砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

□□□「Tonight」

2017-05-30 12:30:05 | 日本の音楽


私はカラオケに行ったとき、よっぽどネタ切れになるか、心底歌いたい曲がないかぎり「同じアーティストの曲は何曲も歌わない!」という変なこだわりがある(例えばオザケン「それはちょっと」→フジファブリック「バウムクーヘン」→Radiohead「Paranoid Android」→cero「Summer Soul」みたいな感じで入れる)。
そんなわけでこのブログでも1人1枚じゃないけれど、当面はアーティストにつき1枚ずつ紹介しようと思っている。作家についても1人につき1冊。まあそんなにネタがあるわけでもないので、正直いつまで続くかわからないが笑


暑い。5月末とはいえ東京はもう30度を超える日がぼちぼち出てきはじめている。冬のあいだは夏を恋しく思うが、実際にやってくるとそれはそれで辛いもの。蚊は出るし、外を歩いていると倒れそうになるし、夜は寝苦しいし。もちろん悪いことばかりではない。山に登ったあとに飲むビールは本当にうまいし、なんなら軽くジョギングしたあとのビールでも美味しい。それから夕焼けを遠くに見ながら、外の空気に触れて誰かと一緒に飲むビールなんてのはもっと最高だ。あれ、夏が待ち遠しくなってきた。

清少納言は『枕草子』で「夏は夜」と言っていたが、私は夏の明け方も結構好きだ。早起きした日に、まだ暑くなる前に散歩するととても気持ちがいい。伸びをしながら、まわりの景色を見ながら、ゆっくりと歩を進める。そんなときふと聴きたくなるのがこのアルバム、□□□の『Tonight』である。
今まで紹介してきた人たちに比べて彼らはやや知名度が低いかもしれない(失礼)。関係ないがこのブログを書いていてよく(失礼)と打っている気がしてきた。自分がもともと失礼な人間だから仕方ない部分もある。ただ、真実を伝えようとすることが誰かをふいに傷つけてしまうことだってある、残念ながら致し方ないことだ。ともかく関係者の方には大変申し訳ない、まあ読んでいないと思うけれども万一見ていたら本気で許してください、ごめんなさい!なんでもしますから!えっ、どうかそれだけはご勘弁を!この米は!この米だけは~!!

話を元に戻す。彼らは□□□と書いて「くちろろ」と読む。変な名前だ。このグループはVo/Keyの三浦康嗣(ミウラコウシ)が中心となっていて、過去のメンバーは結構流動的だったのだが、現在は元Natsumenの村田シゲ(Ba)と、作家でもあるいとうせいこう(Vo)の3人組になっている。ほとんどの作詞作曲は三浦氏が担当している。そして今日紹介する『Tonight』は2008年にリリースされた、いとうせいこう氏が加入する前、まだヒップホップの色がそこまで濃くない時期のものだ。

私は初期のなごやかなシティポップ路線も好きだし、いとうせいこう氏が加入したあとの曲も好きなんだけれども(『everyday is a symphony』は「Moonnight Lovers」とか「卒業」とかいい曲がたくさん入っているし、『CD』や『マンパワー』も面白い作品だった)、でもこの作品が彼らの中では一番好きだし、繰り返しよく聴いていると思う。
1曲目は疾走感と浮遊感のある「Skywalking」、管楽器のアレンジがいいし、後ろで鳴っているアコギがとてもいい具合にリズムを刻んでいる。続いてタイトルトラックの「Tonight」。この曲は、はちゃめちゃな演奏(特にドラム)にストーリー性のある歌詞が乗っているのだけれど、途中で走馬燈のようなシーンがあって「正月の西新宿のビル街」「海」「クラブ」「セックスの後の蝉の声」と畳みかけてくる箇所がとても好きだ。歌詞の描いているストーリーは「自殺しようとして、生き返って、死にたくないって強く思う」と、ベタというか、クサいといえばクサい展開なのだが、それも悪くない。

M2「Tonight」


しかしそこからトーンダウンし、一転してクールな雰囲気になる。ベースやDJのスクラッチ音が前面に出ているM3「World/Money」以降は、打ち込みやサンプリングを多用した実験色の強いサウンドが混じっている、というか入り乱れていて、どこかLantern Paradeに近い雰囲気を感じる。ただ□□□のほうがより現代的でクールな感じがするけれど。一方、Lantern Paradeは抒情的でセンチメンタルな雰囲気が強い。どちらがいいとか悪いというのではなく、好みの問題である。

