goo blog サービス終了のお知らせ 

砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

近況,日記 and 最近読んだ本 or 今年の抱負 stuff like that....

2023-01-17 16:26:50 | 日記



やる気が起きないのでブログを書きます。
おい、ブログ書く気はあるのかよ!って思ったあなた、その通りです。
ブログを書く気持ちはあるんです。
むしろそれしかないと言った方が正しいかもしれません。



年末年始にかけて、久しぶりに英語の論文をちゃんと読みました。
英語を読んでいて思うのは、意外と基礎的な単語の意味理解がむつかしいということ。
たとえばengageやrespect、languageなど。
このようにやさしそうに見える単語こそ、意味の幅が広くて訳す時に困ります。
いっそspontaneously(自然発生的)やadministration(管理部門)みたいな硬いことばの方が、意味の幅が少なくて助かるのです。

日本語でもそうですよね。
「たすかる」には命拾いしたりsafe、役に立ったりusefulする、幅広いニュアンスがあります。
しかし「援助」と表現するとhelpに限定されます。
意外と優しい顔をしているやつらの方が、あなどれません。

あとは接続詞やカンマ。こいつらがまた複雑で。
こいつらを多用する文章に税金をかけてほしいくらいです。
いったい何を並列したり、何を対比させたりしているか。
ここを見失うと一気に意味がわからなくなりますね。言葉は奥深いなあ。


論文を読んでいて思ったのは「頭いいって人から思われて~!!」という欲望がオノレのなかにあること。
そういう気持ちがある時点で、頭がよくないんだよな。
本当に頭がいい方は、「人から頭がいいと思われたい」など考えないと思うので、たぶん。

自分の年になってまで「人から頭いいって思われたい!」気持ちがあるのはダサいですね。
それに自分の頭が良くないことは、長年の勉強を経てある程度わかってきたつもりです。
勉強自体は好きなんですけどね、とほほ。


最近読んで面白かった本のコーナー
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』アンディ・ウィアー
昨年末にKindleで買いました。以前映画化された『火星の人』の作者ですね。
科学的なことはよくわからないのですが、目の前にある問題に対してどのように解決をしていくか、トライアンドエラーのなかで何を見出すか。そのプロセスの描写の一つひとつが見事で、物語のテンポもよく、のめり込むように読んでしまいました。
問題を解決したい気持ち。それは人間の本質的な欲望なのかなと感じます。赤ちゃんでも、四角いブロックを穴にうまく入れられると嬉しそうにしますよね、両手をぱちぱち叩き合わせますよね。小学生も算数が解けると嬉しいし、ゼルダが楽しいです。大人になってもひとつのプロジェクトが落ち着くと安堵します、もちろんゼルダも楽しいです。らせん階段を上るように、深さは違えども似たような場所をぐるぐると回っているのかもしれません。
とてもよいSFでした。そしてSFが好きでなくてもじゅうぶん愉しめると思います。


『ぼくがぼくであること』山中 恒
岩波から出ている児童文学です。
初版が昭和なので多少ステレオタイプ的な描写もあるのですが、とても面白かったです。
この物語のよい点は、とにかく一筋縄ではいかないところ。あんまり言うとネタバレになりますが、物語が着地しそうなところでもう一展開あったり、こちらの予想を上回ることが起きたり…。
また喧嘩のシーンの迫力がすごくて。島尾敏雄の『死の棘』を彷彿とさせるところがありました。もちろん、児童文学なのでこちらの方が表現はマイルドです。


『知ってるつもり 無知の科学』スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック
Twitterで本の有益な情報を呟き続けている「本ノ猪さん」のツイートで、この本を知りました。
この場を借りてお礼申し上げます、いつもありがとうございます。

筆者の2人は心理学者です。人間の認知バイアスのことや、「ファスナーの仕組み」の説明を求められると無知に気づくメカニズム、いかにものを知らないままで生きているか、専門知の分担について。
平易な文章で幅広く説明されていてすっと読めるのですが、ふと思い返したときにどんなことが書かれていたか思い出せず、あらためて自身の無知に自覚的になれるよい本でした。また読み返そうと思います。


