砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

ウマ娘と責任論と、達成感

2021-03-29 12:44:39 | 日記


無理なんでブログ書きます。

前回のブログで「3月に入ると落ち着く」と言ったのに……すまん、ありゃウソだった。
相変わらず忙しい日々が続いていて、心が死んでいる。
憂さを晴らすためにも、駄文を少々。



最近ウマ娘をやっている(このさい「忙しいのにゲームはやっているのかよ!」という声は黙殺する)。
Cygamesが2月24日にリリースしたスマホ向けのゲームだ。これが面白くて、時間泥棒なのである、エンデの『モモ』でいうと灰色の男たちだ。

どんなゲームか簡単に説明しよう。
ゲーム内では、サイレンススズカやマンハッタンカフェなど、実際の競走馬が「萌え擬人化」され可愛い女の子になっている。彼女たちを「ウマ娘」という。
そして彼女たちをパワプロのサクセスモードのように育成し、目標のレース(皐月賞、有馬記念など)を勝ち抜くといったものだ。艦これ、アズールレーン、刀剣乱舞などの競走馬のバージョンと思ってもらえたらいい。

このゲームが実によくできていて。
特にいいと思う点を2つ述べたい。

①1人1人のシナリオの完成度が高い。
育てるウマ娘は複数いて、それぞれにレアリティが設定されている。☆が多いほどレア度が高いが、レアではないキャラクターもそれぞれにシナリオが用意されている。そしてシナリオを終える頃には、ついその子を応援したくなる内容になっているのだ。

例えばキングヘイローという☆1(レア度が低い)キャラも、最初は「私は一流なのよ!」と高飛車でいけ好かない感じなのだが、エンディングでは「あんた(トレーナー)がいないと私は一流になれないんだから…!」みたいなことを言ってくるのである。くぅ~。

サクラバクシンオーという☆1キャラも、学級委員長の権威のもとにただ暴走しているだけのうるさい子だと思ったら、実は不器用な女の子…とオタク大興奮シナリオであった。くぅ~。

あとはナイスネイチャも☆1なんだけど、とにかく謙遜しているキャラで「そんなことないよ!」「もっと自信もっていいよ!」と応援したくなる子だ。くぅ~っ!!
このゲームのシナリオライターは、オタク心をわしづかみにする念能力者なのだろう。


こういうちょっと面倒な発言をするネイチャもかわいい、くぅ~!

どの子もレースに勝つと喜ぶし、負けると悲しそうな顔をするし、落ち込む。練習に失敗したり勝手に夜更かししたりしてコンディションを崩すこともある。それはそれで憎めないが、夏合宿や大事なレース直前に1000ピースのジグソーパズルに挑戦して調子を崩されると、こちらも血圧が上がってしまう。彼女たちのことで一喜一憂してしまうのである。
シナリオがいいから、感情移入しやすいのだ。

②細かい「達成」が多く感じられる。
このゲームはスモールステップでの達成、いわゆる「小さな達成」を感じやすいように出来ている。時間泥棒ゲームの代表格、ゼルダのブレスオブザワイルドも似たような設計になっていて。

大目標:ガノンの討伐
中目標:神獣の開放
小目標:祠のクリアとパワーアップ、塔の開放
極小目標:コログ収集、装備欄の拡充

このように「達成感」を得られる項目が細分化されていて、小さい達成を繰り返すことでやがて大目標に到達できる、といったものになっている。
そしてウマ娘では

大目標:URAレース優勝、キャラ厳選
中目標:有馬記念、皐月賞、天皇賞など大きなレースで勝つ
小目標:練習してステータスをあげる
極小目標:サポートカードのレベル上げ、キャラ収集

という具合になっている。ガチャに必要ジュエル、サポートカードのレベル上げに必要なポイントも頻回にもらえる仕組みで「ちょっと頑張ったら達成感を得られる」ようになっている。それが時間泥棒たるゆえんなのだろう。「あとちょっとだけ…」と思って、気づいたら1時間経っているのがこのゲームの恐ろしいところだ。

①で述べたようなシナリオの良さ、感情移入のしやすさもあり、最初のうちは序盤のレースで負けてしまった娘が、少しずつレースに勝てるようになり、無事URAファイナルを勝ち抜いてライブをしている姿を見ると「よく頑張ってくれたね…」と、孫を見るおばあちゃんのような気持ちでうるうるしてしまう。まして、優勝後に一緒に温泉に行く喜びは望外である(私はエアグルーヴ様としか行けていないが、それでも想像を絶する喜びに打ち震えたものだ)


温泉旅行に誘われているのに「貴様」と呼ばれるのは実に気分がいいものだ。


ここで話が大きく逸れる。
そもそも「達成感」とはなんだろうか。
そしてなぜ「達成感」を得やすいものに、私たちはハマりやすいのだろうか。

それを考えるために、学習心理学の概念を引いてみたい。
少し昔の文献だが、波多野(1981)は人間がやりがいを感じない条件を2つ挙げている。

①「獲得された無力感」
これは有名なセリグマンの実験(犬に電流を流すやつ)によるもので、自分が努力しても苦痛から逃れられない体験を積み重ねると、努力で抜け出せる状況でも行動しなくなる、という研究である。人間でも虐待を受けたりDVを受けたりすると、似たような状況に陥る。

②「効力感の欠如」
ここで効力感とは「自分が努力すれば、環境や自分自身に好ましい変化を生じさせうるという見通しや自信をもち、しかも生き生きと環境に働きかけ、充実した生活を送っている状況」と定義されている。これが欠如しているのが「効力感の欠如」にあたる。

