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砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

漫然とした日記

2020-10-02 17:19:56 | 日記

この画像は記事の内容と一切関係ありません

金曜の午後、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
私は今日の仕事をあらかた終わらせて、ぼんやりしています。今週は忙しかったなあ。このあと勉強会なので、今は省エネモードです(というか労働を放棄しています)。
10月になり、日中は暑いもののすっかり秋になりましたね。夜は冷え込みます。近所を歩くと金木犀の香りが街をにぎわせています、あと秋花粉も。ックショーイ!!秋花粉の野郎、撲滅したいよ。百合子なんとかしてくれ、カイロ大を主席で卒業してんだからそれぐらいできるっしょ…。



近況など。
8月に書いたように、オードリーのラジオにずっとハマっています。職場への往復でオールナイトニッポンを初回からさかのぼって聴いていて、若林のエッセイ『社会人大学 人見知り学部 卒業見込み』も買って読んだし、いずれは番組の構成作家である藤井青銅さんの本『幸せな裏方』も読んでみたいと思っています。その他にもハライチのターン、佐久間さんのANNをときどき聞いています。

その弊害もあって。
ラジオを聞いていると読書に集中できなくて、本を読まなくなりました。ふと数年前の日記を読み返すと、あれこれ本を読んでは感想を残していて。前はもっと本を読んでいたのに、最近あまり読めていません。ラジオ熱が冷めてきたらまた読むようになるかしらん。
音楽も聞いていません。当然だよね、ラジオを聞いているんだから。まあ音楽に対する情熱は昔から強いので、やがて聞くようになるでしょう。


ずっと日記を残しています。
厳密に言うと2016年の8月末から、Google Drive上で日記を書いています。数行しか書かない日もあれば、1日で2000字を超える時もあります。日記といってもその日に書くことは少なくて、翌日とか、ひどい時は4日後や1週間後にまとめて書いています。
長くなってくるとスクロールが大変で、半年ごとにデータを分けています。半年でだいたい7~9万字の量になります。そう考えると、この4年間で約60万字書いている計算になるでしょうか。なんて暇な奴なんだ。

過去の日記を読み返すのが好きです。ここで食べた寿司はうまかった、この映画はハズレだった、旅行が楽しかった、本が面白かった、この時期は仕事が辛かったとか。そういったことを定期的に思い返したくなります。それがしたくて日記を残している面もあると思います。そういうことをしないと、篩にかけられた砂のように、控えめな記憶がぽろぽろとこぼれ落ちてしまいそうで。

読み返していて思うのは、人間ってあまり変わらないなってこと。
深酒して翌日反省したり、同じようなことで落ち込んだり悩んだり、失敗したり人と喧嘩をしたり。新しい体験をすることもあるけど、芯の部分はなかなか変わりません。

でも「あまり変わらない」と書いたように、当然変わったところもあって。
4年前と比べたら齢をとりました。早寝早起きをするようになったし、脂っこいものを避けるようになったし、健康のために運動しているし、なのに太ったし。哀しいことです。季節がめぐり、自分が着実な死に向かっているのを確信します。


人生になかなか長期的な展望が持てません。
やがてはこういう方向に進みたい、こうなりたいという思いはあります。しかし一歩踏み出す勇気がなくて。もちろん自分なりに研鑽を積んだり、勉強をしたりもしていますが、ふと「これでいいのかな」と不安になります。考える時間ができると不安になるから、ラジオを聞いたり酒を飲んだりして、時間の間隙を埋めていく。はて、これでいいのだろうか。そういう不安が影法師のように、私のすぐそばに潜んでいるのです。影法師と違うのは、夜になっても消えず、むしろその存在をますます強めることですが。

ただなんとなく、日々を過ごしています。
それでも人生はなかなか大変です。序盤、中盤、終盤隙がないと思います。でもオイラ負けないよ。

ぼんやりした日記

2020-09-15 18:36:42 | 日記


まだ仕事中なのですが、びっくりするほどやる気が起きない。
今は静かにぼんやりしています。
そんなわけで、ぼんやりから連想するものでも綴ろうかな。



温泉が好きです。
実家は小さい温泉地の近くで、車で15分ほどの距離でした。盆や正月、それ以外のなんでもないときでも温泉に行って、ゆったりと湯に浸かって天ぷら蕎麦を食べて帰ってくるなどすることがありました。その影響もあってか、今でも温泉が好きです。
山登りしたあととかはだいたい温泉に入って帰ってくるし、観光地に行って「温泉」の文字を見ると、街灯に集まる虫のように、あるいは道端に落ちているエロ本を見つけた男子小学生のように、ふらふらと吸い込まれてしまいます。その魅力に抗うことは大変困難です。この前も1人で島に行った時、宿で風呂に入ったのとは別に2日で3回温泉に入りました。温泉に入りながら海を眺めていました、最高だったなあ。


