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砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

日記

2020-04-24 17:40:53 | 日記
ふつうの日記

いよいよ在宅勤務が始まりそうだ。といっても週1日程度。
それでもとても気が重い。ペヤング大盛を食べた翌日の胃くらい重い。

個人情報を扱う職場なので、持ち帰れるものがほとんどない。だからこの期間、とにかく積読を消化しようと考えている。これも勉強!読書により人間的研鑽を積むのです!そう思って本棚を眺めると、どうしてこんなことに…と思うくらい未読の本が並んでいる。とても人間的研鑽を積めそうにない。

たとえばジョイスの『ユリシーズ』、たとえば谷崎潤一郎の『細雪』、バルガス=リョサの『チボの饗宴』、ピンチョンの『V』、尾崎紅葉『金色夜叉』etc…。カウントしようと試みたところ、たぶん100冊以上あったので途中で数えるのをやめてしまった。


村上春樹の長編『1Q84』では、しばらく身を隠さなくてはならない主人公の青豆が、プルーストの長編小説『失われた時を求めて』を淡々と読みすすめる場面がある。ああいう描写、実にいいなぁと思う。自分もあんなふうに本と向き合う時間が取れたら…チクショウ仕事が忙しいばっかりに…なんて普段から考えていた。

ところがどっこい。自分は家でなかなか本を読めないタイプだ。通勤のときに、電車やバスで揺られながら読むのは好きなんだけど、家だとどうしても読めない。ついYouTubeやニコ動を見ちゃう、つい楽器を弾いちゃう、ついハイラルの大地を何時間も駆け巡っちゃう。

『カラマーゾフの兄弟』のように続きが気になって仕方ないとか、漱石みたいに読み慣れた作家であればするする読めるのだけど、初めてチャレンジする作家や、難しい勉強の本だと挫折することが多い。
「まあいつか読むだろう」そうして積まれてきたものが、たくさんある。折角買ったのにどうして読んでくれないのか、私は遊びだったのか、責任取るって言ったじゃない、低所得なのに本はたくさん買うんだね!―本たちからそういった怨嗟や呪詛が聞こえてきそうである。ゆるして。

でも今は外出自粛だ。とてもじゃないが本を読むために電車に乗れない。そんなことをした日には、百合子から「密です!!」と言われ金星あたりまで吹きとばされるだろう。


ふと思い出したこと。
昔は歩きながら本を読むのが好きだった。中学生のときは帰り道に本を読んでいて、その時期に『海が聞こえる』とか『三国志』『ハリー・ポッターシリーズ』を熱心に読んだものだ。それを見た先生から「お前は二宮金次郎か」と笑われたこともあった。

漫画喫茶でバイトしていたとき、レジが暇になるとこっそり志賀直哉や芥川を読んだ。学習塾のバイト中、生徒に問題を解かせているあいだに国語の文章を眺めていた。いいなと思った本は買った。野中ともそや白洲正子とはそこで出会った。出会えてよかった。生徒たちはめちゃくちゃつまんなそうな顔をしていたが、国語の教材も案外捨てたものではないのだ。


でも。
昔から読書感想文は好きじゃなかったし、大学で課されるブックレポートは「苦痛」の一文字だった。おかしい。そこそこ本を読んでいる自負はあったし、難しい本もそんなに嫌いじゃないはずなのに、そういった作業は本当に嫌いだった。
半分しか読まずに書くこともあったが、それはまだいいほうで。「特に印象に残ったのはこの箇所だ」と力強い枕詞を添え、ごく序盤のエピソードを虫眼鏡で拡大するように長々と記述し、そこから自由連想を繰り広げて終わらせたこともある。完全な字数稼ぎ。たぶん全部読んでいないのはバレていただろう。

そこから導き出される結論はひとつ。
自分は「何かの合間に、あるいは何かをしながら本を読むのが好き」なのであり、「読書だけやると嫌になる」のだ。
じゃあどうしたらいいか。簡単なことである。何かの合間に読書をすればいい。
だから効率よく本を読むためには「ゼルダの合間に読むのが良い」という案が今ちょうど自分のなかの会議を通過したところである。満場一致、万歳三唱。どうもありがとう、いえいえそんなそんな。ワハハハハ。