さてアルバムの中盤では、乾いたギターの音と鍵盤の掛け合いが格好いいM6「AM 2:08」や、フィッシュマンズや一時期のPolarisを思わせるダブっぽいサウンドのM7「Tokuten Lovers」が好きであるが、そこからまたさらにポップ路線に移行していく。M8「夏の魔法」はストリングスの奏でるイントロに軽快なドラムのリズムが乗って(特にハイハットの音が良い)、お洒落なポップサウンド全開なのだ。歌詞もいい。

―そのせつなさはビール カラカラ喉に響く
 生きてる実感の一杯さ
 でもいつも 一杯じゃ止められなくって
 気づけば朝日に照らされて 一人ぼっちさ


どうだろうか、実にビールが飲みたくなるリリックではないだろうか。自分がさっきからそればっかり言っている気もする。要するに飲みたいのだ。
続く「To Night」から「リフレイン」への流れ。本作のハイライト、M10の「リフレイン」は、少し鼻にかかったような優しい声で歌われるメロディラインが本当にきれいだ。あなたちゃんと歌うと歌めっちゃうまいじゃない!いい声じゃないの!と、このあたりではっとする(遅いか笑)。イントロに流れるストリングスはちょっと癖がある上昇音階だが、Voの声がいいのと歌のメロディが安定しているためか、聴く人にそこまで強い違和感を与えない。
そして曲の最後の歌詞では「死んだように長いまどろみに 君の声で目覚めたある朝」と、わずかながらに2曲目「Tonight」との関連性が見出される部分がある。この曲の内容は一言で言うと「新しい他者の発見」だと思う。深読みしすぎかもしれないが「Tonight」が死をテーマにしているとすれば、「リフレイン」は再生をテーマにしているようにも感じられる、リフレインという言葉に「繰り返し」や「反復」という意味があるように。なんだか伏線回収みたいだな。

本作は中盤の実験色が強いが(というか基本的に□□□のアルバムは実験色が強い、毎回新しいことにチャレンジしようとしているし。だからあんまり売れていないのかな)全体を通して非常にバランスよくまとまっているアルバムだ。メリハリあるというか、クールとポップの均衡が絶妙である。お洒落だけではない、2000年以降の、新しいシティ・ポップのかたちなのだと思う。



たまにはM8やM10みたいなポップ路線の曲ばかり入ったアルバムがあってもいいと思うのだけれど(私は絶対に買う)、彼らはそれに満足しないのだろうな。まだ最新作『Japanese Couple』は聴けていないので、今夜帰りにでもレンタルCDショップに寄りたいと思っている。今度はいったいどんなアルバムになっているのか全然想像がつかないが、彼らならきっといい方向に期待を裏切ってくれることだろう。

斉藤洋「ルドルフともだちひとりだち」

2017-05-27 11:58:23 | 日本の児童文学


近況報告、首のヘルニアになりました。
動くのがいちいちしんどい、洗濯物を干すのに上を向くのがつらい、痛くて寝返りで目が覚める、とかなりHellがnearな感じでしたが(※ 笑いどころ)痛み止めのお陰でなんとか生きています。以前知り合いがヘルニアになっていたので「や~いヘルニア星人~。お前んち、おっばけや~しき~」とからかっていたのですが、これは本当に辛い。友人ごめん、お化け屋敷ごめん。そんな今日この頃です、近況報告終わり。


ブログを立ち上げてからずっと音楽の話をしていたので、今日は趣向を変えて本を取り上げてみる。別に音楽の方がネタ切れとか、他に書くことが思いつかなかったとかいうわけではない。断じてない。そういうのとは違うので誤解をしないよう、悪しからずご了承いただきたい。
さて、ご紹介するのは児童文学作品の『ルドルフともだちひとりだち』である。もし明日死ぬなら最後になにを食べる?という質問に、寿司も食べたい肉も食べたいガパオも食べたいと思う私だが、最後になにを読む?という質問には迷わずこの本を選ぶだろう。

