サボっています。
最近の書き出し、ずっとこんな調子なんですが大丈夫でしょうか。
この人、本当に働いている時間があるのでしょうか。
そんな疑問が頭をかすめますね。
みなさまごきげんよう、お元気ですか。
短くて切ないGWが終わりました。
妻と出かけたり友人と飲んだりした程度で、そんなに遠出することもなく平和に過ごしていました。
ただ、久しぶりに労働に戻ってきたら辛いったらありゃしない。
労働ってこんなに辛かったかしらん。
なにが辛いって、世界はこんなにも明るくて美しく儚いのに、労働に時間を取られ、その美しさを味わえずに死んでいくことが悲しいのです。
そう、世界は苦しいし残酷だけど、同時に美しいのです。
歩きたい道、登りたい山、聞きたいラジオ、読みたい本、泊まりたい宿。
行きたいライブやコンサート、訪れたい場所、会いたい人、話したいこと。
そういったものが人生にはすごく溢れているのに。どうしてこうなのかなあ。
まあ、折り合いを、優先順位をつけていくしかないのでしょうが、この苦しみはしばらく続くことでしょう。
辛いね~。
楽しかったサガフロ2をクリアしてしまいそうです。
初期メンバーでハンの廃墟、最終メンバーで大ミミズの穴でみっちり特訓をしました。
ありがとうランドアーチン先生、青スケルトン先生、キャリアーアント先生。
その甲斐あってクリア後の強化将魔など恐るるに足らず。
魂の歌とガードビースト、マインドスケープにリヴァイヴァ、パーマネンスでバキバキに固めて。
そこから繰り出される「かめごうら焼活殺ウェイ」の前に、アワレにもズタズタにされた敵の姿がありました。
黄金の鉄の塊こと丙子椒林剣で殴られ、敵の生命は裏世界でひっそりと幕を閉じていきました。
あとは強化エッグを倒すだけです。終わるのが寂しいなあ。
4月から楽しみつつじっくりやっていたから、なおさら寂しい気がする。
サウスマウンドトップの戦いは1時間半くらい苦戦しました、これに関してはまったく寂しくないです。
本当にいいゲームだった。
あとは特に書きたいこともありませんが…。
何かよくわかんないけど、最近疲れているんです。
めちゃくちゃ忙しいというわけではないんですが…一体どうしてなのでしょう。
休みがあまりないからなのでしょうか。
人生の有限さは悲しいと思うけれど、いつまでも労働しなくては、と思うと早く楽になりたい気持ちにもなります。
チェーホフ『ワ―ニャ伯父さん』のラスト、ソーニャのセリフを思い出しますね。
「生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ。そして、ワ―ニャ伯父さん、伯父さんとあたしは、明るい、すばらしい、夢のような生活を目にするのよ。」
そうであってほしいよな、これはマジ。
先日マクベスを読んだのもありますが、人がなぜ悲劇を求めるのか、以前より少しわかる気がします。
「現実が辛いなら、ハッピーエンドだけに触れればいいじゃない!」とも思っていたけれど、悲劇でしか緩和できない苦しみがあると思うのです。
もちろん、悲劇に触れたときの感じようはそれぞれで。
「なんて悲しい話なの!」と涙したり「自分よりもっと苦しんでいる人がいるんだな…」と安堵したり、むしろサディスティックな気持ちが掻き立てられたり。
私の場合はどうだろう、まずは圧倒されて、ぐわーっと色んな気持ちが起きて、それから「辛かっただろうな…」という感情移入の気持ちが湧き上がります。そしてそこに、ある種のカタルシスを感じるように思います。
アメリカのプログレメタルバンド、ToolのVicariousという曲でもそんな歌詞が謳われていますね。
“We all feed on tragedy. It’s like blood to a vampire”
俺たちはみんな悲劇を喰っている。吸血鬼に対する血みたいなもんだ。
この曲も好きですが、年を取るとますます歌詞がしみるなあ。
興味本位の野次馬根性で悲劇を消費する場合はともかくとして。
少なくとも、悲劇に触れることで自分の抱いている苦しみが、いくぶん緩和されることがあるようにも思います。
人生、辛いよな。ブッダは正しい。
…みたいにわかったようなこと書いてきたけど、今調べたらこれ全部アリストテレス先生が『詩学』で言っているらしいです。ダサ、受け売りじゃん。
しょうがないから『詩学』読むかあ、帰りに本屋寄ろう。
最近の書き出し、ずっとこんな調子なんですが大丈夫でしょうか。
この人、本当に働いている時間があるのでしょうか。
そんな疑問が頭をかすめますね。
みなさまごきげんよう、お元気ですか。
短くて切ないGWが終わりました。
