砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

代行作品その2 住野よる『きみの膵臓をたべたい』

2019-08-20 22:15:37 | 日本の小説
はあ疲れた。数日前に漱石の『こころ』で代行作品をちゃちゃっと書いたんだけど、もっとJKが読むような作品でって言われたので(だったら何でもいいって言うなよな...とぶつぶつ文句を垂れる私)人の膵臓を食べる話を読み、書きました。これは時間かかった、半分くらいしか読んでないとはいえ時間がかかった。金が欲しい。まぁそもそも要求してないからいいんだけどね。よい子は真似するなよ!!
そんなわけで感想文を書いたのです。

   『君の膵臓をたべたい』を読んで
      2年A組 グレート 義太夫
 正直に言ってむかついた。この本を読んでいてむかついてしまった。死ぬことは確かに怖い。私だってとても怖い、夜中に眠れなくなることがあるくらいに。あれは確か私が5歳のころだったと思う。夜中に死ぬことが怖くなって、寝ている母親を起こして泣きついた記憶。きっと古代の人も、死ぬことが怖くて眠れない夜があっただろう。それで夜空を見上げて星座なんて生み出したりしたのだろう。だから物語を生み出していったのだと思う。
 でも今はそんなことなんてどうでもいい。この小説は、死ぬことがテーマになっているものの、高校生活の鬱屈を「死」を理由に、ああでもないこうでもないとこねくりまわしているだけの話に過ぎないように感じた。そういったら作者に失礼に当たるだろうか、でも読んでいてそう思ったし、私は自分の気持ちに嘘を吐けない性分なので、率直にそう綴ることにする。
 いくら主人公の「僕」が、彼女の死につながる重病を記した手記を読んだとは言え、それ以降に彼女が途端にあけっぴろげな態度に出たり、今まで人と積極的につながりを持ってこなかった「僕」が(この時点で「僕」は相当変わり者なのだろう)、人に急に親密になったりするのは都合がよすぎるように思った。「死」という苦難や痛み、恐怖に向き合う場合、誰しもそうなるわけではない。いや大半が、自分の死に十分に向き合えないのではないか。それを「僕」にだけ率直に打ち明ける彼女の存在が、どうも信じがたいのだ。こんなに強く死と正面切って向き合える人が、高校生でいるだろうか。それとも「死」は人をそれだけ成長させる経験になるのだろうか。私にはそう思えなかった。
 死を間近に控えている彼女と、博多と思しき都市の夜で「もし本当に私が死ぬのが、本当は怖くてたまらないって言ったらどうする?」という問いを投げかけたことは多少リアリティーがあったかもしれない(しかし、そもそも小説である時点でリアリティーを求めるのは野暮かもしれないが)。でもそれからの展開は、クライマックスに向けて読者の涙を誘うためのご都合主義のように読めてしまった。だからむかついてしまった。それ以外にむかついたことの十分な理由はない。それに、人の感情を引き起こすのは明確な理由を必要としないと思う。読んでいて、私はむかついた。他に何が言えるだろうか。
 現代社会は「死」を消費する。ドラマでも映画でも、もちろんこのような小説でも。それは何故だろう。おそらく、身近な場所での親密な人の死がほとんどなくなったためだ。昔のことはよくわからないけれど、この小説で何度も語られているように医学は進歩してきたのだろう。だから、怪我や病気で死ぬ人は減ってきているはずだ。それに最近は家で死ぬ人が減ってきている、とニュースで見たことがある。死ぬ人はどこへ行ったのか。きっと病院や老人ホームで死んでいるのだろう。だからこそ、昔はそこら中に溢れていた「死」は、もはや私たちから十分に身近な存在ではなくなった。「死」にリアリティーがなくなった。だからこそ、時々自分たちがやがて「死」を迎えることを思い出させる必要がある。それも、程よい程度で。
 それに「死」はわかりやすい悲劇だ。誰も『カラマーゾフの兄弟』の下男スメルジャコフのように思い秘密を抱えた、あるいは『百年の孤独』のアウレリャノ・ブエンディア大佐のような壮絶な死を迎える必要はない。程よく悲しく、死を思い起こさせる刺激があればいい。それで私たちは自分がいつか死ぬことに思いを馳せ、悲しい気持ちになれる。いや、十分に悲しい気持ちになった「気がする」。そういった錯覚を覚え、自分が生きていることに感謝し、命を大切にしようと思える。それで十分だ、難しいことは考えたくない。誰も彼もが安っぽく死んでいた時代は過ぎ去ったし、かと言って人ひとりの死を重く受け止めすぎるのも、何か違うようにも思う。SNSで人はたくさんつながっていて、その存在や死は可視化されている。だからこそ、自分と言うかけがえのない存在が死ぬことも、十分に重く考えることはできなくなってきている。
 今の時代、誰も真剣に悲しんだり、悲嘆にくじけたりしたくないのだと思う。だってそれはとても辛いから。世界にとってどうでもいい存在である自分が、いつか死ぬかもしれない。その苦しさに正面から、真正直に耐えるのはとても難しいから。だからこそ、この小説を読んで、ほどよく「死」を消費しようとする姿勢に腹が立ってしまったのかもしれない。私はこんな風に描かれるような死を迎えたくない。自分があとどのくらいで死ぬかはわからないけど、そんな風に思った。


