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砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

雑記

2021-06-25 16:56:09 | 日記
ご無沙汰しております。
夏が近づいてきて、去年と同じようにフィッシュマンズを聴いています、やはり「Orange」は名盤。



本屋に行く夢を見ます。
笹塚の紀伊国屋書店や高井戸駅の本屋、新宿のブックファーストのような、実際に行ったことのある本屋にいる場合もあれば、さびれた古本屋や大学図書館にいることもあって。
これはどういう意味なんだろう。何を象徴しているんだろう。
単純に本屋が好きだからなのか、無意識からの「もっと勉強しなさい」という働きかけなのか。

ここしばらく勉強を、読書をサボっていました。
仕事が忙しいのを理由に「私には癒しが必要!!」と言い聞かせて、通勤中はもっぱら芸人のラジオを聞いていました。アルピー、ぺこぱ、オードリー、三四郎、山里亮太など。おかげで1ヶ月くらい同じ本が鞄の中に入っています、しかも2冊くらいずっと同じ本。まったくもって怠慢です。

なんだかんだでウマ娘を続けているのも大きいです。
アニメ2期をアマプラで見たのをきっかけに、飽きかけていたウマ娘熱が再燃して。
ウマ娘2期は実にいいアニメでした。久しぶりにいいアニメに出会いました。リアルタイムでは見ていなかったのですが、2月~3月頃Twitterで毎回ざわざわしていた理由がわかりました。9話以降はだいたい毎回泣いていました。ありがとう、ダブルジェット師匠。
かなり史実に忠実なのですが、それとフィクションを織り交ぜるとこんな風にドラマができるのだな、としみじみ。オープニングのユメヲカケル!もいい曲でした。

そんなわけで、この前ようやくスタミナ因子9のシンボリルドルフができたし、ナイスネイチャのファンが1000万人を突破して、私なりの達成感をかみしめたのでした。おい勉強しろ!!


さて。
最近ちまちま読んでいて面白いのは「ケアとは何か」です。先日中公新書から出たばかり。まだ途中なのですが、人間の対話の重要性というか、人間というのはどんな水準であれ、本質的に他者とのコミュニケーションを求める面があるのかもしれない、と気づかされるような内容でした。

あとは岩崎学術出版の「こころを使うということ」。こちらも面白いです。あらためて、多職種連携の面白さと難しさを感じたというか。自分が苦手とする連携を頑張らんとな、と思ったりもして。早速やってみて少しいい成果もでたりして。どちらかというと一人で黙々と作業をする方が好きなのですが、人に頼るというのも存外悪くないものでした。


そのほかは何もない日々を送っています。筋トレしたりジョギングしたり、深酒して後悔したり。仕事は60%くらいの力でじわじわ続けています。あんまり一生懸命やっても疲れてしまうので。次の楽しみは7月にあるトリプルファイヤーとポップしなないでのライブです。1年半ぶりのライブ、嬉しい。

最近の悩み。
友達からもらったモンステラが育ってきてスペースを占有しているので、古い葉っぱを剪定しなくては。下手に切って弱ったら嫌だな~と思うけど、知り合いの庭師さんに聞いたら「モンステラは丈夫なんで、ズバッとやっちゃって大丈夫っすよ!」とのこと。人生思い切りが大事なのかもしれませんね。みなさんもズバッとやっちゃいましょう!

ではごきげんよう。今日は深酒をします、明日後悔する予定です。

ウマ娘に飽きてきた話

2021-04-26 17:28:01 | 日記

【悲報】この世は結局お金こそマネーだった!?


みなさまお元気ですか。
緊急事態、宣言していますか。

昨年の今頃もちょうど世間がばたばたしていた記憶があります。そのとき自分は暇だったんで漱石を読み返していました、職場で。
今年も暇になってきたので、頑張ってあれこれと本を読んでいます、職場で。



最近面白かった本。
小坂井敏晶氏の『社会心理学講義』
小坂井氏は前回の記事で『責任という虚構』を取り上げましたね。あちらは人間の自由意志や責任は虚構によって成り立っている、という話でした。本著は社会心理学の研究、特にフェスティンガーの認知的不協和理論を引き合いに出し、社会現象や集団心理、人間の意思決定の「常識的」な枠組みに疑問を投げかけていく内容です。
まだ読んでいる途中なのですが、これが面白くて。単純に社会心理学の内容だけじゃなくて、哲学や社会学の内容も総合されていて、とにかく情報量が多い。読み返さないと内容の咀嚼が難しそうです。