本作は『ルドルフとイッパイアッテナ』という作品の続編にあたる。ルドルフとイッパイアッテナは2016年夏に映画化されていたから(なんで今更?と思ったけれど)記憶にある人もいるのではないだろうか。それにしてもこの本の装丁。デザインした人には悪いが、子どもごころにちょっと怖い絵柄じゃないか。特に目。もしかしたら読者を試しているのかな。いやそんなことはないか。
基礎的なデータを少し書いておこう。作者の斉藤洋氏は1952年、東京の江戸川生まれのドイツ文学者である。29歳のとき『ルドルフとイッパイアッテナ』で児童文学作家としてのデビューを果たし、その続編である本作は2年後の1988年に出版された。他にも『ペンギンたんけんたいシリーズ』『なんじゃひなた丸シリーズ』など数々の優れた作品を残し、日本の児童文学界に果たした役割は大きい(と勝手に思っている)。現在は亜細亜大学の教授をやっている。
私はこの斉藤洋氏の作品を結構読んでいる方だと思うけれど、本作が一番好きだ。そして次点で『ドローセルマイアーの人形劇場』だ。実家に帰ったときには必ずと言っていいくらい読み返している。これもすごくいい本なので(しかもすぐ読める)、もし興味がある人はぜひ手に取ってみてほしい。

内容について話していこう。あらすじを簡単に書くと、これはふとした過ちで岐阜から東京の江戸川付近に来てしまった黒猫ルドルフの物語である(つまり作者の出身地のあたりが舞台だ)。ルドルフは、東京で知り合った兄貴分的な存在のトラ猫「イッパイアッテナ」や、ひょうきんもののぶち猫「ブッチー」らと交流しながら、なんとかして故郷の岐阜に、飼い主のリエちゃんのもとに帰ろうとする。そんななかで主人公のルドルフが人間的に(というか猫的に)成長して一人前になっていく。
作者の斉藤洋氏が公言しているように、前作と本作は一種の「教養小説」である。作者がドイツ文学を専攻していたというから、その影響がきっと大きいのだろう。ネコから原稿を貰った、という書き出しはケストナーの『飛ぶ教室』に近いものを感じるし、様々な人(本作の場合は主に猫)や体験に触れて、ときには失敗もして、友情が深まったり恋をしたりして主人公の内的な世界が広がっていく、という構図はトーマス・マンの『魔の山』に通ずるところがある。同じくドイツ作家のヘッセの作品にもそういったところがあるように思う、『デミアン』とか『知と愛』とか。あっちのほうはもう少し具合が悪い気がするが。破局的な場面も多いし。

児童文学を侮るなかれ。短いながらも読みごたえがある。前作も「ぜつぼうはおろかもののこたえだ」という箴言めいたことを猫が話していたり、「そういうのは教養がない猫がすることだぞ」と主人公が窘められたりと、人間顔負けのことを猫が語っている。
その点に関しては本作も負けず劣らずである。イッパイアッテナの飼い主のエピソード、デビルとの仲直りのシーンは胸が温まるし、あと「恋ってなんだ!」とか「強いってなんだ!」とか、思春期的な心性もうまく書かれているように思う。大人になって読み返してみても「そうそう、たしかにそういうことで悩むよね~」と猫に共感する部分が多い(まあ書いているのは人間なのだが)。
なにより、ちょっと踏み込んだ話というかネタバレになってしまうが、最後のシーンがとてもよいのだ。頑張った末、主人公の望みが達成されたかと思ったときに自分の居場所がないと思い知ったあの場面こそ、この作品の一番の見どころだろう。そしてそのとき、自分がかつて理想の対象として感じていた「イッパイアッテナ」の名で名乗るシーンは本当にぐっとくるのである。自分が大人に、一人前になってしまったときには、もうもとのように戻れないのだ。「主人公が成長していく」という単純な教養小説ではない、成長すると同時に自分たちがなにかを失っていくのだ、ということを考えさせられる(逆説的に考えるなら、なにかを失うから成長していく面もあるのかもしれない)。
書いていたら読み返したくなってきたので、家に帰ったら読み返そう。1時間もあれば読める作品だ。前作と併せておよそ2時間もかからない、近所の図書館にも置いてあるだろうから時間に余裕がある人にはぜひ読んでもらいたい。その2時間弱は、きっと意味のあるものになるはずだ。


