砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

日記

2020-04-24 17:40:53 | 日記
ふつうの日記

いよいよ在宅勤務が始まりそうだ。といっても週1日程度。
それでもとても気が重い。ペヤング大盛を食べた翌日の胃くらい重い。

個人情報を扱う職場なので、持ち帰れるものがほとんどない。だからこの期間、とにかく積読を消化しようと考えている。これも勉強!読書により人間的研鑽を積むのです!そう思って本棚を眺めると、どうしてこんなことに…と思うくらい未読の本が並んでいる。とても人間的研鑽を積めそうにない。

たとえばジョイスの『ユリシーズ』、たとえば谷崎潤一郎の『細雪』、バルガス=リョサの『チボの饗宴』、ピンチョンの『V』、尾崎紅葉『金色夜叉』etc…。カウントしようと試みたところ、たぶん100冊以上あったので途中で数えるのをやめてしまった。


村上春樹の長編『1Q84』では、しばらく身を隠さなくてはならない主人公の青豆が、プルーストの長編小説『失われた時を求めて』を淡々と読みすすめる場面がある。ああいう描写、実にいいなぁと思う。自分もあんなふうに本と向き合う時間が取れたら…チクショウ仕事が忙しいばっかりに…なんて普段から考えていた。

ところがどっこい。自分は家でなかなか本を読めないタイプだ。通勤のときに、電車やバスで揺られながら読むのは好きなんだけど、家だとどうしても読めない。ついYouTubeやニコ動を見ちゃう、つい楽器を弾いちゃう、ついハイラルの大地を何時間も駆け巡っちゃう。

『カラマーゾフの兄弟』のように続きが気になって仕方ないとか、漱石みたいに読み慣れた作家であればするする読めるのだけど、初めてチャレンジする作家や、難しい勉強の本だと挫折することが多い。
「まあいつか読むだろう」そうして積まれてきたものが、たくさんある。折角買ったのにどうして読んでくれないのか、私は遊びだったのか、責任取るって言ったじゃない、低所得なのに本はたくさん買うんだね!―本たちからそういった怨嗟や呪詛が聞こえてきそうである。ゆるして。

でも今は外出自粛だ。とてもじゃないが本を読むために電車に乗れない。そんなことをした日には、百合子から「密です!!」と言われ金星あたりまで吹きとばされるだろう。


ふと思い出したこと。
昔は歩きながら本を読むのが好きだった。中学生のときは帰り道に本を読んでいて、その時期に『海が聞こえる』とか『三国志』『ハリー・ポッターシリーズ』を熱心に読んだものだ。それを見た先生から「お前は二宮金次郎か」と笑われたこともあった。

漫画喫茶でバイトしていたとき、レジが暇になるとこっそり志賀直哉や芥川を読んだ。学習塾のバイト中、生徒に問題を解かせているあいだに国語の文章を眺めていた。いいなと思った本は買った。野中ともそや白洲正子とはそこで出会った。出会えてよかった。生徒たちはめちゃくちゃつまんなそうな顔をしていたが、国語の教材も案外捨てたものではないのだ。


でも。
昔から読書感想文は好きじゃなかったし、大学で課されるブックレポートは「苦痛」の一文字だった。おかしい。そこそこ本を読んでいる自負はあったし、難しい本もそんなに嫌いじゃないはずなのに、そういった作業は本当に嫌いだった。
半分しか読まずに書くこともあったが、それはまだいいほうで。「特に印象に残ったのはこの箇所だ」と力強い枕詞を添え、ごく序盤のエピソードを虫眼鏡で拡大するように長々と記述し、そこから自由連想を繰り広げて終わらせたこともある。完全な字数稼ぎ。たぶん全部読んでいないのはバレていただろう。

そこから導き出される結論はひとつ。
自分は「何かの合間に、あるいは何かをしながら本を読むのが好き」なのであり、「読書だけやると嫌になる」のだ。
じゃあどうしたらいいか。簡単なことである。何かの合間に読書をすればいい。
だから効率よく本を読むためには「ゼルダの合間に読むのが良い」という案が今ちょうど自分のなかの会議を通過したところである。満場一致、万歳三唱。どうもありがとう、いえいえそんなそんな。ワハハハハ。


とてもじゃないが、人間的研鑽を積むのは無理そうだ。誰か助けて。

日記

2020-04-21 19:07:08 | 日記
ただの日記


暇である。
自分は暇なんだけど、件のウイルスのせいで職場がばたばたしている。やれ職員で感染者が出たらどうするか、在宅勤務ができないか、その場合給料はどうなるか云々。職場はばたばたしているが、自分は先日から追われていた書類をあらかた片づけたので、当面暇である。このアンバランスさゆえに疲れる。もうあまり頭を使いたくないから、今は夏目漱石の『坊っちゃん』を読み返している、職場で。

『坊っちゃん』は、竹を割ったような性格の「おれ」が、赴任した愛媛の学校であれこれする話だ。天麩羅蕎麦を4杯食べたり温泉に入ったりする、人と喧嘩したりもする。詳細は読んでみないとわからないから読んで欲しい。すぐ読める。
自分は小学生のときにはじめて読んで、いまでもときどき読み返す。夏休みの宿題で読書感想画を課せられ、この物語の一場面(イナゴを蒲団から追い出しているところ)を描いた記憶がある。