プリーモ・レーヴィの『休戦』
こちらはノンフィクション小説。イタリア系ユダヤ人の筆者が、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所から故郷のトリノへ帰るまでの道中を描いた作品。広くいえば旅行記のカテゴリーに入るでしょうか。
旅行記といえども、その出発点がアウシュヴィッツなので、物語は大きな混乱から始まります。多くの同胞の死にさらされて、生き残れるかわからなかった主人公が、本当に帰れるのか、どうしてあんな残酷なことを人間ができたのか、さまざまな疑問を頭に抱きながらも祖国を目指す。胸が熱くなる話でした。
この本は放送大学の講義でダンテの『神曲』が扱われているさいに紹介されていました。明日にも死ぬかもしれない収容所の生活で、ダンテの神曲について他者と語らうことで生きる希望を失わなかった主人公。その姿に触れてみたくて、この作品を手に取りました。




上記に挙げた2冊に共通しているのは、いずれもホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)に言及している点です。そういえば村上春樹の一番新しい長編『騎士団長殺し』でも、ナチスドイツの台頭が途中で描かれる場面がありましたね。

ホロコーストは他人ごとではない。
状況が整えばどんな人間でも同じような行為に踏み出す。社会心理学者のミルグラムの「服従実験」では、そのような結果が導きだされています。YouTubeにも実験動画がありますが、いやいやながらも実験者の指示に従い、参加者は電流の強さをあげていく。それに真っ向から抗い、実験をやめる人はごく少数でした。

ホロコーストは他人ごとではない。
でもそれを「自分の」こととして考えるのは難しい。
当然です。仕事、家族、税金、将来…他にも考えなくてはならないことが沢山あります。いちいちそんなこと考えながら生きていられません。

とはいえ。
人間がどこまで残酷になれるのか、人間の「自由意志」がいかに薄弱で虚構によるものか、知りたいとも思います。いつかアウシュヴィッツ収容所を見に行きたい。遠いけど。



前置き(?)が長くなりました。
さて表題の件、ウマ娘に飽きてきた話を少々。
以前このブログの記事でゲームのウマ娘が「細かな達成感を得やすく、ハマりやすい仕組みになっている」と書きました。

しかしながら。
リリースから2ヶ月経ちました。
あれだけハマっていたウマ娘が、ここ最近楽しくなくって。ただなんとなくやっている感覚、いわゆる「作業」になりつつあります。少なくとも自分にとっては。それがどうしてなのか。今日はそれについて個人的な所感を述べたいと思います。

1つ目は「期間」です。
繰り返しになりますが、リリースされて2ヶ月経ちます。
純粋に2ヶ月熱中してやり続けることって、まあ難しいですよね。
どんな面白いこともずっとやっていたら飽きるものです。これはウマ娘たちのせいではありません。
短期間に繰り返しプレイした影響が大きいのでしょう。もっとのんびり、細く長くやる方がいいのかな。


2つ目は育成と因子厳選の「作業感」です。
自分が獲得したウマ娘たちを育て、ひととおりのグッドエンディングを見ました。
そうなると、あとやることは3つに大別されます。
➀より強いウマ娘の育成
②因子厳選
③対人戦
これらのうち➀育成と②因子厳選が、ここで述べる「作業感」に該当します。

より強いウマ娘の育成について。
これは➂の対人戦とも関係しますが、優秀なサポートカード(能力値が上昇しやすい、キャラに合ったスキルをくれる、回復イベントがある)を組み合わせて、いかに能力値が高いウマ娘を育てるか、そしてそのキャラを対人戦に出して勝てるか、という流れになります。
育成には運の要素があります、寝不足になったり片頭痛になったり怪しい鍼灸師が来たり。何度も繰り返して、ようやく能力値の高いウマ娘ができあがります。作業です。

