砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

タイガー&ドラゴン&ラフマニノフ

2022-12-06 10:21:50 | 日記

限界なのでブログを書きます。
といっても、特に書きたいことがあるわけでもなく。


なんかずっと忙しいんです。
10月以降、仕事がまあまあ忙しくて。
後輩の相談に乗ったり書類さばいたり、ばたばたしていて。

プライベートもそこそこ忙しくて。
家に帰っても、ピアノ弾いたり酒飲んだりで慌ただしくて。
そんなわけで最近は本も読んでいないし、新しい音楽を開拓することもできていません。
秋以降はずっとラフマニノフのピアノ協奏曲2番と3番を聴き比べていました、そのくらいです。
書いていてなんだか悲しい気持ちになってきました。

Sergei Rachmaninoff: Piano Concerto No. 3 | Khatia Buniatishvili, Neeme Järvi, Verbier Festival


個人的に好きなピアニスト、Khatia Buniatishviliさん。ジョージア出身の方です。
音の粒が綺麗です。いつかラフマニノフを生で聴きたいですね。


何もない休みが少ないのもきつかったです。
先日の日曜日、約1ヶ月ぶりくらいに何もない日曜日でした。
10月~11月にかけては学会や勉強会で日曜日が埋まっていて。
午後だけ勉強会があったとしても、そこからどこかに遠出する気にもならず。
夕焼けを眺めながら洗濯物を取り込んだり、観葉植物に水をあげたりしていました。

本当だったらそこまで埋め尽くされる必要もなかったのですが、今までサボっていたぶんのツケが回ってきたというか。資格の更新のためにポイントをためなくてはならないので、そのせいで奔走していたのです。
奔走した結果、無事更新のためのポイントは溜まりそうです。よかったけど、すり減ったなあ。

「直前になってすごく焦るけど、結果何とかなる」というパターンを繰り返している人生です。
夏休みの宿題も毎年そうでした。大学の課題や論文もだいたいそうでした。
ものごとを計画的に実行できる人が羨ましいです。
私自身、先のことを考えると不安になり過ぎて、直視できないのかもしれませんが。


せっかくの機会ですから、ここで少し先のことを考えて見ましょう。
みなさんは10年後、どうなっていると思いますか?
どんな姿を思い描きますか?あるいは、どうなりたいですか?

私は自分がどうなっているか、さっぱり想像できません。
とりあえず、もう少し自分のペースで働きたいです。
あとは臨床的な仕事をもっと増やしたいんですが…経済的なことと、やっている手ごたえを感じられる業務と。その両立が難しいところです、これに関しては10年くらいずっと悩んでいる気がしますね。
手っ取り早く開業すればいいんだろうけど、さすがにもう少し経験を積みたいし。
私の場合そろばんを弾くのが苦手ですので、共同経営者みたいな人と組まないとすぐ頓挫してしまいそうです。


それはそうと。
10年前の自分は、今の自分の姿を全く想像できていませんでした。
20年前の自分は、何を考えていたかなあ。
「何か面白いことないかなぁ」って毎日のようにぼやいていたきがしますが…
もうほとんど思い出せませんね、寂しいことです。

どうして今のような自分になったか。
いろんな人と出会ったり、偶発的なタイミングもあったりしたんでしょうけど、ひとことで言うならば「なりゆき」ですかね。「なりゆき」、いい言葉だなあ、ちきしょう。


あんまり個人的なことを言いたくないんですが、なりゆきで個人的な体験を書き散らかすことをご容赦ください。
これまでも愚痴めいた近況を述べてまいりましたけれども、さらに長めの自分語りが来ます。
総員衝撃に備えてください、覚悟はいいか?オレはできてる(自分の話なので)。


さて私は村上春樹の『1973年のピンボール』の主人公のように、他人の人の話を聞くことを生業としています。
どうしてこういう仕事をするようになったか。1つには、自分の尊敬する人物がそういう仕事をしていた、というのが大きいです。
小さい子が戦隊ものを見て憧れるように、「ああなりたいな」と思わせるものがその人にはありました。今となっては、「ああはなれないな」と諦めていますが、少しでも近づけるよう努力を重ねる日々です。

さてもう1つには、きっと「自分の話を聞いて欲しいから」だと思うんです。
自分の話を聞いて欲しいから、人の話を聞く。なんだかパラドックスのように聞こえますね。
でも人間は自分がしてほしいことを相手にするし、自分がしてもらえなかったことを相手がしてもらっているのを見ると、妬ましく思うものです。そういえば嫉妬の感情は生後9ヶ月頃から湧き上がるみたいですね。すごいぜ、メラニー・クライン。

話が逸れました。
私としては、自分の話を聞いてくれる相手をずっと求めていたわけです。
でも私の周囲には、少なくとも中学くらいまでは自分の話ばかりする人間が多かったなって。裏を返せば、私の声に耳を傾けてくれる人間が少なかったなって、思春期の頃は勝手にそう思っていました。

もちろんそれが100%厳然たる事実でなく、私の主観的な体験であることは理解しています。
それに家族が話を聞いてくれることはあったし、話をする友達がいなかったわけでもありません。本当です、友達はいたんです。帰る方向がたまたま逆だったから1人で本を読みながら帰っていただけで、友達はいたんです。僕を信じて下さい!

ただ、最近家族とやり取りをしていて、ああこの人たちはあんまり自分の話を聞かないんだよなって、幻滅に似た気持ちになることが多くて。たぶん自分はそういうのが嫌で、思春期の頃はインターネットにつながる相手を求めていた気がします。
当時の自分を振り返ると、寂しかったんでしょう。
分かり合えると感じられる相手が欲しかったのでしょう。

それはともかく。
家族のことを弁護するならば、彼らも外では人の声に耳を傾ける仕事をしていたのです。
彼らだって自分の話を聞いて欲しかったのだと思います。外では言えないことを、家のなかで吐きだしたかったのでしょう。今だったら「仕方ないか」と思えるけど、当時は嫌だったな。
「じゃあ俺の話は誰が聞いてくれるんだ」と思っていただろうし、「自分が話を聞いたら、いつか自分の話も聞いてもらえるのか?」と期待していたかもしれません。

まあ家族を責めても仕方ないし、だったらもっと「ウオオオ!俺だって話したいんだアアアア!!」とプラトーンのポーズ(トップ画参照)を取って家族をビビらせてから話せばよかったんじゃないか?と思ったり。いつまでも被害者ぶってるんじゃないよっていう話です。


「特に書きたいことがあるわけではなく」と言いつつも、「自分の話をしたい」という気持ちから暴走気味の本日のブログですが、話しすぎてそろそろ疲れてきました。みなさんも人に自分の話が出来ていますか?「ひとりで抱え込まないで、人に話すのが大事だよ!」と思っている業種の人間が、自分の話を人にできないのってウケますよね。医者の不養生みたいです。

でもまあ、こんな私のまわりにも話を聞いてくれる人間がいるのは本当にありがたいことです。
感染症は再び流行の兆しを見せていますが、年末ですので友達を誘って飲みに行きたいなと思ったりしています。
みなさまもどうかお元気で。