海が好きです。
寄せて返す波の音を聞いていると、不思議とこころが落ち着きます。自分の地元は海の近くで、車で20分の距離でした。しかしながら海に行くまで長い坂のある峠を越えなくてはならず、自転車で行くのは至難の業でした。そんなわけで、海に遊びに行くようになったのは大学生になってからです。よく遊びに行ったのは鎌倉の方でした。なんとなく『こころ』の冒頭みたいですね。小津安二郎の映画も好きだったな。
でも海水浴はあまり好きじゃないのです。クラゲに刺されるし海水が塩辛いし、オラついている人は怖いし。ただ座って海を眺めるのが好きです。


散歩が好きです。
中学3年の頃、数人の友達と話しながらよく歩いていました。方向が全然違う友達を家まで送っていって、学校を出たのが17時とかなのに、帰りが19時頃になって親に怒られた記憶があります。それが思春期ってものだよ、すまんな。
大人になった今でも、あてもなくふらふらと近所を散歩するのが好きです。身近にある知らない風景。旅に出て知らないものを見聞するのも良いですが、自分の近くでささやかな発見をするのもわくわくします。行ったことのない喫茶店や古本屋に入ってみたり、その辺の自販機で見慣れない飲料を買って飲んだり。少しずつ涼しくなってきたから、散歩にも行きやすい季節になってきたかな。
一番好きなのは冬に厚着をしてする散歩です。つんと澄んだ空気を吸いながら、好きな音楽をヘッドホンで流してのんびりとぼとぼ歩くのが。それがいかにもわびしくて。


猫が好きです。
ちゃんと飼ったことは無いのですが、一時期家に猫が迷い込んできて。当時痛い中学生だった私は、その猫に「ガブリエル」と天使の名前をつけ、「ガブー、ごはんだよー」と呼んで可愛がっていました。その後、ガブリエルはよその家に懐いてうちには寄り付かなくなりましたが…。何が天使だよ、とんだ堕天使だよ(今日一番の笑いどころ)。やがてはちゃんと猫を飼いたいものです。


なんだか枕草子のような話になっちまいましたね。こうして列挙したものを眺めると、温泉に海に散歩って、ジジイみたいです。そのうち好きなものに盆栽とかゲートボールが入ってくるかもしれません。
しかし不思議なのは、温泉や海岸でぼんやりするのは居心地がいいのに、こうして職場でぼんやりしているとなんとなく居心地が悪くて。他の人は働いているのに自分はサボっている、みたいな罪悪感があるからかなあ。でも今日も色々あったし、ちょっと疲れちゃったんですよね。明日は会議ラッシュで忙しいし、今日くらいはぼんやりしてもいいかなあ、なんて。

そんなに俺が悪いのか大学

2020-09-09 00:18:30 | 日記

-恥の多い生涯を送ってきました。

これは太宰治の『人間失格』の冒頭の一文です。太宰は大学生のときに『人間失格』『斜陽』『富嶽百景』を読んでからそれっきりです。自意識が過剰すぎて食傷気味になったけど、なんとか読み終えた記憶があります。今読んでみたら印象が変わってくるかもしれません。


さて。
自分の失敗というのはなかなか消えないもので。一生懸命記憶に蓋をしても、ふとした瞬間に姿を見せます。修学旅行で行ったお寺に残っている下品な落書きのように、醜悪さのシンボルとしてそこに存在します。
最近、どういうわけだか昔の失敗を思い出すことが多くて。それを自分なりに消化したくて、いま文章として綴っています。お目汚しで恐縮ですが、不快でなければ付き合ってもらえると幸いです。
そういうのが不快な方は今すぐブラウザバック推奨、死んでも知らんぞ。


