糧自給率とエネルギー自給率だ。
 日本の食料自給率は約40%。欧米諸国は100%以上をキープしているのに、日本は半分にも満たない。実は、北朝鮮なみだという試算もあるらしい。
 エネルギー自給率はもっとひどくて、原発が動いていたときでも30%、原発が動いていない今は一桁台といわれている。
 燃料も食料もすべて外国に依存しているのにこれだけ平和で健康な国でいられたのは、GDPが成長して稼げていたからだ。自動車や電化製品を輸出し、外貨を獲得した。経済成長を担保に国債を発行し、その前借金で経済をまわした。

 しかし、これからはその稼ぎ手である生産世代が縮小する。すでに日本は輸入超過国で、貿易大国を名乗っていたのは過去の話である。

 また、燃料や食料の供給元だった途上国も、経済成長が進んでまずは自分の国のものから、ということになる。気象異常も進んできて、かつてほど小麦が安定的に供給できなくなった。

 言い方をかえると、日本という国は、兵糧攻めにあうとあっという間にゲームオーバーになる局面にきている。


 というわけで、いかに上手に風呂敷をたたんでいくか、というのがいまの日本の課題なのである。

 だけど、日本政府はあまりこのことを大っぴらに認めていない。いやおそらくとっくに真実は気づいているのだろうし、霞が関の官僚は死に物狂いで計算して対処策を練ってはいるのだろうが、本書で松久先生が何度も指摘しているように「縮小論」はウケが悪い。ポピュラリズムと相性が悪い、と言ってもよいかもしれない。


 「量」より「質」だよ、とはよくいわれるのだけれど、どうしても我々の生活は数字で判断される。おバカ番組でも視聴率がよければよしとされるし、玄人筋にはうけても視聴率のとれない番組は淘汰される。受験生は偏差値で大学を選ぶし、婚活では相手の年収が重要である。食べログの星の数でレストランを選び、SNSはいいねの数がステータスである。数字で全ては判断できないが、数字で判断しておけばそう大きく外すような判断はしないだろう、少なくとも数字で判断できないものを意思決定することのむつかしさ、あやうさ、間違いやすさに比べればまだマシだろう、ということで、どうしても我々は「量」で計れるものに頼ってしまう。

 だからどうしたって経済成長が指標になってしまう。経済成長よりも幸福度のほうが大事だとはよく指摘されるが、幸福度を量で把握するのはかなり難しい。「いくら稼げばよい」という経済成長に比べて、幸福度は人によって違うし、その処方の仕方も人と時と場合によってさまざまだ。

 ただ、経済成長にかわる何かを「定量化」しなければならないとは思う。経済成長を物差しにするとどうしても「縮小論」になるからだ。「幸福度」をどうやって万人に納得できる形で定量化するか。どうすりゃいいんだろうね。


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