因子厳選について。
こちらも運の要素が強いです。5%の確率で☆3因子がつくこと祈り、育成でスピード、スタミナなどの能力をBまで上げていくことになります。
自分が持っているサポートカードだと、スタミナ重視で継承したスペシャルウィークを、根性+賢さ育成をするのが一番安定します。それをひたすら繰り返します。これも作業です。
こういった繰り返しが好きな人もいるでしょうが、自分は確定申告と同じくらい苦手です。


そして3つ目、対人戦における「他者との比較」です。自分にとっては、これが一番の飽きる要因、倦んでしまう原因だったかもしれません。
先ほどクリア後にやることとして挙げた「対人戦」、ゲーム内でチーム競技場と呼ばれるものですね。自分の育成したウマ娘たちをチームに編成し、レースに出して他者のウマ娘たちと競わせるコンテンツです。

実際の競馬も天候や枠順、馬のコンディションが影響するように、ある程度運の要素も強いです。
調子が悪くても、格上の相手にひょっこり勝つことがあります。

でも繰り返しているうちにランキングがあがってきて、勝てないことが増えました。
そして相手の育成情報を見ると、それはもうレアリティの高いウマ娘を用意し、サポートカードもしっかり強化なさっているのです。SSR(レア度が高いやつ)のカードもたくさん持っているのです。
とうぜん「何回ガチャを回したんだろう」「いくらお金を費やしたんだろう」という疑問が浮かびます。なんだよ、結局金が勝つのか。この世は資本家に搾取される宿命なんだな…この斧で借金取りの老婆を殺すしかない、これは正義の行為なんだ。そう思いつつ、対戦相手のゴージャスな布陣を見て数分間絶望しました。

―悪いなのび太、このレースはSSR限定なんだ。

どこからか、そんな幻聴が聞こえました。ウソです。
こうして私はスマホゲームに世の中の縮図を見てしまった気持ちになり、悲しくなりました。


「基本無料」で遊べるからくりはここにあります。
開発側はクオリティの高いものを出すぶん、資金を回収しなくてはなりません。たくさんの声優さんが起用されているし、イベントも多ければ新しいキャラも次々出て、きっと開発にはお金がかかったことでしょう。

だからこそ。
以前書いたように、細かい達成感を得やすい仕組みにしたうえで、ぎりぎりで勝てなかったり、うまくいかなかったりを体験させる。ユーザーはフラストレーションを感じます。
もっと安定して育成したい、もっと勝てるようになりたい。じゃあどうすればいいか。あとはわかるね?(このへんからうしろでABBAが大音量で流れ始めます、Always sunny In the rich man’s world, Aha…


ちょっと前まで、スプラトゥーン2のサーモンランというモードをよくやっていました。
あちらは課金によるパワーアップがありません。仲間運もありますが、自分の実力で打開できることも多々あります。だからこそ、自分がいい立ち回りをしたり判断力があがったり、仲間とうまく連携できたりしたときの喜びはひとしおでした。
手っ取り早くはないけれど、着実に上達している。そういった感覚を得ることができました。

でも。
ウマ娘は細かい達成を得やすいぶん、その達成感は持続しません。
もっと勝ちたい、もっと欲しい。人間の欲望に素直に働きかけてきます。
それが悪いとは思いません、むしろ「よくできているな」と感心するくらいです。

そのメカニズムに意識的になったとき、このゲームを素直に楽しめなくなっている自分に気づきました。
もちろんそれぞれのウマ娘はかわいいし、レースに勝てたときの喜びは大きいです、特にナイスネイチャがかわいいです。
しかし、少なからぬお金が動いているのに注意が向くと、マネーパワーを意識するとどうしてもげんなりしてしまうのです。ゲームをやっているのに結局現実を見ているみたいで。単純に自分に金がないっていうのもあるんですけどね、ワハハハ。やかましいわ。


話の着地点が見いだせなくなってきました、疲れてきたので今日はこの辺にしといてやろうと思います。
みなさま、よい緊急事態宣言をお過ごしください。私は楽しみにしていたGW中のライブが無くなりそうで、爆発しそうな気分です。爆発したら風に乗ってアラスカを目指しますので、どうぞよろしくお願いいたします。