さて。
今年の目標は「失敗を恐れない」です。
自分がものをよくわかっていないこと、頭がじゅうぶん良くないことを抱えつつ。
じゃあ何がわかっているのか、どこまでわかっているのかを何かしらで形に出来たらいいなと思っています。
ああ、でも今日はもうブログを書く気持ちしかありません。
しかも書き終わってしまったので、全部なくなってしまいました、おしまいです。
どうもありがとうございました。


タイガー&ドラゴン&ラフマニノフ

2022-12-06 10:21:50 | 日記

限界なのでブログを書きます。
といっても、特に書きたいことがあるわけでもなく。


なんかずっと忙しいんです。
10月以降、仕事がまあまあ忙しくて。
後輩の相談に乗ったり書類さばいたり、ばたばたしていて。

プライベートもそこそこ忙しくて。
家に帰っても、ピアノ弾いたり酒飲んだりで慌ただしくて。
そんなわけで最近は本も読んでいないし、新しい音楽を開拓することもできていません。
秋以降はずっとラフマニノフのピアノ協奏曲2番と3番を聴き比べていました、そのくらいです。
書いていてなんだか悲しい気持ちになってきました。

Sergei Rachmaninoff: Piano Concerto No. 3 | Khatia Buniatishvili, Neeme Järvi, Verbier Festival


個人的に好きなピアニスト、Khatia Buniatishviliさん。ジョージア出身の方です。
音の粒が綺麗です。いつかラフマニノフを生で聴きたいですね。


何もない休みが少ないのもきつかったです。
先日の日曜日、約1ヶ月ぶりくらいに何もない日曜日でした。
10月~11月にかけては学会や勉強会で日曜日が埋まっていて。
午後だけ勉強会があったとしても、そこからどこかに遠出する気にもならず。
夕焼けを眺めながら洗濯物を取り込んだり、観葉植物に水をあげたりしていました。

本当だったらそこまで埋め尽くされる必要もなかったのですが、今までサボっていたぶんのツケが回ってきたというか。資格の更新のためにポイントをためなくてはならないので、そのせいで奔走していたのです。
奔走した結果、無事更新のためのポイントは溜まりそうです。よかったけど、すり減ったなあ。

「直前になってすごく焦るけど、結果何とかなる」というパターンを繰り返している人生です。
夏休みの宿題も毎年そうでした。大学の課題や論文もだいたいそうでした。
ものごとを計画的に実行できる人が羨ましいです。
私自身、先のことを考えると不安になり過ぎて、直視できないのかもしれませんが。


せっかくの機会ですから、ここで少し先のことを考えて見ましょう。
みなさんは10年後、どうなっていると思いますか?
どんな姿を思い描きますか?あるいは、どうなりたいですか?

私は自分がどうなっているか、さっぱり想像できません。
とりあえず、もう少し自分のペースで働きたいです。
あとは臨床的な仕事をもっと増やしたいんですが…経済的なことと、やっている手ごたえを感じられる業務と。その両立が難しいところです、これに関しては10年くらいずっと悩んでいる気がしますね。
手っ取り早く開業すればいいんだろうけど、さすがにもう少し経験を積みたいし。
私の場合そろばんを弾くのが苦手ですので、共同経営者みたいな人と組まないとすぐ頓挫してしまいそうです。


それはそうと。
10年前の自分は、今の自分の姿を全く想像できていませんでした。
20年前の自分は、何を考えていたかなあ。
「何か面白いことないかなぁ」って毎日のようにぼやいていたきがしますが…
もうほとんど思い出せませんね、寂しいことです。

どうして今のような自分になったか。
いろんな人と出会ったり、偶発的なタイミングもあったりしたんでしょうけど、ひとことで言うならば「なりゆき」ですかね。「なりゆき」、いい言葉だなあ、ちきしょう。


あんまり個人的なことを言いたくないんですが、なりゆきで個人的な体験を書き散らかすことをご容赦ください。
これまでも愚痴めいた近況を述べてまいりましたけれども、さらに長めの自分語りが来ます。
総員衝撃に備えてください、覚悟はいいか?オレはできてる(自分の話なので)。


さて私は村上春樹の『1973年のピンボール』の主人公のように、他人の人の話を聞くことを生業としています。
どうしてこういう仕事をするようになったか。1つには、自分の尊敬する人物がそういう仕事をしていた、というのが大きいです。
小さい子が戦隊ものを見て憧れるように、「ああなりたいな」と思わせるものがその人にはありました。今となっては、「ああはなれないな」と諦めていますが、少しでも近づけるよう努力を重ねる日々です。

