砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

2019-07-27 16:51:38 | 



「生きてるってーなんだろ?」
「生きてるってーなあに?」
「…今日も今日とて仕事で、生きている気がしないよ!!」
???「ダイジョブダイジョブ~、仕事をサボって~。ダイジョブダイジョブ~、ブログを綴って~」



そんなわけで國分功一郎氏『暇と退屈の倫理学』です。これは東畑開人氏の『居るのはつらいよ(通称イルツラ)』に紹介されており、興味を惹かれて手に取りました。東畑氏の本も面白かったんだけど、この『暇と退屈の倫理学』も本当に面白かった。今年読んだなかではいまのところ一番なので、今日はこれをご紹介。東畑氏の本も後日取り上げます。

著者の紹介。早稲田の政経、東大大学院の哲学科を経て博士号を取得。フランスへの留学経験もあり。現在は東工大で教鞭を執っています。主な著作に『中動態の世界』『スピノザの方法』といったもの、また『近代政治哲学』などの政治や民主主義に関する本もいくつか書いていて、さらにドゥルーズやデリダの翻訳をしています。インテリすぎて鼻血が出そう。

本書では「なぜ人間は退屈を感じるのか」「退屈とは何か」といったテーマを、過去の哲学者(パスカル、スピノザ、カント、ハイデガーら)の思想を引き合いに出しつつ論じています。これが本当に面白くて、400ページを超える厚さなんだけど数日で読み終わりました。私が暇で退屈してたってのもあるんですが…ハハハ…。


考えてみると「退屈」は世の中にあふれています。私たちはすぐ退屈に陥る。
でも退屈を感じる前に、それを意識する前に退屈に行動を支配されている場合も決して少なくない。
「退屈」は不快な状態です。だから私たちは意識的、無意識的に退屈を避けようとする、暇になるやいなやスマホを取り出すし、休日には出かけたり余暇の時間を楽しもうとしたりする。しかしそれでも、森を歩いているとどこからかまとわりつく蜘蛛の巣のように、私たちは退屈から逃れることはできない。
そもそも退屈ってなんだろう、どうして私たちは退屈になるのだろう?とても身近なテーマであるにもかかわらず(だからこそ、と言えるかもしれませんが)、退屈についての答えはなかなか出てきません。


本書では退屈にまつわる論がいくつか紹介されていますが、面白かったのはパスカルとハイデガーの理論。パスカルは「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている」と語っていて、それゆえ人間は不幸だと述べている。いやなんていうか、おっしゃる通りで身もふたも無いというか…。じゃあどうしろって思いますけどね、それはこの本に書いてあるからみんな読もうね!

ハイデガーは退屈を3つのパターンに区分しています。第1の様式では、ものが思い通りにならない、電車を待っているがあと4時間もある、といった退屈。2つ目はパーティに参加して、楽しく過ごしているはずなのになんとなく退屈だ、といった様式。3つ目は…なんだっけ。忘れちゃったんであとで読み返します。確かどうあがいても退屈の虜になってしまうのだ、ということが書かれていたような…。じゃあどうしろって思いますけどね、それはこの本に書いてあったっけな。確かめるためにみんな読もうね!!!


ともかく。
退屈についてあれこれ思いを馳せる、とても面白い本でした。電車に乗るとスマホをいじる人、ゲームをしたり動画を観たりしている人を多く見かけますよね。私もそのうちの一人なんですが、やはりあれは退屈から逃れよう逃れようと思っていることの表れではないかな。もちろん、こうして職場でブログを書いているのも退屈しのぎの一環なわけです。私もまた、退屈を忌避している。

それに現代の社会では、私たちが退屈しないようにさまざまなサービスが提供されますよね。ほらほらあなたが気晴らしするものは、こんなにありますよ、とSNSやAmazon Prime、Huluなどの動画配信サービス、Apple MusicやSpotifyなどストリーミングサービス。ゲームもたくさんあるし、なんなら旅行のポスター、TVのCMでも「こうやって楽しめばいいんですよ」と喧伝されています。


そうやってPassiveに気晴らしをすることが、本当にいいんだろうか。
だからといって「目的を持って生きろ!」「自分で道を切り拓け!」と熱血教師や実存主義者のようなことは言いませんけど(ラッセルはそのように言っているようです)。
だってそんなもの、玉ねぎの皮をむくように突き詰めて行ったら何も無いと思うし。「自分」が「これをやらなきゃいけない」といったことは、本質的にはないと思うんです。綾波レイじゃないけど、自分の代わりなんていくらもいるので。だから人間界はうまく回っていくんじゃないかな。誰かが死んで破綻するなら、そのシステムは無理があるってことです、人って簡単に死ぬし。


話を戻します。
じゃあ退屈にからめとられて無目的に生きていくのかよ、それでいいのかよってわけでもなく。人生にまとわりついてくる退屈と自分はどうやって付き合っていくの?といったことを、諦めずに考えていく必要があると思うんです。そのきっかけを与えてくれるものとしては、非常に貴重な本なのではないかな。何より読みやすく、親しみやすい内容だったので。お値段も税別1200円とお手軽です、こんなに安くていいの?東畑氏の本とか税別で2000円だったのに?(若干根に持ってます)
ほらほら、この本を読んだらしばしの間あなたは退屈を忘れられますよ、さぁさぁ!!