ウマ娘と責任論と、達成感

2021-03-29 12:44:39 | 日記


無理なんでブログ書きます。

前回のブログで「3月に入ると落ち着く」と言ったのに……すまん、ありゃウソだった。
相変わらず忙しい日々が続いていて、心が死んでいる。
憂さを晴らすためにも、駄文を少々。



最近ウマ娘をやっている(このさい「忙しいのにゲームはやっているのかよ!」という声は黙殺する)。
Cygamesが2月24日にリリースしたスマホ向けのゲームだ。これが面白くて、時間泥棒なのである、エンデの『モモ』でいうと灰色の男たちだ。

どんなゲームか簡単に説明しよう。
ゲーム内では、サイレンススズカやマンハッタンカフェなど、実際の競走馬が「萌え擬人化」され可愛い女の子になっている。彼女たちを「ウマ娘」という。
そして彼女たちをパワプロのサクセスモードのように育成し、目標のレース(皐月賞、有馬記念など)を勝ち抜くといったものだ。艦これ、アズールレーン、刀剣乱舞などの競走馬のバージョンと思ってもらえたらいい。

このゲームが実によくできていて。
特にいいと思う点を2つ述べたい。

①1人1人のシナリオの完成度が高い。
育てるウマ娘は複数いて、それぞれにレアリティが設定されている。☆が多いほどレア度が高いが、レアではないキャラクターもそれぞれにシナリオが用意されている。そしてシナリオを終える頃には、ついその子を応援したくなる内容になっているのだ。

例えばキングヘイローという☆1(レア度が低い)キャラも、最初は「私は一流なのよ!」と高飛車でいけ好かない感じなのだが、エンディングでは「あんた(トレーナー)がいないと私は一流になれないんだから…!」みたいなことを言ってくるのである。くぅ~。

サクラバクシンオーという☆1キャラも、学級委員長の権威のもとにただ暴走しているだけのうるさい子だと思ったら、実は不器用な女の子…とオタク大興奮シナリオであった。くぅ~。

あとはナイスネイチャも☆1なんだけど、とにかく謙遜しているキャラで「そんなことないよ!」「もっと自信もっていいよ!」と応援したくなる子だ。くぅ~っ!!
このゲームのシナリオライターは、オタク心をわしづかみにする念能力者なのだろう。


こういうちょっと面倒な発言をするネイチャもかわいい、くぅ~!

どの子もレースに勝つと喜ぶし、負けると悲しそうな顔をするし、落ち込む。練習に失敗したり勝手に夜更かししたりしてコンディションを崩すこともある。それはそれで憎めないが、夏合宿や大事なレース直前に1000ピースのジグソーパズルに挑戦して調子を崩されると、こちらも血圧が上がってしまう。彼女たちのことで一喜一憂してしまうのである。
シナリオがいいから、感情移入しやすいのだ。

②細かい「達成」が多く感じられる。
このゲームはスモールステップでの達成、いわゆる「小さな達成」を感じやすいように出来ている。時間泥棒ゲームの代表格、ゼルダのブレスオブザワイルドも似たような設計になっていて。

大目標:ガノンの討伐
中目標:神獣の開放
小目標:祠のクリアとパワーアップ、塔の開放
極小目標:コログ収集、装備欄の拡充

このように「達成感」を得られる項目が細分化されていて、小さい達成を繰り返すことでやがて大目標に到達できる、といったものになっている。
そしてウマ娘では

大目標:URAレース優勝、キャラ厳選
中目標:有馬記念、皐月賞、天皇賞など大きなレースで勝つ
小目標:練習してステータスをあげる
極小目標:サポートカードのレベル上げ、キャラ収集

という具合になっている。ガチャに必要ジュエル、サポートカードのレベル上げに必要なポイントも頻回にもらえる仕組みで「ちょっと頑張ったら達成感を得られる」ようになっている。それが時間泥棒たるゆえんなのだろう。「あとちょっとだけ…」と思って、気づいたら1時間経っているのがこのゲームの恐ろしいところだ。

①で述べたようなシナリオの良さ、感情移入のしやすさもあり、最初のうちは序盤のレースで負けてしまった娘が、少しずつレースに勝てるようになり、無事URAファイナルを勝ち抜いてライブをしている姿を見ると「よく頑張ってくれたね…」と、孫を見るおばあちゃんのような気持ちでうるうるしてしまう。まして、優勝後に一緒に温泉に行く喜びは望外である(私はエアグルーヴ様としか行けていないが、それでも想像を絶する喜びに打ち震えたものだ)