さてもう1つには、きっと「自分の話を聞いて欲しいから」だと思うんです。
自分の話を聞いて欲しいから、人の話を聞く。なんだかパラドックスのように聞こえますね。
でも人間は自分がしてほしいことを相手にするし、自分がしてもらえなかったことを相手がしてもらっているのを見ると、妬ましく思うものです。そういえば嫉妬の感情は生後9ヶ月頃から湧き上がるみたいですね。すごいぜ、メラニー・クライン。

話が逸れました。
私としては、自分の話を聞いてくれる相手をずっと求めていたわけです。
でも私の周囲には、少なくとも中学くらいまでは自分の話ばかりする人間が多かったなって。裏を返せば、私の声に耳を傾けてくれる人間が少なかったなって、思春期の頃は勝手にそう思っていました。

もちろんそれが100%厳然たる事実でなく、私の主観的な体験であることは理解しています。
それに家族が話を聞いてくれることはあったし、話をする友達がいなかったわけでもありません。本当です、友達はいたんです。帰る方向がたまたま逆だったから1人で本を読みながら帰っていただけで、友達はいたんです。僕を信じて下さい!

ただ、最近家族とやり取りをしていて、ああこの人たちはあんまり自分の話を聞かないんだよなって、幻滅に似た気持ちになることが多くて。たぶん自分はそういうのが嫌で、思春期の頃はインターネットにつながる相手を求めていた気がします。
当時の自分を振り返ると、寂しかったんでしょう。
分かり合えると感じられる相手が欲しかったのでしょう。

それはともかく。
家族のことを弁護するならば、彼らも外では人の声に耳を傾ける仕事をしていたのです。
彼らだって自分の話を聞いて欲しかったのだと思います。外では言えないことを、家のなかで吐きだしたかったのでしょう。今だったら「仕方ないか」と思えるけど、当時は嫌だったな。
「じゃあ俺の話は誰が聞いてくれるんだ」と思っていただろうし、「自分が話を聞いたら、いつか自分の話も聞いてもらえるのか?」と期待していたかもしれません。

まあ家族を責めても仕方ないし、だったらもっと「ウオオオ!俺だって話したいんだアアアア!!」とプラトーンのポーズ(トップ画参照)を取って家族をビビらせてから話せばよかったんじゃないか?と思ったり。いつまでも被害者ぶってるんじゃないよっていう話です。


「特に書きたいことがあるわけではなく」と言いつつも、「自分の話をしたい」という気持ちから暴走気味の本日のブログですが、話しすぎてそろそろ疲れてきました。みなさんも人に自分の話が出来ていますか?「ひとりで抱え込まないで、人に話すのが大事だよ!」と思っている業種の人間が、自分の話を人にできないのってウケますよね。医者の不養生みたいです。

でもまあ、こんな私のまわりにも話を聞いてくれる人間がいるのは本当にありがたいことです。
感染症は再び流行の兆しを見せていますが、年末ですので友達を誘って飲みに行きたいなと思ったりしています。
みなさまもどうかお元気で。

酒飲んでる場合じゃねえ!

2022-07-29 18:51:22 | 日記

酒飲んでる場合じゃないんだよな


酒飲んでる場合じゃないんでブログ書きます。
とはいえ今日は若干の二日酔い気味です。昨晩調子に乗って飲んだカティサークの水割りが絶対よくなかったよ。
いつまでこんな風に生きているんだか、オホホ。


ピアノが楽しいです。厳密にいうとキーボードですが。
楽器を買ったのは5月ですから、3ヵ月弱続いていることになります。しかし当初から練習している「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、最初の主題に戻ってきたときの左手のアルペジオがなかなか上達せず、しばらく苦しんでいます。合間に「千と千尋の神隠し」の曲を練習していて、こっちの方が先に弾けるようになるかもしれません。あとはサザンの「TSUNAMI」を少し弾けるようになりました。

働いて、酒を飲んだりピアノを弾いたりして生きています。
職場では先輩が休みに入ってしまったので、私が部署のトップになってあれこれ采配を振るっています。とはいえ手際がいいわけではないので、慌てふためきながら、動揺を悟られないように頑張っています。しかも新しく来た人たちがみんな熱心で。
もちろん良いことなんだけど、そうなるとあんまりサボれないんですよね、悲しいなあ。こんなに一生懸命仕事をしたくて生きているわけじゃないのに。南の島で自転車こいだり海に沈む夕日を眺めたりしたいんだよね。