この本は1作目「イッパイアッテナ」とセットで親戚のおばさんからもらった。私がまだ小学生低学年の頃だった。それから私は本を好きになって、今でもたぶんそれなりに読む方だと思うけれど、昔よりかは読むペースが落ちている(年齢を重ねて、本をずっと読んでいるのがしんどくなったのもある)。私自身、いわゆる「教養小説」の主人公のようにシンプルにすいすいーっと成長してきた気はまったくしていないが、自分もなにかを失いながらも前に進んでいるのだと思う。このブログを読んでくれている方のなかにも、きっとそういう人がいるのではないか。


※上述したように、この人の作品をたくさん読んでいるつもりだったけれども、調べてみたら全然読んでいなかった。お恥ずかしい限りである。そして作者が実に多作だということも知った。しかし私がここで挙げた2作(『ともだちひとりだち』と『ドロセルマイアー』)が好きなのは、たぶん他の作品を読んでも変わらないだろう。

キリンジ「For Beautiful Human Life」

2017-05-22 15:54:35 | 日本の音楽




本当にあった怖い話

今朝、ずいぶん朝早く目が覚めたんです。部屋の中がうっすら寒くて。
そのとき「日曜なのに早く起きちゃったな、もったいないことをしたな」と思ったんです。
でもなんだか、漠然とした違和感みたいなものが自分のなかに生じてきて。
なんだろうな、気持ち悪いなと思ってふとんの中でもぞもぞしていました。
そしてふと携帯の画面を見ると、あることに気づいてしまったんです。
・・・なんと今日は月曜日だったんです・・・!!


みなさまこんにちは。平日がやってきました、今週も砂漠の音楽をもりもり更新していきましょう。
平日から音楽についてじっくり考えられるなんて、ほんとにまったく最高だなー!!!


さて今日ご紹介するのはキリンジの5枚目『For Beautiful Human Life』だ。本作は2003年にリリースされた、彼らが東芝EMIに移籍して初のアルバムである。プロデューサーはMISIAのプロデューサーとしても知られる冨田恵一氏。だがキリンジが彼と手を組んでいたのは、1st『ペイパー・ドライヴァーズ・ミュージック』(以下PDMと表記)からこのアルバムの5枚までだ。その後かなり経ってから『SUPER VIEW』で「早春」という曲をプロデュースしているが、アルバム全体をプロデュースすることはもうなくなった。つまりこの作品で袂を分かったわけである。

キリンジはアルバムのタイトルに頓着していないようで、その実かなり凝っているバンドだ。2枚目の『47'45』はフルマラソンの42.195kmにかかっているのか(ジャケ写で兄が走っている)あるいはアルバム全曲の長さなのかわからないが、47から45を引くと「2」になる仕様だ。『3』『7 -seven- 』みたいにシンプルに数だけのタイトルもあるけれど、4枚目『Fine』は4文字、8枚目『BUOYENCY』は8文字、9枚目の『SUPER VIEW』は9文字と文字数に仕掛けがあることもある。そんななか不思議なのは、この『For Beautiful Human Life』というアルバムのタイトルだ。5枚目だということを感じさせる気配がないのである。
なぜ?今までのこだわりはいったいどこへ?と思わなくもない、というか思わずにはいられない。単語の数は4つだし、強いて言うならHumanが5文字だが、さすがにそれはこじつけのような気がする(それとは別に1枚目の『PDM』もタイトルの意図はよくわからないが、それはまた後日取り上げることにしよう)。

上に書いたように本作が冨田恵一氏との最後の共同作業になったわけだが、このアルバムは『PDM』を世に生み出して以後、キリンジが目指してきたもののひとつの完成形なのだと思う。だからこそ、最後の最後に今までとは趣向を変えたタイトルを付けたのかもしれないし、それとはまったく関係なくレコード会社から「お前ら最近人気なんだから、3とかFineとかじゃなくてもっと売れそうなタイトルにしろ」という指令がでていた可能性もゼロではない。そのあたりのことはよくわからない。
たしかこのFor Beautiful Human Lifeというフレーズは、長らく化粧品会社カネボウのキャッチコピーであった。おそらく「美しい人生のために」と言いたいのだろう。しかし英文的には全くの誤りで、Lifeだけで「人生」と意味が通るはずのところを、わざわざHuman Lifeと表記すると「人命」と医療的なニュアンスが強くなるらしい。つまり「美しい人命のために」と救命救急のような話になってしまうのである。と考えると余計な「Human」が5文字だから5枚目ということだろうか?なんだかいよいよ妄想めいてきたな。