温泉旅行に誘われているのに「貴様」と呼ばれるのは実に気分がいいものだ。


ここで話が大きく逸れる。
そもそも「達成感」とはなんだろうか。
そしてなぜ「達成感」を得やすいものに、私たちはハマりやすいのだろうか。

それを考えるために、学習心理学の概念を引いてみたい。
少し昔の文献だが、波多野(1981)は人間がやりがいを感じない条件を2つ挙げている。

①「獲得された無力感」
これは有名なセリグマンの実験(犬に電流を流すやつ)によるもので、自分が努力しても苦痛から逃れられない体験を積み重ねると、努力で抜け出せる状況でも行動しなくなる、という研究である。人間でも虐待を受けたりDVを受けたりすると、似たような状況に陥る。

②「効力感の欠如」
ここで効力感とは「自分が努力すれば、環境や自分自身に好ましい変化を生じさせうるという見通しや自信をもち、しかも生き生きと環境に働きかけ、充実した生活を送っている状況」と定義されている。これが欠如しているのが「効力感の欠如」にあたる。

おそらく達成感を得られるゲームにのめり込むのは、後者の「効力感の欠如」に起因するものだろう。
「獲得された無力感」は虐待のようなひどい目に遭わないと至らないが、「効力感の欠如」は比較的なりやすいものだからだ。
大きな組織、校則の厳しい学校、上下関係の強い社会で生活してみると、繊細な人であればすぐに陥る。
「自分の意見は全く反映されないし、上の意見には従わないといけないし。自分のいる意味なんてないんだろうな」と感じる状態をイメージしてもらえるとよいだろう。偏見かもしれないが、集団主義的な日本社会では、良くも悪くもそういった状態に陥りやすいように思う。

では、このように「効力感が欠如」するとどうなるか。
その人は意識のうえでも、あるいは無意識のうちでも強い苦痛を感じることになる。
私たちは普段から効力感、すなわち「自分で自分の人生をコントロールできている感覚」を持ちたいからである。



「効力感」をより理解するため、申し訳ないがさらに話が脱線する。
近年、とある事件をきっかけに「自己責任」ということばをよく目にするようになった。
そのアンチテーゼかのように、責任とはなにかを問う著作もいくつか出ている。たとえば哲学者の國分功一郎氏と当事者研究の熊谷晋一郎氏『<責任>の生成 中動態と当事者研究』、社会心理学者の小坂井敏晶氏『責任という虚構』がそれにあたるだろう。

特に小坂井氏の本はむつかしいが、たいへん面白い。
すごく乱暴に結論だけを述べるなら、「責任」が必ず特定の個人、集団などに還元できるというのはあくまで虚構であって、感情の落としどころを見出すためのシステムなのだ、ということだろうか(間違ってたらすみません、責任取って謝ります)。


さて、ここで話が「効力感」に戻ってくる。
責任が虚構によるシステム、という理屈を「効力感の欠如」の文脈にも当てはめて考えるとどうなるだろう。
上で述べた「自分で自分の人生をコントロールできている感覚」も、実は自分や社会がそう錯覚しているだけで、虚構の側面があると言えるのではないか。
つまり「効力感」というのがある種の錯覚によるものではないか、ということだ。

近代になり、日本は身分制度が開放された(その後も水面下では差別が続いていたが。いまだにジェンダーギャップは大きいのが実情だ)。
いまでこそ格差社会と言われるようになったものの、戦後の経済成長を経て「一億総中流」の時代がやってきた。
ともすれば、われわれは自分の意志で進路、職業、居住、配偶者などを選択できるようになったように思う。
でもそれはどこまで本当だろうか、どの程度真実だろうか。

自分の意思ではどうにもならないことが、世の中には多くある。
「そんなこと、もうわかっているよ」という意見もあるだろう。
親は選べないし、生まれ育つ環境、遺伝子なんかはどうしようもできない。
学歴も職業選択も、ある程度経済的な余裕がないと自由には選べない。
ただ、そういったことを別にしても、自分の人生はどうにもならないことや、自分で選んでいる「つもり」になっていることが多いのではないだろうか。