まず幼少期にした失敗。
幼稚園のとき、「となりのトトロ」の劇をやりました。私はお父さんの役を担当していたのですが、そこで「今日はもう寝よう」と言うところを思いっきり噛んでしまって、観客から笑いが起こったのが記憶に残っています。人生で最初の大きな失敗でした。
あとは汚い話で申し訳ないですが、友達の前でトイレ(大)に行くのが恥ずかしくて、行けなくてもじもじして結局漏らしてしまい祖母から叱られたり、積み木の箱を押しているのを「床に傷がつくでしょ!」と先生に怒られたりもしました。

小学校から中学校にかけて。
年に1回は教師から強く叱られた記憶があります。見学していたのにプールサイドで走り回って先生に引っぱたかれたり(小2)、しゃがんでいる先生に飛び膝蹴りをして「見損なったわ!」とうんざりした口調で言われたり(小3)。理科の授業でぼんやりしていたら「〇〇は他人の話を全然聞かんな…」と呆れられたり(小5)、体育祭の練習で友達とふざけてたら腕を引っ張られて「もういい、もう帰れ!」と怒られたり(小6)、「さっきの態度はなんなんか!」と体育教師に怒鳴られたり(中3)。
そんなわけで、私は未だにあの体育教師を許すことができません。

さすがに高校に入ってからは頭ごなしに怒られることが減りましたが、野球応援の練習をしているときに英語教師から膝を蹴られたことはやはり根に持っています。そういえば村上春樹が『ダンス・ダンス・ダンス』で「はっきり言って教師の80パーセントまでは無能力者かサディストだ。あるいは無能力者でサディストだ」と書いていたのが印象に残っています。その頁にはドッグイヤーも付けました、わざわざ。

大学のときも、後輩が中心のライブで自分も出させてもらえることになり、Led Zeppelinの「Achilles last stand」を演奏して、何回も何回も練習したはずなのに、本番では途中で構成を間違えて頭が真っ白になりました。ギターがアドリブでソロを入れてくれたり、ボーカルがなんとか戻って来ようとしてくれたりしたおかげで立て直せましたが、本当に申し訳なかった。しばらくZeppelinを聞けなくなりました。今でもあの曲は聴きたくないです。本当に好きな曲だけど、聴くと心臓がキュッと苦しくなってしまう。


ほかにも。
以前にもブログに書きましたが、財布を落としたことも6回くらいあるし、大学で履修登録を忘れて呼び出しをくらったこともあります。自分の軽率な発言で大学の教員が憤慨していた話を人づてに聞いたり、先輩から「お前にだけはそういうこと言われたくないわ…」とうんざりした顔で言われたり。オープンキャンパスで地方から出てきたら自分が見たい学部の説明会が翌日だったり、資格試験の申込の日にちを間違えて受けられなかったり、海外でパスポートを落としたりetcetcetc…。

よく生きているものです。こんなペースでミスをしていたら、マリオブラザーズ2だと1-3くらいで全滅しているはずです。ザ・エンドってね、お疲れ様でしたってね(カチカチッ)。

そういった現象を「おっちょこちょい」「粗忽もの」「軽薄な奴」とか性格に帰属させたり、「不注意」「ADD傾向」とかって適当にラベリングして片づけちゃったりすれば楽なんだけど、楽になりたいんだけど「お前それでいいのか?」とささやくもう一人の私がいるのです。
それは要するに「確かに私はドジですが、これは自分のせいじゃないのです。どうか私を責めないでください、勘弁してください」と表明しているだけに過ぎないので。みっともないね。


「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、たぶんこうした傾向はなかなか直らないと思います。
そしてもっと質が悪いことに、自分は怒られるのを忌避するためについ嘘をついてしまうのですね。最悪です。嘘も方便という言葉もあるけれど、いつまでこんな調子で生きてんだか。もういい大人なんだし、しっかりしろよ、と思う。


さて、ここで今日の一曲のコーナーがやってまいりました。
本日は「そんなに俺が悪いのか大学 校歌」をお送りいたします
作詞作曲は私、Am→Em→F→Cの循環コードです。

Ah そんなに俺が悪いのか
そこまで言うなら多分俺が悪いんだろうね ごめんね(Sorry)
許してくれとは言わないけれど 謝ることしかできないよ(All Apologies)
少しでも留飲が下がったら それが私の幸せ