あとは仕事で大事な話し合いが突発的に開かれることが多く、そうなると前日にあんまり酒飲んでられないというか。いつだったか松木先生も「臨床に向いていない人の特徴をひとつ挙げるとすれば、深酒をする人は向いていないですね、翌日思考がまとまらないので」と話していました。そうだよなあ、と思って以前よりセーブをして飲んでいます。
しかしながら、以前より翌日に残りやすくなった気がしていて。「加齢」という言葉が脳裏を掠めます。この前のラジオでオードリーの若林さんが「俺、老眼だわ…」としみじみ話していて。自分もそう感じる日が来るのだろうな、と思って少し悲しい気持ちになりました。仕方ないけどね。今存在している人もやがてみんないなくなるので。


先日友達と飲みました。
その友達とはまあまあの付き合いになります。そんなに頻回に会うわけではないものの年に数回は飲んでいて。たぶん終生の友人になるんだろうな、と勝手に思っているのです。
お互い近況報告をしたところ、彼は着実にキャリアを積み重ねていて。自分のやりたいこと、興味のあることを形にしていっていて。すごいなあ、と思うと同時に、妬ましい気持ちもむくむくと湧き上がってきて。自分はこれでいいのか?と不安にも駆られました。
懐かしい気持ちです。こういった羨望の念や、他者比較から生まれる不安、自己卑下的な気持ち。しかしまあ、自分が彼と同じような歩み方、キャリアの積み方ができたかというとできないんですけどね。自分がやれることをやっていくしかないんだよなあ、と考えます。とりあえず頑張って働いています。あとピアノを練習しています。


さて。
こうしてブログを書くことで気持ちを吐き出し、なんとなくすっきりして終わることがいいのかどうか。
もっと悩み苦しむべきなのかもしれませんが、週6日働いてまあまあ勉強会に参加しているので、ある程度苦しんでいる気はするんですけどね。週によっては朝8時の勉強会に参加して、仕事に行って夜21時半からの勉強会に参加する日もあるので。ウソみたいだろ。手取り低いんだぜ。それで。


最近は本もあまり読んでおらず、仕事をこなしていくので精一杯で、腰を据えて物事を考えられていないというか。音楽も、作業をしながらドビュッシーやラヴェル、バッハを聴くくらいで。あまり新規開拓できていません。
なのでブログに書く内容も、いきおいライブに行った話や友達と会った内容になってしまいます。ネタがないので。とある友人は、私と飲みに行く前に奥さんから「ブログに書かれるよ!」と言われたようです。まあ現にこうして少し触れているんですが…笑



長々述べてまいりました。
漠然とした不安はありますが、とりあえず生きています。疲れたので特にオチはありません。今週日曜日も勉強会か~自分が選んだ道とはいえ、たまには弱音も吐きたくなります。まあ酒に逃げるよりかはブログに書き散らす方が健康的なコーピングですけどね。
でもたまには飲みたくなります。私のブログのネタになっても良いという方はお誘いをお待ちしております。

日記

2022-03-11 17:07:18 | 日記
もうマジで無理なんでブログ書きます。


国破れて山河在り、確定申告が済んで悲しみ深し。
2月下旬に池袋で古本市があって、仕事がひと段落したら行こうと思っていたのですが気づいたらもう3月中旬に差し掛かっていました。時間の流れ早すぎワロタ、アララァ。

自分がメインで働いている職場のお話。
私の部署は今年度3人体制だったはずなんですが、今後2人メンバーチェンジが起きます。しかも途中から私が最年長。前にも似たようなことがあったけど、再び動揺しています。
こんな心もとない職場でやってられるか、俺は1人でブログを書くぞ!!というお気持ち。
まあでも人が来ないよりかはマシか、剣呑剣呑。

純粋に人との別離が寂しいですね。
忘れてたけど、これぞ年度末って感じです。くたびれるなあ。



書きたいことが山のようにあります。
1つ目は、この春から再び週6労働に戻ること。
安定とやりたいことと、両立を図るために仕方ない選択というか。
どうして自分の業界は一生懸命働く職場に限って給料が安いかなあ。
やりがい搾取と言えばそれで片づけられちゃうかもしれませんけど。
まあ死なない程度にぼんやり働きます。