たとえば職業選択。
総務省のサイトを見ればわかるが、非正規雇用者の数は増える一方である。転職サービスの市場規模は、2017年が約4000億円なのに対して2021年で6000億円を超える試算が出ていた。人の動きは流動的になっている。それらは気づかないうちに、私たちの無意識に働きかけているだろう。
だから自分で「この働き方がいい」と選んだつもりでも、実は社会の状況や、自分のなかのイメージに影響を受けていることが多いのではないか。あくまで「自分で選択したんだ」と錯覚できることが、その人には意味を持つのだろう。

ここで私が強調しておきたいのは、だからといって悲観的に捉えすぎる必要はない、ということだ。
選べることが必ずしも幸せとは限らない。与えられた条件のなかで、できるだけ幸福になろうとするのが人生だから。
重要なのは「効力感」が錯覚だとしても、それを受け入れて、その痛みに耐えながらも選択し、行動していくことなのだろう。


ここまで述べてきたことを受けて「なるほどね。自分の人生なんて、どうせ全然思い通りに行かないんだ。もう人生は終了!解散!」となるのは、やはり違う。
結局のところ、人は期待と諦めのあいだを行ったり来たりしているだけなのだ。
でもそうやってうろうろするのは疲れる。すごく疲れる。

ここでようやく話が「達成感」に戻ってくる。
人生は疲れる。特に「効力感の欠如」の状態に陥っていると、すごく疲れる。
だからこそ達成感を得やすいもの、自分でコントロールできている感覚を持ちやすいことに入り込んでいくのではないだろうか。乱暴な意見かもしれないが、不登校の子や発達障害傾向にある子がゲームにのめり込むのも、そういった背景があってのことなのかもしれない。概して、彼らは自分の人生に達成感を持ちにくいからだ。

ちなみにアルコールはその逆で。
達成感を得られない現状、効力感を持てない状況から目を背けるためのてっとり早い手段なのだと思う。
仕事を辞めて虚しくなった人がアルコールに依存するのは、目の前の苦痛を直視できないからかもしれない。
それはきっと心の芯が痛むような、とても苦しい状況なのだろう。


そんなことをウマ娘をやりながら考えたのである(何考えているんだか)。
昨晩決勝で負けたマヤノトップガンちゃん、負けたのはあなたのせいじゃない、私の責任よ…。
そのあと悔しくて飲み過ぎちゃった…つらいょ…。


参考文献
波多野誼余夫『無気力の心理学』 中公新書
國分功一郎 熊谷晋一郎『<責任>の生成 中動態と当事者研究』 新曜社
小坂井敏晶『責任という虚構』 ちくま学芸文庫

なんてことない日記

2021-03-02 17:58:59 | 日記
忙しいのである。

どのくらい忙しいかというと、2月は全然ブログを書く気にならなかった。
私にとってはアヴィニョン捕囚くらいの大事件である。ブログを書いている身として「どんなに忙しくても月1回は更新しよう」と思っていたけれど、ちっともそんな気持ちになれなかった。



忙しさが引き起こすことのひとつに「麻痺」がある。Paralysisである。
そういえばドラクエでも麻痺状態は非常に恐ろしいものだった。Vのゲマ戦で「やけつくいき」で麻痺させられ、何度か全滅した記憶がある。ぬわーーっっ!!

話を戻そう。
ここでいう麻痺とは実際に体が動かなくなることではない。
「喜び」の感覚が精彩を欠くのである。

本や音楽も興味が持続しない、ごはんを食べても前より美味しくない。
酒を飲んでも愉しめない。なんだか無性にイライラしやすくなった気がする。
土日があっという間に終わる、目の前にタスクがちらつく。
趣味の時間や遊んでいる時間も、どこか落ち着かない。
やらなきゃならないことから目を背けているような、うしろめたい気持ちになる。

とうぜん嫌である、鬱屈した状態を打破せねばならない。
本当ならぱーっとどこかに出かけて、温泉に入ったり海を見たりして気晴らしをしたい。
でもこのご時世で、それも難しい。しかも自分の仕事柄、どうしても人と会わざるをえないため、自分が感染症に罹った場合のリスクが大きいのである。仕事があるのはありがたいが、少し悲しい。