とてもじゃないが、人間的研鑽を積むのは無理そうだ。誰か助けて。

日記

2020-04-21 19:07:08 | 日記
ただの日記


暇である。
自分は暇なんだけど、件のウイルスのせいで職場がばたばたしている。やれ職員で感染者が出たらどうするか、在宅勤務ができないか、その場合給料はどうなるか云々。職場はばたばたしているが、自分は先日から追われていた書類をあらかた片づけたので、当面暇である。このアンバランスさゆえに疲れる。もうあまり頭を使いたくないから、今は夏目漱石の『坊っちゃん』を読み返している、職場で。

『坊っちゃん』は、竹を割ったような性格の「おれ」が、赴任した愛媛の学校であれこれする話だ。天麩羅蕎麦を4杯食べたり温泉に入ったりする、人と喧嘩したりもする。詳細は読んでみないとわからないから読んで欲しい。すぐ読める。
自分は小学生のときにはじめて読んで、いまでもときどき読み返す。夏休みの宿題で読書感想画を課せられ、この物語の一場面(イナゴを蒲団から追い出しているところ)を描いた記憶がある。

あれは今思い出してもまずい出来だった。
昔から絵がほんとうに苦手で、中学のとき美術のペーパーでほぼ満点をとったのに、実技が大いに足を引っ張り、なんなら沼の底くらいまで引きずり込まれたせいか評定は3だった。今でもアンパンマンを描くと、2歳児から「なんかちがう…」と言われる始末である。


話を本に戻す。
自分は漱石が好きである、日本の作家だと一番好きかもしれない。以前もこのブログで『行人』を取り上げたが、彼の代表的な作品はあらかた読んだと思う。自分が漱石に出会ったのがこの『坊っちゃん』だった。そう思うとなんだか感慨深い。あれから何年経ったことだろう。

最初に読んだ時は、ただ「おれ」の言動が面白いなぁ、痛快だなぁと思うだけだった。しかし今読み返していると、「おれ」と家族の情愛がいかに薄かったか、あらためて気づかされる。母の死に目にはあえない、親父からは常に「駄目なやつ」と烙印を押される、兄とは新橋で別れてから会っていない。この関係性の希薄さよ。それがきっと、周囲に対する彼の態度にも出ているのだろう。「おれ」は宿の女や生徒、周囲の教師に対して常に穿った見方をしているのだ。そう考えると彼がなかなか落ち着けなかったのも納得できる。
この小説は「親譲りの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている」という書き出しで始まるが、彼は純粋な器質的なADHDというよりも、いわゆるアタッチメント障害が併存していた可能性もあるなぁ、なんて考えたりもする。ADHDの人も被害的になりやすい傾向があるから、厳密な鑑別は難しいところだが。


そしてこのシニカルで、ときに被害的なものごとの捉え方は、とりもなおさず漱石自体の体験の投影だったのだろう。
彼は両親が40歳くらいのときにできた子どもで、「みっともない」という理由ですぐに養子に出された。それもひどい話だが、その後もあちこちをたらいまわしにされたり、里親から「お前の本当の親は誰だい」と、グレゴリー・ベイトソンもびっくりのダブルバインド質問を浴びたりして育った。結局は実の両親のもとに戻ったのだが、自分が本当は誰の子で、誰から本当に愛されていたのか、疑わざるを得なかったのではないか。

漱石の作品ではそういった「人に対する猜疑心」を扱ったものが多い。以前紹介した『行人』もそうだが、『三四郎』では女から裏切られ、『彼岸過迄』では人の事を信頼できず「あなたは卑怯よ」と言われるし、『こころ』ではとうとう自分が人を裏切る立場となる。自分の幼少期の体験が、ここまで如実に表れるのだなあと感心すらする。ボウルビィの提唱した内的ワーキングモデルを見事に体現していると言えるかもしれない。


急に話が変わる。
自分はリモートワークが出来る人を心底尊敬する。もし私が家で仕事をすると想定したら、たぶん1時間のうち42分くらいはサボってYouTubeを観たりBoseのスピーカーでバッハを聴いたり、ハイラルの大地を駆け回ったりするだろう。いやおそらく50分はハイラルの大地を駆け巡る気がする。これから在宅勤務が始まるかもしれないことを考えると、すこぶる具合が悪くなる。

高校生の頃、よほど必要に迫られないかぎり家では勉強しなかった。学校の図書館、塾で済ませていた。なんなら塾でも途中で抜けて近所を散歩していたし、教室にあるPCでチェックテストをやる合間に「これは頭の体操...!!」と自分に言い聞かせながらソリティアをやっていた。あとでバレてソリティアも私のハイスコアもすべて消されたのはいい思い出だ、ソリティアに罪はないのに。