というわけで完了です。だいたい4ページ半です。
私にTwitterで代行を依頼するのはそこまで頭がよい行為とは言えないけれど、草舟のような私は断り切れずに書いてしまった。頼んだあなたも、そして断れなかった私も罪深いのでしょう。作者に失礼だけど、それはしょうがないかな。

代行作品 夏目漱石『こころ』

2019-08-16 23:52:47 | 日本の小説
代行で頼まれたんで書きました。ちゃちゃっと20分くらいで。
よい子はまねするなよ!2日後くらいには消します。以下本文。



夏目漱石『こころ』を読んで
2年A組 毒蝮 三太夫
 精神的に向上心のないものは馬鹿だ、と言った先生の言葉が、今の私たちにもきっと突き刺さるのではないだろうか。この本を読んでいて私はそう思った。
 夏目漱石の代表作でもある『こころ』は、これまで幾度となく読書感想文の本として選ばれてきたのだろう。この小説で、人間の自己中心的なありさまを描く漱石の描写はすさまじいものがある。それは初期の作品である『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』には見られなかった面である。
後期作品になってから、人間は一体どうすれば幸せになれるのだろうか、といったことを考え始めた漱石は、他の作品『それから』や『行人』でもそのことをテーマとして扱っているが、結局のところ自分の幸せを人間関係のなかでどこまで追求していくか―家族のしがらみを捨てて自分の友人から恋人を奪ったり、あるいは『こころ』の先生のように、自分が心から尊敬する友人を侮蔑し、出し抜き、つついには間接的に友人を自殺に追いやってしまったり―そういった行為を通じて人は一体幸せになれるのだろうか、ということを考え抜いたのだろう。
おそらくその答え、自分の利益を追求して人が幸せになれるか、ということは、半分は正解であり半分は間違いだと私は思う。
私は「自分の好きなことをしろ」と言って親に育てられてきた。しかしいつまでも自分の「好き」を貫き通すのは難しい。世の中にはルールがあり、人間関係があり、他人がいる。もちろん人から好きだけを貫き通されたら、自分だっていやな思いをするだろう。だからと言って人の言うことに黙って従っていたら、いつしか自分が何をやりたいのか、何を大切に思うかが見失われてしまうと思う。大事なのはそれを見失わないことだろう。
我慢が求められる場合もある。自分の思いを主張しなくてはならない時もある。そこで大切なのは「痛み」に敏感であることではないだろうか。自分の好きなことを相手が了承してくれるにこしたことはないが、そうでない場合だって少なからずあるはずだし、自分が我慢したときは当然「痛み」が生じる。相手が我慢したときも、きっとその人に「痛み」が生じているのだと思う。そういった痛みに対して想像力を働かせることは、今後大人になっていく私にとって必要なことだと思う。
先生は友人であるKに「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言い放った。きっとこの言葉はKに強い痛みを引き起こしたのだろう。これは先生に想像力がなかったのではなく、むしろ十分にあったからこそ、この一言が相手を深く傷つけるであろうことを理解しての発言だったのだろう。しかしお嬢さんをめぐって、強烈な嫉妬や欺瞞の思いが渦巻いている先生は、衝動的にその言葉を放った。それがどれだけ強くKを傷つけたか理解していたからこそ、強い罪悪感があとになって生じてきたのだと思う。とても恐ろしいことだ。自分が信頼していた人から裏切られたその痛みをわかっているのに、自分が人に対して同じようなことをしてしまうのは。
まだそこまで長く生きているわけではないが、生きていて取り返しのつかないことはそんなにないと思う。生きている限り、取り返しがつくことは多いと思う。
でも人の「痛み」への想像力の欠如が、取り返しのつかない過ちを引き起こすことは十分ありえる。先生が言い放った言葉、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という一言、それを時々思い出しては、自分は本当に人の痛みに想像力を働かせているだろうか、あるいは自分が我慢ばかりしていないだろうか、考える必要があるのではないか。この本を読みながら、そんなことを考えた。


以上本文終わり。
これ読む人が読んだら絶対ばれますよね。普通に漱石の後期作品のくくりとかエゴイズムをめぐる思索とか、何作も繰り返し読まないとわかんないし。なお私は『こころ』は人生で4回くらい読んでます。そんな話はまあいいか。