砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

近況など

2021-09-21 18:30:04 | 日記
近況など

忙しいです。
9月はお勉強の用事があり、ときどき人と話す業務もあり、プライベートでも環境の変化があり。忙しくてなかなか仕事をサボれませんでした。
本当だったら今月どこかで島に行きたかったのに、ご時世+個人的な忙しさがあり、叶わないものになりました。悲しい。来年は絶対行こう、2週間くらい休み取って遠くに行きたい。


先日久しぶりタブッキの小説を読みました。
『イザベラに ある曼荼羅』という本です。友達から借りていて、長いこと借りっぱなしでした。
タブッキについては以前『島と女とクジラをめぐる断片』で書きましたが、彼の小説はいいですね。読んでいて旅に出たくなります。単純に風景描写がうまいというよりも、その風景に意味を含ませるのが巧みです。取り返しのつかない罪悪感とか、残された人のわびしさ、やるせなさなど。そういった情感を含ませるのが上手です。

たとえば漱石の『虞美人草』にも風景の描写はたくさんありますが、あれは読んでもなかなか頭に入ってこない。この時期の漱石の描写は漢文的で、難しい漢字がたくさん並べられているのもあるのでしょう。
例えばこんな具合です。

―神の代を空に鳴く金鶏(きんけい)の、翼(つばさ)五百里なるを一時に搏(はばたき)して、漲(みな)ぎる雲を下界に披(ひら)く大虚の真中に、朗(ほがらか)に浮き出す万古(ばんこ)の雪は、末広になだれて、八州の野を圧する勢を、左右に展開しつつ、蒼茫(そうぼう)の裡(うち)に、腰から下を埋めている。白きは空を見よがしに貫ぬく。白きものの一段を尽くせば、紫の襞(ひだ)と藍の襞とを斜めに畳んで、白き地を不規則なる幾条(いくすじ)に裂いて行く。見上ぐる人は這う雲の影を沿うて、蒼暗(あおぐら)き裾野から、藍、紫の深きを稲妻に縫いつつ、最上の純白に至って、豁然(かつぜん)として眼が醒める。白きものは明るき世界にすべての乗客を誘う。

...ハァ??って感じですよね。
ここまでくると、風景よりもただ漢字を眺めている気分になります。教師の職を辞し、新聞社に就職して第一弾の作品だったので気合が入っていたのはわかりますけれども。

あまり描写が少ないと想像しづらいし、かといって描写が過剰だと読み手の思考や想像力を阻みます。
過不足なく描写を行なうのは難しいものです。


それはそうと。
ひところはラジオばかり聞いていたのですが、最近また読書ブームです。今は『真夜中の子どもたち』を読んでいます。半年前くらいに読み始めたんですが、これがなかなか骨の折れる小説で。
舞台は第二次世界大戦後のインド。地名や習慣、風俗に馴染みが無いのもあって、ひいひい言いながら読み進めています。途中で急にメタ的な視点に戻ったり、現代日本に生きる私には荒唐無稽に思える話の展開だったりで、なかなか進まない。こんなに読むのがしんどいのはトーマス・マンの『魔の山』以来でした。

それでも少しずつ面白くなってきて、ようやく上巻が終わりそうです。今年中には読み終わりたいところ。これを読んだらヴァージニア・ウルフの『灯台へ』か、カーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』を読もうと思っています、楽しみ。積読として本棚に並んでいるので、いつでも読める状態です。


読書についてあれこれ。
本を読む喜びを覚えたのは、小学生に入る頃でした。
親戚に国語の教師をやっている人がいて、その人がときどき本をプレゼントしてくれたのです。ものごころがついて最初に貰ったのは『大どろぼうはハンバーグ大王』、小学生低学年向けの本でした。そのあとも『ルドルフとイッパイアッテナ』や『オーロラの下で』とか、あれこれ本を貰った気がします。私の兄も本を貰っていたはずですが、兄は読書があまり好きでなかったので、兄が貰った本まで私が読んでいました。

小学校高学年で江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」にハマり、家に帰っては図書室で借りた江戸川乱歩作品を1日1冊読む、という感じで過ごしていました。気持ち悪いですね。
確か途中で挫折したと思うのですが、『緑衣の鬼』『電人M』をはじめとして、少なくとも20冊は読んだと記憶しています。趣味の悪い天沢聖司みたいなことをやっていました。


人生で一番読書をしていたのは大学生になってからです。
恩田陸、村上春樹、小川洋子、吉本ばなな、堀江敏幸、保坂和志など比較的最近の作家をたくさん読みました。昔の小説も、志賀直哉や漱石、三島由紀夫はいくらか読みました。

あれだけ読んでいた作家たちと、今は少し距離があって。
ここ数年、日本の作品ではなく海外作品を読むことが多いです。
上述したタブッキに加えて、ポール・オースターやミルハウザー、ドストエフスキーやトルストイ、カフカ、古代ギリシャの作品(オデッセイア)など。

なぜ海外作品か。
その要因のひとつは「逃避」かもしれません。
村上龍や村田紗耶香が描くグロテスクな世界を読むと苦しくなるし、西加奈子や平野啓一郎を読むと今の自分の状況を振り返って「俺、このままでいいのかな…」という気持ちになるし。自分の境遇と比較して苦しくないのが、時間も空間も遠く隔たった海外作品なわけです。ある種遠い場所の遠い人々の生活であれば、羨ましくも思わないというか。ふーん、って感じで。
そう考えると、あまり現実を直視したくない私がいるわけです。

でも海外作品を読んだあとに日本の作品を読むと、まあ読みやすいこと。
するする読めちゃう。インド人の小説に費やすエネルギーの1/10くらいで読めちゃう。
そんなことを、先日友人から借りていた原田マハの『キネマの神様』を読んだ時に感じたわけです。そして、こういうのも悪くないじゃん、そろそろちゃんと現実を見た方がいいよな、と思ったりもして。ふたたび日本の作家の小説を読もうと思います。とりあえずリハビリに中上健次あたりを読もうかな。やっぱり苦しくなりそうで嫌だなあ。


でも。
まずはインド人の小説を読んでからです。
他人の思考に入り込むことのできるこの主人公、サリーム・シナイくんの方がよっぽど現実が見えてなさそうなので、読んでいて安心するんです…。