さて。
暇だったがそろそろ帰ろう。早くこの騒動が収まって欲しいが、海外の様子を見るとまあしばらくは無理だろう。こうして仕事が制限されると、自分が思うように仕事ができないもどかしさを感じるのも不思議である。極力仕事をしたくない、仕事をしないためにはどんな努力もいとわない、万難を排して仕事をさぼる。そう思っていた自分はどこへいったのだろう。何か悪い病気にかかっているんじゃないか、そんな気すらする。
今日は帰りに天ぷら蕎麦でも食べたいところだ。『坊っちゃん』を読んだせいか、急に蕎麦が食べたくなってしまった。しかし私の好きな蕎麦屋もいまは自粛で閉まっている。仕方ないが悲しいことだ、蕎麦に罪はないのに。


追記(2020年4月22日 0時18分現在)
今最後まで読み終わったのだけど、『坊っちゃん』にも後半でちらりと「肺炎」が出てきていた。もちろん単なる偶然なんだろうけど、そもそも毎年10万人くらいは肺炎で死ぬらしいが、少しどきりとした気持ちにもなり。思わずふぅと長い溜息が出た。
自分が不安になっていることはある程度自覚していたが、やはりまわりの人が不安になっている影響もあるんだろう。この頃むやみにピリピリした、くさくさした気分になっていることにあらためて気づく。まずは「自分が不安に陥っていること」をじゅうぶん自覚することがスタート地点なんだろうなぁ...と思う。難しいことをあまり考えないはずが、結局こんな時間までうだうだ考えてしまった。明日考えられることは明日考えよう、どうせ自分は暇で時間を持て余しているのだから。

お財布失くすマンの憂鬱

2020-03-17 23:33:42 | 日記
ごく普通の日記

財布を失くしました。
人生で財布を失くすのはこれで6回目です。

1回目は大学生になったとき。
上京して大学に通い始めた私は、Suicaの定期を買おうと思って財布にしこたま金を入れていました。確か入学して1週間経つかどうかの頃でした。
結局電車に落ちていたのを誰かが拾ってくれたみたいで無事交番に届けられていましたが、大都会東京を前に慄いている私にとって、その出来事は強い恐怖として刻み込まれたものです(なぜかその後も財布を落としつづけていますが…)。

2回目は映画館。
「空気人形」という映画を観た時、ズボンから滑り落ちて座席の下に転がしていたようです。あとで思い当たって取りに行ったら無事に見つけることができました。
確か女の子とデートで観に行っていたと思うのですが、私が財布を落としたことによりその後の空気は最悪、株価が大暴落してたいへんな恐慌が押し寄せてきました。その出来事は強い不快感として刻み込まれたものです(以下同文)。

3回目はサークルのキャンプに行ったとき。
バイトがあったのであとから合流する形で向かっていました。はやる気持ちもあってか、お尻のポケットに入れていたところで財布が滑り落ち、電車に置き忘れたようです。
そのあと友達から金を借りて何とか乗り越えましたが、後日キャンプ場近くの駅まで取りに行きました。キャンプでもないのにこんな辺鄙なところまで、どうして行かなくてはならないのか。その出来事は強い虚無感として(中略)

4回目は実家に帰って、戻ってくるときの新幹線。
当時の私は「リスクの分散」という小賢しい考えをもとに、札入れと小銭入れを分けていました。しかし新幹線のなかでビアを飲んでしまったからか、両方とも車内に置き忘れてしまったのです。何がリスク分散だよ、お前がリスクだよ。
翌日友達と山登りに行く予定があったのですが、そこで友達に頭を下げて金を借り、山を登ってすこぶる爽快な気持ちになりました。その出来事は強い(略)

5回目は職場の近く。
職場に着いてから落としたことに気づいたのですが、その後しばらくは落胆した気持ちが充満し、仕事にならず給料泥棒になっていました。
確か警察から連絡が来て、仕事の休憩時間に落胆した気持ちをエネルギーに替え(以下「落胆エネルギー」と呼ぶ)、自転車をすっとばして財布を取りに行きました。しかし財布を取りに行ったときに別のカードを落としてしまい、ふたたび警察署に赴くハメになりました。その時も落胆エネルギーを糧に自転車を漕ぎました。その出来(ry

