砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

日記

2022-01-28 17:48:17 | 日記
ご無沙汰しております。

感染者が爆発的に増えてきました。
私のまわりにも家族がPCR検査を受けた人、自身が陽性になった人がでてきました。
まあこれだけ感染しているんだから、時間の問題でしたね。

私はといえば。
テレワークになることもなく、混雑した電車に乗って仕事に行っています。仕事が終わったら帰ってごはん食べて本を読んだり酒を飲んだりしていて。普段の生活に大きな変化があるわけではないのです。でもこの2年にわたるコロナ騒動が、私たちの無意識に与えている影響は小さくないと思っていて。

気づけば居酒屋にほとんど行かなくなりました。
休みに遊びに行くにしても、泊りがけの旅行や人が集まりそうな観光地には行っていません。もともと出不精ではあるものの、買い物も身近なところでほぼ済ませるようになりました。
意識的に控えている部分もありますが、そもそも「選択肢に入らない」「行こうとすら思わない」というふうに、私たちの無意識がその選択肢をそぎ落としている面もあるのでしょう。

勉強会もオンラインがほとんどだし、オンラインだと集中が途切れます。
途中で筋トレしたりシンクの掃除をしたりしてしまいます。
友達と飲む機会も減りました、昨年は年に5~6回くらいでしょうか(あれ、まあまあ飲んでるな…)。
趣味でやっていた楽器の演奏もほとんどやらなくなってしまったし、年末年始も帰省せず。
ライブには何回か行ったけど声は出せないし。年末のナンバーガールは完全着座での観覧でした。
こうして考えると失ったものがいかに多いか、身に沁みて感じます。


でも仕事はいつも通りあります。
雑多な書類を片づけたり、人と会って話したり調整したり。
この不均衡に疲れます。

いつも通り、今まで通りの日常を過ごしているつもりになっている。
しかしながら。私たちの無意識はこれが非日常だと感じている。
脳の一部では常にアラートが鳴っていて、今まで通りの日常でないことを感じている。
疲れますよね。

だからなのか。
この1年で酒を飲む量が増えました。彼女との喧嘩も増えました。
居酒屋、旅行、音楽、遠出…こういった気晴らしが減ったのもあるでしょう。また、いわゆる「ハレ」の日が失われている一方で、部分的な「非日常」が継続しているストレスもあるのかもしれません。

あとは職場でも友達とでも、他者とのコミュニケーションが減ったように思います。
これは単純に飲み会が無くなったから、という話ではなくて…とはいえ何故コミュニケーションが減ったのか、十分に理解できていないのですが。まあでもとにかく、いい加減疲れたよね。

ひとまず何気ないコミュニケーションを復権していく必要があるのかな、と思うなどしています。
気づくのに時間がかかってしまったけれども。


2年前に中巻まで読み終わって放置していた『アンナ・カレーニナ』を読んでいます。
ふと大人数で集まって飲食している場面を見て、そういえばこういう会食を久しくしていないな、と思うわけです。そういうきっかけがないと思い出せないというか、それくらい「飲むときは少人数」「出来るかぎり多くの人との接触を避ける」という命題が、我々の身体にしみ込んでいるんですよね。

人間は社会的存在だし(これはルソーが言ったんだっけ…?と思って調べたらアリストテレスでした)、遊ぶ存在だし(これはホイジンガが言ったはずです)。でも社会とも遊びとも距離が生まれているとなると、微妙に生きることから「疎外」されることになるんですよね。この疎外をなんとかするために、私は今日もひとりで社会的に飲酒をしようと思います。みなさん今週もお疲れ様でした。

新年のご挨拶と他者性について

2022-01-04 18:45:55 | 日記
あけましておめでとうございます。
は?何がめでてえんだよ?(2年ぶり2回目)

新年早々疲れてしまったのでブログを書きます。
今年は土日があいだに入っていたので、年末年始の休みがあっという間に過ぎてしまいました。
むかし話で狐に化かされたときのように「本当に休みなんてあったのか?」「私が見ていたのは…幻…?」という気持ちになっています。悲しいね。