ここから急に別のベクトルの話。
世の中には「遊べない人」というのがいます。これはイギリスの小児科医であり精神分析家であったウィニコットの概念ですが、何かいきいきとしていない、「本当の自己」ではなく「偽りの自己」で生きている人のことを指します。
なんのこっちゃと思う方もいるでしょう。でも臨床現場で人に会っていると、そういったアイデアと符合する人たちと確実に遭遇します。何故か一緒にいてつまらない、退屈だ、と感じる人。そういう人の話を聞くのは苦痛で、とても眠くなる。それが國分氏のいう退屈とどこまで近似した感覚なのかわかりませんが、考える上での一つの手がかりになりそうです。

たとえば引きこもりや不登校の子どもと会っているとき。
彼らはあまり外に出ません。となると、必然的に家のなかで大半の時間を過ごすことになる。でもそこでできることは限られています。テレビを見る、ゲームをやる、You Tubeを見る。当然、そういった行為は繰り返していると飽きます、退屈します。
しかし彼らと会っていて思うのは、どうやら全然飽きていないようなのです。そしてまた、彼らの話を聞いていると、こちらがものすごく退屈してくる場合が多いです、徐々にうんざりします。またその話かよ、と(そういえばユング派の田中康裕先生は「患者の話は9割がゴミ」と話していました、わからなくもないけど、先生にはオブラートという概念が存在しないのかよ)

さて、このとき生じる「退屈」は一体なんだろう。
実際彼らの日常は同じことの繰り返しだし、変化に富むものではありません。でもなぜか彼らが退屈している風には感じられない。しかし、実際のところ彼らはこころのどこかで退屈し、うんざりしていてもまったくく不思議ではないわけで。その退屈に、その苦痛に耐えられないから、「治療者に投げ込む」という形で表現しているのかもしれません。引きこもり傾向のある子から感じる「退屈」は、自閉傾向のある子どもと会うときのコミュニケーションの難しさとは、質が異なるようにも感じるのです。

藤山(2003)は「一般にそうした精神病部分の語る言葉は、広がりや深みやリアリティに欠けている。それは意味の響き合いに欠け、たとえば銭湯の富士山の絵のようにのっぺりとして平面的である。そうした人格部分の語る言葉に触れるとき、必然的に治療者は不快や退屈さを体験することになる」と述べています(『精神分析という営み』からの引用)。
私たちに退屈を感じさせるのは、彼らのこころのなかで麻痺している、あるいは「死んでいる部分」、精神病的な部分からの働きかけなのでは、と考えることもできるのではないかと。

彼らのなかの「生きている部分」と「死んでいる部分」の均衡が崩れているとき、「死んでいる部分」が過度に増大しているとき、「退屈」は自らのなかに留まれず、他者に投影されていくものなのではないでしょうか。そう考えると「ああ、なんか退屈だなぁ」と退屈を自分のなかに抱えておくことも、ある程度健康だからできることだと言えそうです。
ウィニコットはこうも述べています。「精神療法家は遊ぶことができ、しかも遊ぶことを楽しめなければならない」と(D.Winnicott. 『精神分析的探究3』, pp.73)つまりすぐ退屈に陥らず、遊ぶことができる、「生きている部分」がしっかり留保されている人のことを言及しているのでしょう。


話が再びこの本に戻ってきます。
本書の増補部分で、國分氏は「人はどうしても傷ついていく」と述べています。私の説明の仕方が乱暴で恐縮ですが、人は傷つきの記憶を紛らわせるために、退屈から逃れようと何かをする、例えば強迫的な行為や薬物、酒への依存、自傷行為に助けを求める。そういった側面があるようです。うーん、なんとなく、なんとなくわかる気もする。そうした傷つきを、いかに破壊的でない方向で模索していくか、それはきっと精神療法のプロセスに似たものなんだろうな。



退屈は逃れようのない宿命であるならば、自分の退屈とどう付き合うか、それをどうやって表現するかといったことが非常に重要なのだと思うのです。そしてそれはきっと臨床的に重要な意味を持っている、何かの補助線になりえる。そんなことを考えさせられた本でした。相変わらずまとまりの悪い文章で恐縮ですが、みなさんの退屈しのぎになれば幸いです。