おそらく達成感を得られるゲームにのめり込むのは、後者の「効力感の欠如」に起因するものだろう。
「獲得された無力感」は虐待のようなひどい目に遭わないと至らないが、「効力感の欠如」は比較的なりやすいものだからだ。
大きな組織、校則の厳しい学校、上下関係の強い社会で生活してみると、繊細な人であればすぐに陥る。
「自分の意見は全く反映されないし、上の意見には従わないといけないし。自分のいる意味なんてないんだろうな」と感じる状態をイメージしてもらえるとよいだろう。偏見かもしれないが、集団主義的な日本社会では、良くも悪くもそういった状態に陥りやすいように思う。

では、このように「効力感が欠如」するとどうなるか。
その人は意識のうえでも、あるいは無意識のうちでも強い苦痛を感じることになる。
私たちは普段から効力感、すなわち「自分で自分の人生をコントロールできている感覚」を持ちたいからである。



「効力感」をより理解するため、申し訳ないがさらに話が脱線する。
近年、とある事件をきっかけに「自己責任」ということばをよく目にするようになった。
そのアンチテーゼかのように、責任とはなにかを問う著作もいくつか出ている。たとえば哲学者の國分功一郎氏と当事者研究の熊谷晋一郎氏『<責任>の生成 中動態と当事者研究』、社会心理学者の小坂井敏晶氏『責任という虚構』がそれにあたるだろう。

特に小坂井氏の本はむつかしいが、たいへん面白い。
すごく乱暴に結論だけを述べるなら、「責任」が必ず特定の個人、集団などに還元できるというのはあくまで虚構であって、感情の落としどころを見出すためのシステムなのだ、ということだろうか(間違ってたらすみません、責任取って謝ります)。


さて、ここで話が「効力感」に戻ってくる。
責任が虚構によるシステム、という理屈を「効力感の欠如」の文脈にも当てはめて考えるとどうなるだろう。
上で述べた「自分で自分の人生をコントロールできている感覚」も、実は自分や社会がそう錯覚しているだけで、虚構の側面があると言えるのではないか。
つまり「効力感」というのがある種の錯覚によるものではないか、ということだ。

近代になり、日本は身分制度が開放された(その後も水面下では差別が続いていたが。いまだにジェンダーギャップは大きいのが実情だ)。
いまでこそ格差社会と言われるようになったものの、戦後の経済成長を経て「一億総中流」の時代がやってきた。
ともすれば、われわれは自分の意志で進路、職業、居住、配偶者などを選択できるようになったように思う。
でもそれはどこまで本当だろうか、どの程度真実だろうか。

自分の意思ではどうにもならないことが、世の中には多くある。
「そんなこと、もうわかっているよ」という意見もあるだろう。
親は選べないし、生まれ育つ環境、遺伝子なんかはどうしようもできない。
学歴も職業選択も、ある程度経済的な余裕がないと自由には選べない。
ただ、そういったことを別にしても、自分の人生はどうにもならないことや、自分で選んでいる「つもり」になっていることが多いのではないだろうか。

たとえば職業選択。
総務省のサイトを見ればわかるが、非正規雇用者の数は増える一方である。転職サービスの市場規模は、2017年が約4000億円なのに対して2021年で6000億円を超える試算が出ていた。人の動きは流動的になっている。それらは気づかないうちに、私たちの無意識に働きかけているだろう。
だから自分で「この働き方がいい」と選んだつもりでも、実は社会の状況や、自分のなかのイメージに影響を受けていることが多いのではないか。あくまで「自分で選択したんだ」と錯覚できることが、その人には意味を持つのだろう。

ここで私が強調しておきたいのは、だからといって悲観的に捉えすぎる必要はない、ということだ。
選べることが必ずしも幸せとは限らない。与えられた条件のなかで、できるだけ幸福になろうとするのが人生だから。
重要なのは「効力感」が錯覚だとしても、それを受け入れて、その痛みに耐えながらも選択し、行動していくことなのだろう。


ここまで述べてきたことを受けて「なるほどね。自分の人生なんて、どうせ全然思い通りに行かないんだ。もう人生は終了!解散!」となるのは、やはり違う。
結局のところ、人は期待と諦めのあいだを行ったり来たりしているだけなのだ。
でもそうやってうろうろするのは疲れる。すごく疲れる。

ここでようやく話が「達成感」に戻ってくる。
人生は疲れる。特に「効力感の欠如」の状態に陥っていると、すごく疲れる。
だからこそ達成感を得やすいもの、自分でコントロールできている感覚を持ちやすいことに入り込んでいくのではないだろうか。乱暴な意見かもしれないが、不登校の子や発達障害傾向にある子がゲームにのめり込むのも、そういった背景があってのことなのかもしれない。概して、彼らは自分の人生に達成感を持ちにくいからだ。

ちなみにアルコールはその逆で。
達成感を得られない現状、効力感を持てない状況から目を背けるためのてっとり早い手段なのだと思う。
仕事を辞めて虚しくなった人がアルコールに依存するのは、目の前の苦痛を直視できないからかもしれない。
それはきっと心の芯が痛むような、とても苦しい状況なのだろう。


そんなことをウマ娘をやりながら考えたのである(何考えているんだか)。
昨晩決勝で負けたマヤノトップガンちゃん、負けたのはあなたのせいじゃない、私の責任よ…。
そのあと悔しくて飲み過ぎちゃった…つらいょ…。


参考文献
波多野誼余夫『無気力の心理学』 中公新書
國分功一郎 熊谷晋一郎『<責任>の生成 中動態と当事者研究』 新曜社
小坂井敏晶『責任という虚構』 ちくま学芸文庫


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-03-30 07:50:23
自己効力感という概念が好きな人は、人間の自由意志を軽んじ環境の力を過大評価しているとも思う。

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