それはさておき。おそらくこのタイトルはわざと、というかブラックジョークのようなものだろう。計算高いキリンジの兄(高樹氏)が安直なミスをするはずないし、このアルバムは皮肉で満ちている。だって冒頭の曲「奴のシャツ」から働かずにぶらぶらしているいい大人の話だし、M8「ハピネス」は優雅なマダムを揶揄する曲だ。素直に「美しい人生をららら~」と歌っているわけでないのは明白である。「あなたたちの言う美しい人生って、間違っているんじゃないですか」と、黒縁眼鏡の奥で静かに笑みを浮かべる兄の姿が目に浮かぶようだ、いやさすがにそれは考えすぎか。
今までにもそういう皮肉たっぷりの曲はあった。2枚目の「Drive me crazy」はマリンバの音がかわいらしいけれど車で人を轢いちゃう話だし(個人的にこの曲は大好きだ)、「ダンボールの宮殿」もサックスのメロディが洒落たスティーリー・ダンのような曲だが、歌詞の内容はタイトルから推して知るべしといったものだ(支店長はここから飛び降りているし)。

だけど本作は、もっと暗く、ずっしりと重いのである。『Fine』の頃までに見られていたようないたずらっぽさや軽妙さは薄れ、気だるさのようなものが漂っている。アップテンポの曲も少ない。だからこそ「僕の心のありったけ」や「スウィートソウル」といった明るい曲、スロウバラード曲が映えるのだろう。ちなみに「スウィートソウル」は夏の夜の散歩中に聴きたい曲第1位である(私調べ)。
もちろんただ暗いだけではない、美しいのである。後ろで鳴っているギターやピアノのフレーズ、ドラムのリズム一つをとってみても、非常に考えられて洗練されていることがわかる。そこにコーラスが重なって、絶妙なバランスでこの雰囲気が生まれているのだと思う(そのせいでライブはなんていうかその、えーと、うん。まあ色々難しいよね、そもそも自分たちで自分たちの首を絞めすぎだろっていうね!)

歌詞も聞き流していると意味がわからない部分は多いが、じっくり読んでみると美しい。
特に好きなのはM3「僕の心のありったけ」

―見苦しいほどに 嫉妬してみたり
 大切な人に 裏切られてみたり
 時の流れのほとりで手を振る人に 巡り合いたい


どうしたらこんなフレーズを思いつくんだろうな。この曲は間奏のドラムのロール、アクセントの位置が耳に心地よい。歌詞の意味はいまひとつよくわからないけれど。「僕の心のありったけを 君の中の宇宙に放ちたいのさ」と歌っているからてっきりエッチな意味なのかと思ったが、彼らのインタビューを読む限りどうもそうではないらしい。ことによると身体的ではなく、心的な交わりのことを意識しているのかもしれない。それがどんなものか、すぐにはぴんとこないのだけれども。
ただ全体的に暗い雰囲気があるゆえに、今までのキリンジにできたような「流し聴き」が本作では困難である。休日の朝にかけたりしたらそれこそ大変なことになる。だって陰鬱なんだもの。でもじっくり聴くと本当にいいアルバムだ、元気があるときじゃないとなかなか通して聴けないけれど。


それにしてもキリンジは曲のクオリティのわりにあまり売れていないのだけれど(失礼)、でも何か作品を出すたびに「僕ら頑張って今回こんな作品をこしらえたんですけど、どうですか?いいでしょう?」と問われているような気がする。アルバムごとの作風がずいぶん違うのもあるし、歌詞の内容(特に高樹氏)は目の付け所がおかしいのもあるだろう、過払い金返還の歌とか作っているし。
彼らの音楽を聴くと、出かけるたびに新種の昆虫を発見して持ってくる子どもを見ている気持ちになるのは私だけだろうか、私だけかもしれないな。