あれは今思い出してもまずい出来だった。
昔から絵がほんとうに苦手で、中学のとき美術のペーパーでほぼ満点をとったのに、実技が大いに足を引っ張り、なんなら沼の底くらいまで引きずり込まれたせいか評定は3だった。今でもアンパンマンを描くと、2歳児から「なんかちがう…」と言われる始末である。


話を本に戻す。
自分は漱石が好きである、日本の作家だと一番好きかもしれない。以前もこのブログで『行人』を取り上げたが、彼の代表的な作品はあらかた読んだと思う。自分が漱石に出会ったのがこの『坊っちゃん』だった。そう思うとなんだか感慨深い。あれから何年経ったことだろう。

最初に読んだ時は、ただ「おれ」の言動が面白いなぁ、痛快だなぁと思うだけだった。しかし今読み返していると、「おれ」と家族の情愛がいかに薄かったか、あらためて気づかされる。母の死に目にはあえない、親父からは常に「駄目なやつ」と烙印を押される、兄とは新橋で別れてから会っていない。この関係性の希薄さよ。それがきっと、周囲に対する彼の態度にも出ているのだろう。「おれ」は宿の女や生徒、周囲の教師に対して常に穿った見方をしているのだ。そう考えると彼がなかなか落ち着けなかったのも納得できる。
この小説は「親譲りの無鉄砲で子供のときから損ばかりしている」という書き出しで始まるが、彼は純粋な器質的なADHDというよりも、いわゆるアタッチメント障害が併存していた可能性もあるなぁ、なんて考えたりもする。ADHDの人も被害的になりやすい傾向があるから、厳密な鑑別は難しいところだが。


そしてこのシニカルで、ときに被害的なものごとの捉え方は、とりもなおさず漱石自体の体験の投影だったのだろう。
彼は両親が40歳くらいのときにできた子どもで、「みっともない」という理由ですぐに養子に出された。それもひどい話だが、その後もあちこちをたらいまわしにされたり、里親から「お前の本当の親は誰だい」と、グレゴリー・ベイトソンもびっくりのダブルバインド質問を浴びたりして育った。結局は実の両親のもとに戻ったのだが、自分が本当は誰の子で、誰から本当に愛されていたのか、疑わざるを得なかったのではないか。

漱石の作品ではそういった「人に対する猜疑心」を扱ったものが多い。以前紹介した『行人』もそうだが、『三四郎』では女から裏切られ、『彼岸過迄』では人の事を信頼できず「あなたは卑怯よ」と言われるし、『こころ』ではとうとう自分が人を裏切る立場となる。自分の幼少期の体験が、ここまで如実に表れるのだなあと感心すらする。ボウルビィの提唱した内的ワーキングモデルを見事に体現していると言えるかもしれない。


急に話が変わる。
自分はリモートワークが出来る人を心底尊敬する。もし私が家で仕事をすると想定したら、たぶん1時間のうち42分くらいはサボってYouTubeを観たりBoseのスピーカーでバッハを聴いたり、ハイラルの大地を駆け回ったりするだろう。いやおそらく50分はハイラルの大地を駆け巡る気がする。これから在宅勤務が始まるかもしれないことを考えると、すこぶる具合が悪くなる。

高校生の頃、よほど必要に迫られないかぎり家では勉強しなかった。学校の図書館、塾で済ませていた。なんなら塾でも途中で抜けて近所を散歩していたし、教室にあるPCでチェックテストをやる合間に「これは頭の体操...!!」と自分に言い聞かせながらソリティアをやっていた。あとでバレてソリティアも私のハイスコアもすべて消されたのはいい思い出だ、ソリティアに罪はないのに。


さて。
暇だったがそろそろ帰ろう。早くこの騒動が収まって欲しいが、海外の様子を見るとまあしばらくは無理だろう。こうして仕事が制限されると、自分が思うように仕事ができないもどかしさを感じるのも不思議である。極力仕事をしたくない、仕事をしないためにはどんな努力もいとわない、万難を排して仕事をさぼる。そう思っていた自分はどこへいったのだろう。何か悪い病気にかかっているんじゃないか、そんな気すらする。
今日は帰りに天ぷら蕎麦でも食べたいところだ。『坊っちゃん』を読んだせいか、急に蕎麦が食べたくなってしまった。しかし私の好きな蕎麦屋もいまは自粛で閉まっている。仕方ないが悲しいことだ、蕎麦に罪はないのに。


追記(2020年4月22日 0時18分現在)
今最後まで読み終わったのだけど、『坊っちゃん』にも後半でちらりと「肺炎」が出てきていた。もちろん単なる偶然なんだろうけど、そもそも毎年10万人くらいは肺炎で死ぬらしいが、少しどきりとした気持ちにもなり。思わずふぅと長い溜息が出た。
自分が不安になっていることはある程度自覚していたが、やはりまわりの人が不安になっている影響もあるんだろう。この頃むやみにピリピリした、くさくさした気分になっていることにあらためて気づく。まずは「自分が不安に陥っていること」をじゅうぶん自覚することがスタート地点なんだろうなぁ...と思う。難しいことをあまり考えないはずが、結局こんな時間までうだうだ考えてしまった。明日考えられることは明日考えよう、どうせ自分は暇で時間を持て余しているのだから。