2つ目。
最近読書が楽しいです。
ちかごろは勉強と興味の兼ね合いで、アタッチメント関連の本を読んでいます。
細澤先生が翻訳したジェレミー・ホームズの『アタッチメントと心理療法』が読み応えがあって面白いです。うまく説明できませんが、そうそう、これぞ精神分析~って感じがします。人のこころの痛みに触れるさい、どのようにアタッチメント理論やメンタライゼーションがその補助線となり得るか。半分まで読んだのですがいい本と巡り合えた喜びが大きいです。

あとは東大の遠藤先生が昨年出していた『入門 アタッチメント理論 臨床と実践の架け橋』。これもアタッチメント研究の変遷を多角的に捉えていて、たいへん興味深い本でした。「たかがアタッチメント、されどアタッチメント」と書かれていたけれども、私たちの人生の大切な要素のひとつとしてアタッチメントを、できるかぎり客観的に捉えようとする姿勢に好感が持てました。それと筑波大の原田先生が出していた虐待の本も途中まで読んだのですが、エビデンスを前面に押し出している感じで、こちらはあんまりしっくりきませんでした。今後面白くなるかもしれません。

そして『アンナ・カレーニナ』を細々と。もうすぐ読み終わりそうです。長かったね。
ときどき彼女と喧嘩する私にとって、アンナとヴロンスキーの関係を見ているとぞくぞくしますね。ワハハハ。トルストイとは仲良く酒が飲めそうです。ウラー!!(ロシア語で「万歳」の意)


3つ目。
お恥ずかしい話なのですが、酒を飲み過ぎてしまいます。
それがよくないことなのは自分でもわかります。でも飲み過ぎちゃう。
飲まない日もまあまああるんですけど、飲む日に調子に乗って飲み過ぎます。そして翌日辛い気持ちになります、本当に愚か。いい加減学習してもいい頃なんだけど繰り返しています。
どうしてなんだろう、って思います。

私の兄も結構酒を飲む人です。たぶん私よりもガンガン飲んでるんじゃないかな。
私は一人で家で飲んでいます。飲み過ぎちゃうのは色々要因があるのでしょう。
人がころころ変わっちゃう職場に対して「やってられるか!」という気持ちもありますし、頑張った自分への報酬の役割もありますし、将来に対するただ漠然とした不安を打ち消すためでもあります。
こういった飲酒は、ストレスへのコーピング(対処行動)の一種だと言えるでしょう。
しかも飲酒は手軽で、手っとり早いというメリットがあります。

でも。意過度な飲酒はよくないですよね。アル中になってしまいます、中島らもになってしまう。
飲酒以外のコーピングを探さないとなあ、と思うわけです。
山に登ったり人と話したり、楽器を弾いたり海を眺めたり。

自分で言うのもなんですけど私はめちゃくちゃ意思が弱い人間です。
おのれの意思でセーブすることができるとは到底思えなくて。
喫煙をやめた時のように、酒を飲んだら気持ち悪くなる薬を出してもらった方がいいのかもしれません、手遅れになる前にね。


こうしてブログを綴るのも、コーピングの一種です。
苦手な書類仕事を押し付けてくる職場への背任行為の意味もありますが、書き出してみると自分のなかにあったもやもやに輪郭が与えられる感覚があって。それで気持ちが少し楽になるというか。

文章を書く行為は、小さい頃から好きでした。
小学校のとき、校外学習に行ったときの作文をあほみたいに長々と書いて。
海の近くの宿泊施設に行ってただカレー作って食べただけなのに、なぜか原稿用紙10枚くらいの作文を書きました。いったい何を書いたのか、今となってはさっぱり思い出せません。きっとカレーが美味しかったことに長広舌をふるったのでしょう。

それに近い体験として。
中学生のときの話ですが、数学の教師が少しユニークな先生で。
新しい単元に入る時に、生徒にあるチャンスが与えられたのです。
それは「単元の冒頭にある挿絵から物語を作ってみんなの前で話すと、そのぶんだけ授業の時間が短くなる」というものでした。毎回クラスのみんながああでもないこうでもないと物語を話し、なるべく授業時間を削ろうとしていました。
そこで私は1回だけですが、べらべらと適当な作り話をでっちあげ(登場人物を宇宙に飛ばしたように記憶しています)、結局授業時間が終わるまで話し続けたことがあります。