今朝は8時から勉強会に参加して、その後仕事に行きました。明日も朝から長めの会議が入っているし、夜もリモートで会議。明後日も労働後に職場で研修があるから帰るのが22時頃になるし、諸行無常です。この苦しみから抜け出すには大仏を建立するしかない!!!(白眼)

今年はちゃんと勉強や発表を頑張りたいなあ、と思う次第。
更新頻度は相変わらず少ないと思いますが、何卒なにとぞ。



急に話題が変わります。
生きていると納得がいかないことってありますよね。

今日郵便局に行ったら、局員に高圧的な態度を取っているおばあさんを見て少し不快な気持ちになりました。
局員の方は丁寧に説明されているのに、それにも納得がいっていないようだったし、そもそも十分に説明を聞いていないみたいで。列で待ちながら「この人なんなんだろう?」と感じていました。
このとき、なぜ私は不快になっているのだろう、と思うわけです。
私が嫌なことをされているわけでもないのに、なぜ嫌な気持ちになるのでしょうか。

局員に対していわゆる「同一化」をして、きっと嫌な思いをしているんだろうなぁ、自分が局員だったら嫌だなぁ、と思うから不快になっているのか。それともそのおばあさんがあれこれ文句を言うから、待たされる時間が長くなって不快になるのか。

郵便局から職場に戻ってきて、仕事の合間にも考えました。
あれこれ考えた結果、一番嫌だったのは「想像力の欠如」なのかな、と思うわけです。


想像力の欠如。
それをやったら相手がどう思うか、という思考の欠如。

そのおばあさんは、自分が高圧的な言動をすることで局員の人がどう思うか、まったく考えていないように見えたのです。もしかしたら、高圧的に振る舞うことで相手を思い通りに動かそうとしたり、ただ鬱憤を晴らしたかったりしたのかもしれません。その可能性もゼロではないのでしょうが、真実は芥川の『藪の中』のように不透明です。「想像力の欠如」に見えたのは、あくまで私の主観的な理解です。

想像力の欠如。
それで問題を片づけるのは簡単だけど、でも本当にそれでいいのだろうか。
じゃあ自分が想像力をフル稼働させたクリーンな人間で、過去に人を傷つけたことがないかと言えば、まったくの嘘になります。ピノキオの鼻が月面に着陸する規模の嘘です。

私も過去にたくさんひどいことをしました。
ヘビを湘南の風のように振り回したし、殺虫剤を溶かした水をアリの巣に流し込んだりして壊滅させたし。
人に対しても、心無い一言を言って傷つけたことがたくさんあります。私が投げた石のせいで友達がハチに刺されたし、約束を破ったこともあれば泣いている人にひどい態度を取ったこともあります。嘘もたくさん吐きました。
そうした過去のことを思い出しては、いまだに申し訳なく思ったり恥ずかしくなったりします。
あんまり他の人のことはわかんないけど、みんなそういう思い出や気持ちがどの程度あるんだろう。
『彼岸過迄』の主人公のように、他人の薄暗い部分を知りたくて今の仕事をしている面もあるのかな、と思ったり。
自分に好奇心旺盛かつ無神経な部分があることを、もっと自覚する必要がありそうです。


…という懺悔や告解もどきがしたかったんじゃないんだけど、書いているうちにしみったれた文章になってしまいました。
じゃあ他の人にも主体があって、人それぞれに感性や思考や主観があって、というようないわゆる「他者性」ってどうやって確立されるんだろうね、みたいな抽象的なことを私は2012年頃からずっと考えています。まだ答えは見つかっていません。

ちなみに魚は鏡を見て「あ、これ自分じゃん」とわかるみたいです。
すごいですよね。ホンソメワケベラという種類の魚が「ミラーテスト」という実験で成功したようです。詳しくは幸田正典著『魚にも自分がわかる―動物認知研究の最先端』(ちくま新書)をご覧ください。年末に読んでとても面白かった本です。


魚にも自分がわかるのに、私は一体何がわかっているのだろう。
少なくとも自分がちゃんと自分のことをわかっていない、ということはわかっているつもりです。
無知の知、というやつですね。
ガハハハ、どうだまいったか魚よ。
ガハハハハ…。