俺が悪いのか 俺が悪いんだな
俺が悪いのか 俺が悪いんだよ
(繰り返し)



ご清聴ありがとうございました。
こういうことばっかり言っているから「あなたは本当に自分が悪いと思ってないんだよ」「あなたは知識で武装した小学5年生よ」というお言葉をいただくことになるのですよね。もうどうしたらいいかわからねえ、助けてウルトラマン。

オードリーのラジオ番組をよく聞いている話

2020-08-31 16:25:26 | 日記
今日で8月も終わりますね。
このご時世というのもあり、今年は実家に帰りませんでした。
木魚も叩いてないし甲子園を見ながら家族と他愛ない会話もしなかったから、なんだか夏が終わる気がしないな。



最近お笑い芸人のオードリーにはまっています。

きっかけは8月上旬に風邪をひいたとき。
久しぶりに熱を出して、仕事を休んでうんうん寝込んでいました。でも1日くらいでよくなって、職場からは大事をとって数日休んでくれと言われて。しょうがないから暇つぶしにオードリーのラジオをだらだら聞いていたのです。あとは中京テレビでやっている「オードリーさん ぜひ会って欲しい人がいるんです(通称オドぜひ)」というローカル番組をYouTubeで見て、彼らの面白さに気づいたのです。

彼らが売れ始めたのは2008年頃なんですね。
自分は大学生になってからほとんどTVのない生活だったので、彼らの魅力を全然知りませんでした。ピンクのベストを着た変な人と、ぱっと見地味だけど根は陰険なんだろうなぁ、三菱とか憎んでそうだなぁ…みたいな人の組み合わせという認識でした。


でも彼らのオールナイトニッポンを聞くようになって、すごく面白いコンビだなと思うようになって。
まずトーク。冒頭のフリートークが毎回面白いし、雑談しているだけに見せてちゃんとオチまでつけている構成力。深夜ラジオというのもあって、下ネタとかいじりネタとか、結構きわどいラインを攻めることもあるけど、ここは超えちゃいけないっていう見極めもすごい。リスナーが不愉快にならない加減を心得ている感じがして、どんな話でも安心して聞けます。

あとは観察力。ラジオで毎週喋るからってのもあるんでしょうが、いろんなことにアンテナを張って細かいことも笑いのネタにしようとしています。例えばしょうもないマッサージ屋のエピソードとか、エコバッグ買って失敗した話、売れない頃の話、中学高校の思い出、ベランダで弁当を腐らせたこと、箱根の仲井(いっぱつカマス氏)、お笑いに対する思い…いろんなことを掘り起こして、トークとして使えるかたちにしています。
人間生きていればトークの材料になるものはあれこれあるでしょうが、それを毎週笑えるよう、興味を引くように加工して持ってくるのが素直にすごいなと思います。そのぶん疲れるんだろうけど。そりゃ一人でキューバ行ったりモンゴル行ったりしたくなるよな。

なにより若林の陰険さ。これが自分とって一番しっくりくるところです。
ラジオで話す2人は、テレビで見かける彼らのイメージと全然違いました。若林は自意識過剰で陰険で、春日は比較的まっとうというか、まあドケチで変人だけど性格はねじ曲がっていません。ラジオのように若林が奇抜なボケをかまし、春日が独特の口調でつっこむ方が断然面白いです。
ある程度は演出なんだろうけど、若林が率直にイライラしたり文句を言ったりするのが好きです。


ここで少し話が逸れます。怒りの感情について。
怒りの感情に身を任せるのは、一般的には良くないことだと言われています。コンビニでは「もう怒らない」とか「怒りをコントールする」みたいな啓発本がしばしば売られていますね。
仏教では三毒という考えがあり、「貪瞋痴(とんじんち)」といって、欲望を貪ること、怒ること、正しくものを知らない愚かさを表します。これらによって人間は苦しむことになる、という思想です。まあそういう気はするよね。

でも生きてれば怒らなきゃならないときがある。
以前の記事でも少し書いたけど、自分は怒るのが下手です。「自分が我慢すれば」という思いが先立ち、あとからイライラが湧き上がってきて、結果的に余計面倒くさいことになる。婉曲的に怒りが出てきたり、酒に逃げたり遁走したくなったり。そうなるくらいならとっとと怒った方が楽だと、頭ではわかっていてもなかなかできない。人間、簡単には変わらないものです。一時期は鏡に向かって怒る練習をしたこともあったんですけどねぇ…あれはなんやったんやろな…。