だからなんだって話なんですけど。
人間は大なり小なり物語のなかで生きているし、生きていくうえで自分なりの物語を必要としているのではないか、とふと考えたり。詩や小説などの文学作品も、他者との対話や心理療法も、そういった物語の生成に寄与する営みなのだろうな、と最近考えます。河合隼雄や小川洋子も、どこかでそんなことを言っていたような...。

それはそうと。
上に書いたように、週6で労働するのも、読書をするのも、酒を飲み過ぎるのも私の物語の一部なわけです。
そしてその物語が破局的にならないよう、なるべく不幸に陥らないように生きていけるといいなと思っています。
みなさまもどうかお元気で。

日記

2022-01-28 17:48:17 | 日記
ご無沙汰しております。

感染者が爆発的に増えてきました。
私のまわりにも家族がPCR検査を受けた人、自身が陽性になった人がでてきました。
まあこれだけ感染しているんだから、時間の問題でしたね。

私はといえば。
テレワークになることもなく、混雑した電車に乗って仕事に行っています。仕事が終わったら帰ってごはん食べて本を読んだり酒を飲んだりしていて。普段の生活に大きな変化があるわけではないのです。でもこの2年にわたるコロナ騒動が、私たちの無意識に与えている影響は小さくないと思っていて。

気づけば居酒屋にほとんど行かなくなりました。
休みに遊びに行くにしても、泊りがけの旅行や人が集まりそうな観光地には行っていません。もともと出不精ではあるものの、買い物も身近なところでほぼ済ませるようになりました。
意識的に控えている部分もありますが、そもそも「選択肢に入らない」「行こうとすら思わない」というふうに、私たちの無意識がその選択肢をそぎ落としている面もあるのでしょう。

勉強会もオンラインがほとんどだし、オンラインだと集中が途切れます。
途中で筋トレしたりシンクの掃除をしたりしてしまいます。
友達と飲む機会も減りました、昨年は年に5~6回くらいでしょうか(あれ、まあまあ飲んでるな…)。
趣味でやっていた楽器の演奏もほとんどやらなくなってしまったし、年末年始も帰省せず。
ライブには何回か行ったけど声は出せないし。年末のナンバーガールは完全着座での観覧でした。
こうして考えると失ったものがいかに多いか、身に沁みて感じます。


でも仕事はいつも通りあります。
雑多な書類を片づけたり、人と会って話したり調整したり。
この不均衡に疲れます。

いつも通り、今まで通りの日常を過ごしているつもりになっている。
しかしながら。私たちの無意識はこれが非日常だと感じている。
脳の一部では常にアラートが鳴っていて、今まで通りの日常でないことを感じている。
疲れますよね。

だからなのか。
この1年で酒を飲む量が増えました。彼女との喧嘩も増えました。
居酒屋、旅行、音楽、遠出…こういった気晴らしが減ったのもあるでしょう。また、いわゆる「ハレ」の日が失われている一方で、部分的な「非日常」が継続しているストレスもあるのかもしれません。

あとは職場でも友達とでも、他者とのコミュニケーションが減ったように思います。
これは単純に飲み会が無くなったから、という話ではなくて…とはいえ何故コミュニケーションが減ったのか、十分に理解できていないのですが。まあでもとにかく、いい加減疲れたよね。

ひとまず何気ないコミュニケーションを復権していく必要があるのかな、と思うなどしています。
気づくのに時間がかかってしまったけれども。


2年前に中巻まで読み終わって放置していた『アンナ・カレーニナ』を読んでいます。
ふと大人数で集まって飲食している場面を見て、そういえばこういう会食を久しくしていないな、と思うわけです。そういうきっかけがないと思い出せないというか、それくらい「飲むときは少人数」「出来るかぎり多くの人との接触を避ける」という命題が、我々の身体にしみ込んでいるんですよね。

人間は社会的存在だし(これはルソーが言ったんだっけ…?と思って調べたらアリストテレスでした)、遊ぶ存在だし(これはホイジンガが言ったはずです)。でも社会とも遊びとも距離が生まれているとなると、微妙に生きることから「疎外」されることになるんですよね。この疎外をなんとかするために、私は今日もひとりで社会的に飲酒をしようと思います。みなさん今週もお疲れ様でした。