今回が6回目です。
昨日スーパーに寄って買い物をして、自宅まで向かっている途中に落としたようです。帰宅してしばらく経って財布がないことに気づき、ありとあらゆる場所を探したのですが、どこを見てもない。冷蔵庫も電子レンジも、炊飯器のなかも10回くらい見たけどない。もしや…と思いました。帰り道も辿ったのですが愛しい財布ちゃんの姿は忽然として見えず。
警察に行って、今連絡を待っている状態です。カードの手続き等はあらかた済ませたのですが、とても落ち込んでいます。落ち込みエネルギーを原動力にブログを書いています。
そういえば昨日は財布が出てくる夢を見たなぁ、「なぁんだ、お前こんなところにいたのかよ、ほらそんなところにいないで、早くこっち来いよ!」とにこやかに呼びかける私。目が覚めたら財布はありませんでした、なんでだよ。

これだけ繰り返すのは、もはや才能なのかもしれません。捨てるのは憚られるけど、紛失してもいいもの(例えば友人からもらった謎のオブジェ、奇抜な土産物など)のやり場に困っている方がいたら、私に預けてもらえればごく自然に失くせる自信があります。それで商売でもやろうかな、「レンタルものを失くす人」とか言って。ハハハ、死にたい。

番外編
海外でパスポートを落とした(1回)
電車にPCを置き忘れた(1回)
引っ越しの時に段ボールに鍵を入れていた(1回)

その後思い出したので追記(2020/3/18)
鍵を落とした(2回、音楽スタジオとコンサートホール)
Suicaを落とした(2回、駅と公園)
iPodを落とした(1回、井の頭線の線路上)

どうですか、そろそろ役満が見えてきましたね。海外でパスポートを落とした時は本気で焦りました。再発行するときに向こうの大使館で出してもらった書類は、未だに教訓として持ち歩いています(その教訓が生かされず今回財布を落としました、意味ねえ)。いつか額縁に入れて、家宝として飾ろうかな。
こんな私でも社会人をやれています、皆さま明日も頑張りましょう。私はしばらく給料泥棒にジョブチェンジすることになりそうです。どうもありがとうございました。

日記

2020-03-11 23:16:53 | 日記
日記


また本を買ってしまった。
最近本を読んでいなかったのですが、仕事が少し落ち着いたので読書をしています。ただ読むだけでなく、それをもとに自分が考える行為(いわゆる「能動的」な読書)が重要なのだと思うけど、なかなかじっくり考えることができておらず。読んでいるものが知らず知らずのうちに蓄積され、いつしか自分のなかで形になっている、ということもあるのでしょうか。そう願いたいものです。

電車で読書している人が減ったように思います。
本なんて読まなくてもインターネットで知識(というか情報)が得ることが、ごく一般的になってきました。それでも書店に行くと本が平積みしてありますが、一体どのくらいの人が本を買って読んでいるんだろう、と疑問に思うこともあります。どんどん減ってきているんじゃないか。それが悪いことだとは思いません。本が民衆に届いたのはごく近代になってからですし、明治になって小説が広く普及したときには「最近の若者は小説ばかり読んでけしからん」と言われたそうです。読書という営みが人口に膾炙したのは、本当に歴史の浅いことなのですよね。

今私が書いているブログもそうです。ブログ形式のサイトは、2000年代に入って一気に広がったように思います。多くの人々がインターネットにアクセスできるようになったからでしょう。
でも今や、通信速度やPCスペックの改善があってか、YouTubeなどの動画配信サイトやTwitterやTik Tok、InstagramなどのSNSが席巻し、腰を据えて文章を追ってくブログは落ち目になりつつある。移り変わりが早いものです。もはや揺るぎないのは「移り変わりが早い」という人間の性質だけではないか、と思ったり。祇園精舎の鐘の声…というやつですね。

そういえば。
昔に比べると、よくわからない本とぶつかっても「まぁそのうちわかるか」と思えるようになった気がします。昔はもっと強迫的に読書をしていた気がする、あるいは「わかったつもり」になっていた気がする。わからなかった本を再読しても理解できないこともあるし、「一生わかんないだろうな…」と思う本もあります。それもしょうがない。自分の頭脳の限界を感じたり、「なんでこんなわかりにくくしか書けないんだ、馬鹿なのか?」と著者を罵倒したりして、読書をしています。マゾなんだろうか。

最近面白かったのは三浦雅士の漱石についての本。漱石の思想の変遷を母子関係、内的対象関係をもとに読み解いていく。なるほどと思うことが多かったし、「自分が愛されていないのではないか」といった疑念にとらわれ続ていたのであれば、きっと彼は生涯苦しかったのだろうな、と想像してみたり。だからあれほどの苦悩に満ちた作品を書けたのかもしれません。