もう堀込兄弟が二人で作り出す新しい音楽は聴けないが、解散はあまり寂しくなかった。だって後期にいくほど、二人の方向性がはっきり違ってきているのがわかっていたから。彼らもまた袂を分かったのだ。

フジファブリック「FAB FOX」

2017-05-18 11:12:51 | 日本の音楽


彼が亡くなってもう何年たつのか、だんだん忘れてきている


ちょっと気が早いけれど、もうじき梅雨がやってくるから今日はこの1枚を(投稿時間を気にしたら負けだと思う)。
フジファブリック、メジャーデビューして2枚目のアルバム『FAB FOX』。この作品は、おそらくフロントマンの志村正彦(Vo/Gt)が一番思い悩んでいた頃のものじゃないだろうか。志村が生きているときの後期の作品『CHRONICLE』なんかも、きっと思うところがあったんだろうけれど(ポリープの手術とかあったし)、でもそれぞれの曲の持つ「重さ」というか「エネルギー」はこの作品に収録されている方が濃密だ。だからこそ、頭を鈍らせる梅雨の湿気を吹き飛ばすにはもってこいだと思う、ちょうど「Sunny Morning」「虹」といった、晴天を思わせる曲も入っているしさ。

1stアルバム『フジファブリック』はメジャーデビューしたこともあって、「見せてやるぜ」という意気込みが伝わってくるような野心作だった。日本のバンドでは珍しいことに、いきなりバンド名をアルバムのタイトルにしたこともその表れではないだろうか(1stアルバムをセルフタイトルにしたバンドを、私は「レキシ」とか「スピッツ」くらいしか知らない笑)。
その作品に収録されているM3「陽炎」M9「赤黄色の金木犀」は文句なしに良曲だし、M6「Tokyo Midnight」は60年代ロックみたいな音楽に「パジャマで~パヤパヤ~♪」みたいなどこまで真面目なのかわからない歌詞が乗っかっている変な曲(誉め言葉)で、M8「サボテンレコード」にはひねくれたリズムとサビのポップさがいい具合に併存している。後半の山内氏によるギターも格好いい。
それまでインディーズから発売されていた『アラカルト』などの要素がちりばめられつつも、くせのあるコード進行やメロディ、意外性のある展開から、フジファブリックの魅力が存分に発揮されているものだと思う。ただちょっとした気負いみたいなものもあるのか、志村が書く詞には後期作品にみられるような「自分のどうしようもなさ」「自分の弱さ」みたいな部分はまだ表れていない。そこはちょっと惜しいな、と思う。


今回紹介する『FAB FOX』はどうだろうか。正直言ってこの作品はなんだかよくわからない。1stよりもまとまりがないと言ってもいいかもしれない。いきなり変なリフで始まる「モノノケハカランダ」(これはギターのことを歌った曲らしい、「ハカランダ」とはブラジリアンローズウッドという、楽器の素材となる樹木の別称である。3回目のAメロのギターが格好いい)、中盤の「マリアとアマゾネス」「地平線を超えて」は志村が好きな60~70年代ロックをこねくり回したような曲で、「唇のソレ」はカントリー調のフェティッシュ曲、「水飴と綿飴」はセンチメンタルなバラードだ(この曲はギターの山内氏によるものである)。
でも全体を通して聴いたとき、一番心地よいというか「ああ、一つの作品を通して聴いたな」という実感を持てるのは、彼らのなかではこのアルバムだと思う。曲の配列が良いのもあるだろうし、他のアルバムにはない独特のテンション(緊張感)があるからかもしれない。そしてたぶん金澤ダイスケ(Key)の、縁の下の力持ち的な影響が強いようにも思う。

この作品は、なんといっても後半の畳みかけがすごい。「虹」「Birthday」「茜色の夕日」という並び、圧巻。特にM11「Birthday」の存在が大きい。4枚目の『CHRONICLE』の最後に入っている「ないものねだり」という曲もそうだけど、終わりの方にこういう曲を入れてくるのがまた憎いというかなんというか。ぐっとくるのである。アルバムももうそろそろ終わりだな、と肩の力が少し抜けたタイミングで、ちょっとひねくれているけれども可愛げのある曲を志村に歌われると。

―今日は特別な夜さ 素敵な夢を見れたらなあ
 明日が待ってる ゆっくり帰ろう
―今日は特別な夜さ 素敵な夜になりそうだ
 みんなが待ってる 急いで帰ろう 「Birthday」