だからなのか。
若林のようにあちこち噛みつける人が羨ましいです。彼は気軽に相方の春日や、ディレクターや共演している女子アナ(かの有名な市野瀬アナ)に対して気軽に腹を立て、それをネタにする。エコーの効いた声で「ふざけるなーっ!」と叫んだり、「共演している人のなかで一番嫌いなんだよね」とさらりと言ってのけたり。

もちろん彼はしたたかにラインを見極めています。関係が破綻しない程度に、怒りや苛立ちをうまく笑いに変えている。もはや才能レベルです。その絶妙な見極めは、過去に色々傷ついたり失敗したりした賜物なのかもしれません。だとしたら中高時代の人間関係や、売れない時に相当悩んだのかな、とか邪推してしまいます。それに上でも触れた観察力。この人はどこまでいじっていいのかを、きっと冷静に見定めているのでしょう。根は人見知りらしいし。

そして春日の抜群の包容力。きつめの言葉でいじられてもほとんど許す春日の胸の広さよ。さすがボディビルやってるだけあるわ。そう考えるとすごくいいバランスで成り立っているコンビなんだろうな、と思います。こんなにお笑い芸人にはまったのはラーメンズ以来です。あの2人も天才ナルシシストと小心者の変人という、すごい組み合わせですよね。彼らも大好きだなぁ。


8月も終わりますね。
今年もあっという間に過ぎていく。人生は円環的のようにも思うし、自分がずんずん年を取っていって、周囲が変わっていくのを見ていると、自分だけ同じ場所にぐるぐるとどまっている気もします。
生きるのって大変だよな。こんなに大変ならもっと早く教えてくれよ、と思わなくもないけど、怒りを昇華して残りを生きていきたいと思います。みなさまどうもありがとうございました、気が向いたらオードリーのラジオを聞いてみてください。市野瀬アナとのプロレス、春日がぼけてない話、若林の人見知りの話がオススメです。

眠いのは気圧のせいだけじゃない

2020-07-06 22:39:49 | 日記
みなさまこんばんは。

眠いんでブログを書きます。
緊急事態宣言が解除されたのもつかの間、東京では再びコロナの感染が広まりつつありますね。
九州は雨で大変そうだし、気圧は低くてつらいし、なかなか落ち着かない日々です。
早くバンドの練習やりたい、ライブにも行きたい。あと友達と酒を飲みたい。


最近ボッカチオの『デカメロン』を少しずつ読んでいます。
今上巻の半分までようやく進んだところです。あと半分+中巻下巻があると考えると、なかなか膨大な量です。長い、あと1冊が重い。
今のところの感想としては、ドタバタ喜劇あり、不幸な話あり、エロスに満ちた話ありと、人間たちの悲喜こもごもが描かれています。
そこに筆者が描きたかったのは「人生どうなるかわからない」ということなのかな、と思ったり。

この作品は、ペストが猛威を振るっているイタリアの都市を背景にしています。
14世紀イタリア、中東から持ち込まれたペスト(黒死病)により、老いも若きも、貴賤も関係なくガンガン人が死んでいく。
そんななかか郊外に避難した男女、計10人が退屈しのぎに物語をそれぞれ語っていく、という構造です。
いわゆる物語のなかの物語、入れ子構造になっているわけです。
その点ではイギリスの作家チョーサーの『カンタベリー物語』と共通しているというか、チョーサーが『デカメロン』を参考にした説もあるようです。

読んでいてふと思うのは、ペストであっという間に死んでしまった人たちがいるなかで、人生の見通せなさ、辛いことの多さ、それでも生き残っている人間たちのありよう―そういったことに希望を見出したいがゆえに、筆者がこの膨大な物語を綴ったのではないかということ。
今もコロナウイルスのパンデミックで世の中全体が不安になっています。直接的に亡くなった人もいれば、自粛や休業のせいで生活がひっ迫している人もいる。
いろんな不幸が身の回りで起きている。

でも生きていかなくてはならないのですよね。
そんなとき「希望をもって」みたいな気休めは役に立ちませんが、とにかく生きていかなくてはならないんだと思います。
そんなわけで寝ます、明日も仕事か。
でも行かなくてはならないのですね、つれぇわ。