朝起きて漫然と仕事に行き、与えられた業務をこなす。合間に少し本を読む。読書を愉しむというより、文字の流れを追い、内容を理解しようとする。帰ってきて料理したり酒を飲んだりする、ゲームをする動画を観る、気づけば寝る時間になっている。楽器なんてしばらく触っていないし、積読も消化できていない。火曜日にはモルカーを3回くらい観る。土日に近場で出かけ、少し手の込んだ料理を作る。時間になったら寝る、その繰り返し。その繰り返し。その繰り返し。
2月は人生が作業ゲーになっていた、おろろん。


3月になり、ようやく仕事が落ち着いてきた。気づけば春の嵐の前触れのような低気圧だ。
悪い夢からようやく目覚めた気分に近いだろうか。ちょっと立ち止まってゆっくり歩こう、食事の一口を大切に噛みしめよう、静かにひとりで酒を飲もう。今日は銭湯にでも行こうかな。


ちなみに確定申告はまだ終わっていない。ぬわーーーーっっ!!(リメイクver)

くたびれた日記

2020-10-30 17:28:16 | 日記
くたびれたんでブログを書きます。
今月はちょっとばたばたしてので、あっという間に月末になったなあ、という感覚です。
意識を喪失していた可能性もあります。
切実に遊びたい、本気出して遊びたい。
1週間くらい仕事を休んで、自分のことを誰も知らないどこか遠くの場所に行きたい。



ラジオの熱が少しずつ冷めてきて、最近また音楽を聴くようになりました。とはいえ新しい音楽には手が伸びず、相変わらずRadioheadやTool、Mr.Childrenやキリンジなど、昔聴いてたものをよく聴いています。
なかでもRadioheadの「Kid A」をヘビロテしていて、15年前もずっと聴いていたけどやっぱこのアルバムすごくいいよな、至高…なんて思いながら近所を散歩しています。うわあ根暗。友達が少ないはずです。余計なお世話だよ。

ふと、大学院の先輩が言っていたことを思い出します。
「齢を取ってきてからは、今まで聞いていた音楽をローテーションするだけでもう十分」と。
自分も少しずつそのフェーズに差し掛かっているのかもしれません。
積極的に新しい刺激を取り入れなくなりました。音楽好きの友達と会う機会が減ったり、ライブイベントに行けなかったりするのもあるのでしょう。
狂ったようにタワレコを彷徨っていた20代前半。あのころの自分は一体何を探し求めていたのだろう。


でも。
実際TSUTAYAに行くと気持ちがときめきます。あれも借りよう、これも借りようとかやっていると10枚くらいCDを借りちゃう。しかしたいていは早く家に帰りたい気持ちが勝つし、「今携帯に入っているので十分だよな…」とか思って、寄らないまま帰ることもしばしば。
今日は久しぶりに行ってみようかな。

最近はストリーミングサービス(音楽配信サービス)がもっぱらですよね、Apple MusicやSpotifyなど。あれも便利なんだけど、ものすごく便利なんだけど、やっぱり自分はCDを借りてきて、PCに取り込んでさらに携帯に入れたい。iPhoneだとONKYOのアプリで再生した方が断然音がいいし。
好きな音楽はいい音質で聴きたいのです、だから夏でもヘッドフォン。うわあ陰気。友達がいないはずです。うるさいよ、片手で数えられるくらいにはいるよ。

音楽を聴くようになったので、付随して本も読むようになりました。今読んでいるのはカルヴィーノの『むつかしい愛』です。わかるよ、愛って難しいよね。そんな話はどうでもいいか。カルヴィーノのふわっとした短編が、仕事で頭を使ったあとにはちょうど良くて。
少しずつ積読を消化しようと思っています、次は何を読もうかな。海外の小説は途中で挫折したもの、まだ読んでいないものが本棚にたくさん並んでいます。TSUTAYAの棚を見ているように、わくわくするなあ。


今年もあと2ヶ月。
少しずつ前に向かっている人たちを見て焦りつつ、でも自分には自分のペースがあるのだよな、とおのれに言い聞かせつつ。
不安は尽きません、ときどき悲しいこともあります。そんな私をRadioheadが癒してくれるのです、至高…。