「素敵な夢」はひとりの世界の話だし、「みんなが待っている」というのは人と交わっているときの話だ。
私たちはこうやって、ひとりの時間と人といる時間を交互に繰り返して、歳をとりながら生きていく。人が生きるうえではどちらも大切な時間だ。そうやってひとりで、ときに人と関わっていくなかで自分が生きているという実感を、ほんのりだけれど意識させる歌詞ではないだろうか。
そんな解釈はさておき、飾り気があるわけでもないが実にいい曲だと思う。「小さい頃はなんにでもなれると思っていた」という、誰もが思ってはやがて忘れていっちゃうようなことを、とても丁寧に言葉に、曲にしている。

そして本作の最後を締めくくる「茜色の夕日」だけ、インディーズ時代の曲を再録したものだ。「線香花火」とか「環状七号線」「消えるな太陽」とか、他にもいい曲はたくさんあるのに、どうしてこの曲がアルバムに入ったのだろうか?
ただたんにいい曲だから、というのもあるかもしれないけれど、実際のところどうだったんだろう。「茜色の夕日」は、志村が山梨から東京に出てきて初めて作った曲だと聞いたことがある。このアルバムに収録したのは、自分はここからスタートしたんだ、という彼の思いもあったのかもしれないし、今までやっていたことを清算してもう一度スタートしようとしたのかもしれない。彼にとって思い入れが強い曲であることは間違いないだろう。この曲も山内氏のギターが格好いい、派手ではないけれどいいところにいい具合にギターが入っている。

このアルバムを出したあとドラムの足立氏が音楽性の違いを理由に脱退し(私は志村からクビ宣告されたのだと思っているけど)、バンドの雰囲気はまた違ったものになっていく。そこから先の音楽もまたいいんだけれど、それは別の機会にお伝えすることにしよう。
とはいえ、もういない志村のことを考えながらこのアルバムを、「茜色の夕日」を聴くと、なんとも言えない切ない気持ちになるものだ。


それにしても変なジャケットである。若い人が見たら某MAN WITHと勘違いしそうだ。

cero「My lost city」

2017-05-16 10:33:05 | 日本の音楽


I have nothing to do without writing my blog.
OMG,WTF. I feel so Paaaaathetic!!

Today, I wanna pick up "cero", Japanese city pop band.
Their 2nd Album is "My lost city", which is named after the same title essay written by S.FitzGerald.
I like their exotic music and mysterious lyrics, so I try to tell you their attractive points.


はい限界(語学的な意味で)。
多少の文法的な誤りには全身全霊で、心頭滅却して目をつぶっていただきたい。
えっ、どうしてできもしないのに英語で冒頭を書いたのかって?
それは仕事がひm(ry
はっはっは、剣呑剣呑。

さて今日は、最近の日本のポップシーンで重要な存在になりつつあるcero(セロ)の2ndアルバム『My lost city』について話したいと思う。
このごろ彼らは「ご本、出しときますね」という番組のBGMで使われていたり、SMAPが解散する直前のスマスマに出演して「Summer Soul」を歌ったりとメディアでの露出がにわかに増えているが、どうしてこんなに急に売れたの?という感じがしているのは私だけだろうか。

正直に言って私はこのバンドの歴史をあまり知らない。2011年の東日本大震災が起きたあと「大停電の夜に」という曲が発表され、ネット上でちょっとした話題になったことは知っていた。だけどその時にはぐっと来なくて、へえ最近のちょっといい感じのバンドなのねくらいにしか思わず、1stアルバムの『WORLD RECORD』はちゃんと聴かずじまいだった。当然2作目も聴いていなかった。
それからしばらく時間が経って、たぶん3枚目の『Obscure Ride』がまだ出る前のこと。友達の家で酒を飲んでいる時に、たまたま「Summer Soul」を聴いて私のもとになにかがびびっと来たのである。そして後日レンタルCDショップに駆け込みCDを借りようとしたものの、ちょうどこのアルバムしか置いていなくてとりあえずこれを借りたのだった(気に入ったので後日ちゃんと買った、もちろんその後Obscure Rideも買った)。