とはいえ。
あれこれと本を読んでも「それが何になるんだろう」と思う自分もいます。一生懸命勉強したり、考えたりする行為。人間ができること、成し遂げられることには限界があるし、自分が頑張っても何もならないんじゃないか、ふとそうした虚無感が忍び寄ってくることがあります。飛躍した考えであることは承知しているけど、どうしてもそう思うことがある。

もちろん何かを目指して本を読んでいるだけではなく、純粋に楽しいし面白くて本を読んでいる自分もいます。そのせめぎ合い。きっとそれは読書という営みだけに生ずるのではなく、仕事や対人関係、趣味においても同じことなんでしょう。

さて眠くなってきたから寝るか。明日も頑張ろう、そう思いながら本を携えてベッドに向かいます。皆様今日もお疲れさまでした。

「子どもの臨床」の中の居心地の悪さ

2019-12-24 10:57:45 | 日記
年末だし真面目なことでも書こうかな。
今年ももうすぐ終わりますね。皆様にとって今年はどんな一年でしたか。私は様々な学びのある年でした。頑張りました。頑張った総括として、今日はブログでも綴ります。たまには自分のやっている仕事について駄文を少々。そういうのが苦手な人はブラウザバック推奨です。



以前どこかに書いたと思うが、私は主として子どもの臨床を生業としている。身バレを避けるために詳しいことは言わないけれど、その領域で働いていると、時々子どもが「かわいそう」という意見を耳にする。私はこの「かわいそう」という言葉にどうしても馴染めず、聞くたびに落ち着かない気持ちになる。
たとえば虐待を受けた経験がある人、頻繁にDVを目撃する子。はたまた親がアル中だったり、逮捕されたり自殺したり…その子たちの不幸は―もちろん完全には無理だが―ある程度想像できる。多少なりとも心を痛めることもある。しかしながら、例えば虐待のニュースなんかを見ながら「かわいそ~」と人が話しているのを聞くと、微妙に居心地の悪い思いになってしまう。それはどうしてなのだろう。今日はそれについて考えてみることにする。


仮説その1「子どもに偏りすぎ説」
子どもと比べると、大人に対して「かわいそう」と言われることはほとんどない。子どもに「かわいそう」という感情を向けるのが間違えているとは思わないが、大人でも不幸な人たちがじゅうぶんいる。事故や病気、人間関係、家族の不和、自然災害。不幸のあり様は人の数だけある。トルストイも『アンナ・カレーニナ』の冒頭でそう語っている(らしい)。
「かわいそう」という言葉で表現するならば、大人だってかわいそうな人がたくさんいるのだ。人間関係で悩んでいる人もいれば、病気や障害のある人、孤独な人もそうだろう。長年付き合っていた恋人に振られたり、配偶者からDVを受けたりしている人も不遇である。でも何か、子どもにだけ「かわいそう」が使われることの多さ。その不平等感。これは一体どうしてなのだろうな、と思う。大人になると「自己責任」になるからだろうか。ある程度自分で意思決定が出来るからだろうか。

仮説その2「かわいそうと思うことが絶対正しい説」
上の仮説と若干重複する部分もあるが、子どもを「かわいそう」「大切にしろ」と思うことは、現代社会ではとても正しい命題だ。それに対して「間違っている」と異論を唱えることはほとんど難しい。
TVやインターネットを眺めていると、障碍者や生活保護、ホームレスなどの問題にはあまり出てこないのだが、こと子どもの社会問題になると「んま~子どもの不幸なんて許せません!この社会は腐っているザマス!」と声高に訴える人がにょきにょきと湧いてくる、雨後の筍のように。とりわけ某ポータルサイトのYahooコメ欄にたくさんそういう人がいる。
「子どもを大切にしろ」というメッセージはある意味絶対的に正しく、誰も反論できない力強さを持っていると言えるだろう。多少うがった考え方かもしれないけれど、それを理由にして「自分が言っていることは間違っていないのだ」「私は正しいことを言っている」と訴え、無意識的には自身の留飲を下げる欲望を持った人たちがいるようにも思う。