妻と出かけたり友人と飲んだりした程度で、そんなに遠出することもなく平和に過ごしていました。
ただ、久しぶりに労働に戻ってきたら辛いったらありゃしない。
労働ってこんなに辛かったかしらん。
なにが辛いって、世界はこんなにも明るくて美しく儚いのに、労働に時間を取られ、その美しさを味わえずに死んでいくことが悲しいのです。
そう、世界は苦しいし残酷だけど、同時に美しいのです。
歩きたい道、登りたい山、聞きたいラジオ、読みたい本、泊まりたい宿。
行きたいライブやコンサート、訪れたい場所、会いたい人、話したいこと。
そういったものが人生にはすごく溢れているのに。どうしてこうなのかなあ。
まあ、折り合いを、優先順位をつけていくしかないのでしょうが、この苦しみはしばらく続くことでしょう。
辛いね~。
楽しかったサガフロ2をクリアしてしまいそうです。
初期メンバーでハンの廃墟、最終メンバーで大ミミズの穴でみっちり特訓をしました。
ありがとうランドアーチン先生、青スケルトン先生、キャリアーアント先生。
その甲斐あってクリア後の強化将魔など恐るるに足らず。
魂の歌とガードビースト、マインドスケープにリヴァイヴァ、パーマネンスでバキバキに固めて。
そこから繰り出される「かめごうら焼活殺ウェイ」の前に、アワレにもズタズタにされた敵の姿がありました。
黄金の鉄の塊こと丙子椒林剣で殴られ、敵の生命は裏世界でひっそりと幕を閉じていきました。
あとは強化エッグを倒すだけです。終わるのが寂しいなあ。
4月から楽しみつつじっくりやっていたから、なおさら寂しい気がする。
サウスマウンドトップの戦いは1時間半くらい苦戦しました、これに関してはまったく寂しくないです。
本当にいいゲームだった。
あとは特に書きたいこともありませんが…。
何かよくわかんないけど、最近疲れているんです。
めちゃくちゃ忙しいというわけではないんですが…一体どうしてなのでしょう。
休みがあまりないからなのでしょうか。
人生の有限さは悲しいと思うけれど、いつまでも労働しなくては、と思うと早く楽になりたい気持ちにもなります。
チェーホフ『ワ―ニャ伯父さん』のラスト、ソーニャのセリフを思い出しますね。
「生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。安らぎはないかもしれないけれど、ほかの人のために、今も、年を取ってからも働きましょう。そしてあたしたちの最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。そしてあの世で申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、つらかったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださるわ。そして、ワ―ニャ伯父さん、伯父さんとあたしは、明るい、すばらしい、夢のような生活を目にするのよ。」
そうであってほしいよな、これはマジ。
先日マクベスを読んだのもありますが、人がなぜ悲劇を求めるのか、以前より少しわかる気がします。
「現実が辛いなら、ハッピーエンドだけに触れればいいじゃない!」とも思っていたけれど、悲劇でしか緩和できない苦しみがあると思うのです。
もちろん、悲劇に触れたときの感じようはそれぞれで。
「なんて悲しい話なの!」と涙したり「自分よりもっと苦しんでいる人がいるんだな…」と安堵したり、むしろサディスティックな気持ちが掻き立てられたり。
私の場合はどうだろう、まずは圧倒されて、ぐわーっと色んな気持ちが起きて、それから「辛かっただろうな…」という感情移入の気持ちが湧き上がります。そしてそこに、ある種のカタルシスを感じるように思います。
アメリカのプログレメタルバンド、ToolのVicariousという曲でもそんな歌詞が謳われていますね。
“We all feed on tragedy. It’s like blood to a vampire”
俺たちはみんな悲劇を喰っている。吸血鬼に対する血みたいなもんだ。
この曲も好きですが、年を取るとますます歌詞がしみるなあ。
興味本位の野次馬根性で悲劇を消費する場合はともかくとして。
少なくとも、悲劇に触れることで自分の抱いている苦しみが、いくぶん緩和されることがあるようにも思います。
人生、辛いよな。ブッダは正しい。
…みたいにわかったようなこと書いてきたけど、今調べたらこれ全部アリストテレス先生が『詩学』で言っているらしいです。ダサ、受け売りじゃん。
しょうがないから『詩学』読むかあ、帰りに本屋寄ろう。