このアルバムについて。1枚目のような素朴さはなく、3作目のような乾いたクールさもない。どちらかというと湿度が高い感じがある。それはたぶん「雨」や「波」といった水に関する言葉がちりばめられているのもあるんだろうけど、作品にエネルギーが凝集しているというか、全体的に音数が多くて空白、あるいは余白が少ないのもあるのかもしれない。曲はシンプルでポップなものもあれば、M3「マイ・ロスト・シティー」やM6「船上パーティ」などの異国情緒あふれる妖しい雰囲気の曲もある。アレンジは曲単位でかなり異なっている。そのせいか他の作品に比べていい意味でばらばらというか、ちぐはぐというか、そんな印象を受けるのだ。
そして歌詞。この人たちの歌は、ときどきなにを言っているのか、なにが言いたいのか本当にわからない歌詞が多い。

―ちぎれた雲の合間から見える カメラ・オブスキュラ※1 「Cloud Nine」

―わたしを殺す正体が 涙するあなたの鼻の奥に
 わたしの住む街が あなたの笑うそのまなじりに
 わたしの願う世界が あなたの寄せるその眉間に広がっている 「スマイル」


このあたりは一聴しただけではよくわからない、というか何度か聞いてもよくわからない。
とはいえ、すべてが理解できないわけでもない。前作の「大停電の夜に」からの流れを引き続いて

―放たれた家畜とエネルギー 水蒸気爆発
 (中略)
 都市の悦びを支えてるもののタガが今外れた 「マイ・ロスト・シティー」

―あーなんか 一切合切が元通りになったようなこの街 「わたしのすがた」


こんなふうに、震災の余波を感じさせる歌詞が随所にみられる。ただそれらはあくまで「断片的」だ。思い出したかのようにときおり歌に登場するだけで、曲やアルバムを統一してひとつのストーリを形成しているわけではない。

では、この作品の魅力はどこにあるのだろうか?
上述したように、本作における彼らの音楽は実に多様だ。一曲目の「水平線のバラード」はアカペラ曲だし、M9「roof」はサティのピアノとジャズが融合したような曲もあれば、M10「さん!」は跳ねるような歌ものポップソングだし、M11「わたしのすがた」は打ち込みのリズムにヒップホップのような歌が乗っている。それを「多様」と言えばそれまでなのかもしれないけれども、前回取り上げたようなフリッパーズギターのような、つぎはぎ感がある。

1枚目『WORLD RECORD』ではAverage White BandやPenguin Cafe Orchestraが元ネタの曲があるし、3枚目の1曲目はD'Angeloの『VooDoo』の出だしに酷似しているし、おそらく彼らの曲にはいろんなところに「元ネタ」があるのだろう。私はあまり詳しくないから、他の曲にも明確な元ネタがあるのかどうかはわからない。けれど、たぶんいろんなところから仕入れたものを彼らなりに消化して創造した結果、この「つぎはぎ感」が生まれてきているのだと思う。いや、より正確には「ばらばらでつぎはぎだけど、全体としてはポップにまとまっている感」と言うべきか(長くなってしまった、だけど他になんて言えばいいんだ)。

でも今の時代ってそうじゃないか?と私は思う。情報の波は氾濫して趣味や個性は多様化して、なにが「正しい」とか「間違っている」なんて簡単には判断できなくなっている。そういったなかで地震は起きて津波はたくさんの悲しみ、喪失を引き起こしたし、原発はもう個人には手に負えない、考えることのできないような問題になった。われわれはどうしていったらいいんだろう?そんな迷いのあるなかでも、自分たちの方向性を模索しようとした1枚なんじゃないだろうか。とはいえ、その「つぎはぎ感」ゆえに好き嫌いがわかれるアルバムかもしれない。


話がどんどん長くなり、そして言いたいことから逸れてしまっている(ということは自覚している)。
とにかく私が言いたいのは、M8の「Contemporary Tokyo Cruise」をぜひ聴いてほしいということである。
ある意味ceroの魅力が凝集した曲なのだろうな、と思う。
漠然とした喪失感やさみしさ。そしてそれでも前に進んでいこうとする姿がこの歌から感じられるのだ。



※ カメラ・オブスキュラ(カメラ・オブスクラ)とは写真の原理を利用した装置のこと。どうして雲の合間から?なんだろう。何度考えてもよくわからない。