児童精神科医の木部が『こころの発達と精神分析』で綴っているように、人類の歴史のなかで子どもは大切にされなかった時期の方が圧倒的に長く、「子どもは基本的に虐げられる存在」であった(木部,2019)。近代の代表的文学作品であるドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』でも、虐待される子どもの悲痛に主人公の一人であるイワンが同一化して、この世の残酷さ、どうしようもない救いがたさが描かれる場面がある。今でも、一部の国では13歳で結婚して14歳で子どもを産んでいることが報じられる。人類にとってはそれがスタンダードの時期が長かったわけだ。

「子どもを大切に」というメッセージは、相手に有無を言わせないものがある。下手に反論すると白眼視されるだろう。しかし大切にしなくてはならないのは、子どもに限ったことではない。大人だって大事にされたい。というか人は一生のあいだを通して、「他者から大切にされたい欲求」をずっと持っているのだと思う。だから浮気をした相手を許せなかったり、息子や娘から邪険にされると意地になったりする人がいるのではないだろうか。ときとして、それが事件になることもある。それくらい「他者から大切にされたい欲求」は強いものである。

なんだか揚げ足取りみたいな話になってしまった。しかし「子どもを大切にしろ」と訴える人たちのなかには、本当は自分も大切にされたいのに、されていないと感じている人がいるかもしれない。自分のなかになにか薄黒い靄があるのかもしれない。そういった可能性に意識的でないまま、声高に「正しい」プロパガンダを訴える行為は背筋がひやりとするものがある。善意の暴走と言うべきか。


それから。
子どもには選択できることが少ない。金もなければ自由もない。虐待されている子が、自分の意思で逃げることはなかなか難しい。親は選べないのだ。それが大人と比べて「かわいそう」と言われる要因の一つでもあるのだろう。大人だったら周囲に助けを求めたり金を使って解決を図ったり、嫌な人から距離を取ったりできる場合もあるからだ(もちろん、そうできない人もたくさんいるが)。
だからといって、子どもがまったくイノセントな存在とも思わない。性的な空想も抱くし、子どもなりに残酷なこともする(幼少期の私はカエルを空に投げて遊んでいたし、ヘビを湘南乃風のように振り回していたし、殺虫剤を溶かした水を流し込みアリの巣を全滅させたこともある、ひどい奴だ。FF6ならカイエンが発狂して必殺剣を仕掛けてきそう。とても成仏できそうにない)。怒りや攻撃性、嫉妬のようなどろどろした感情も、子どもはずいぶん早い段階から抱き始める。彼らがが純粋で無垢な存在というのはファンタジーなのである。
でも不思議とそういう―子どもが無邪気で無垢であるという―認識をしている人がいる。さぞ幸福な幼少期を送ったか、抑圧や理想化の防衛機制が強いか、想像力に欠けた人なのかもしれない。

村上春樹の小説『海辺のカフカ』に出てくる甲村図書館の司書、大島さんは「想像力の欠如した人間が嫌いだ」と話している。私も同感であるが、ずっと想像力を働かせながら生きていくことは難しい。それはとても疲れる行為だから。

少し話が脱線するが、人間にはあらかじめ、「考えようとする力」と「考えないようにする力」の両輪が備わっていると思う。日頃生きているなかでは、仕事をどうしよう、今日の晩御飯は何を食べよう、私の進路はどちらがいいかな、といったことを考える。一方で「自分はどう死ぬだろうか」「私の一生はこれでいいのかな」といったすぐ答えが出ない問題には、考えないようにする力が働く。考えたところですぐに解決しないし、不安になるだけだから。その両輪のバランスが崩れた時に、人間は不調を起こすのかもしれない。

想像力について話を戻す。想像力をずっと働かせるのは困難だ。だから安易に人に同調することもあれば、「考えても仕方ないから」と諦めてしまうこともある。たくさんある。
近代登場してきたメディアやデバイスは、人類を全体的に「考えない方向」に突き動かしているようにすら感じる。すぐに新しい刺激を提示して、退屈や暇を忌避させようとしているように思う。そういった道具は使い方にもよるだろうし、一方的に悪だと断罪することはできない。便利になった部分も大きい。でもそういう可能性(考えることを停止させる機能)があることを、頭の片隅に置いておくことが大切なのではないか。それによって「考えないようにする力」が働きすぎていないか、時々立ち止まって考える必要があるのかもしれない。それが子どもとかかわる際に、影響をもたらす場合もあるのではないか。


と話が逸れてしまいました。考えているうちにあれこれ脱線してしまうのは、どうにも治りそうにありません。年末で人と会ったり酒を飲んだりばたばたしています。でも今年中にあと1回くらいブログを更新したいなと思っております。