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砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

お近況

2023-09-05 18:55:27 | 日記
病み上がりなのでブログを書きます。
ここ最近の行動

8月に実家に帰省。海を見に行き、温泉に入る。高温のサウナでメガネのレンズがずたずたになる。私の心もずたずたになる

上京する際に台風が直撃。事態を甘く見ていたが大変なことになる。新幹線が止まったり動いたりを繰り返し、ちっとも動かない。心がずたずたになり、ホテルを予約して途中下車してそのへんに泊まる

翌日、始発の新幹線に乗る。幸運にも座席を確保できたが、その新幹線に不具合が生じて下ろされる。心がくしゃくしゃになる。その後、いろいろ諦めて在来線で287kmを移動。星野源のラジオを聴く。途中駅から「ひかり」に乗り、上京チャレンジ成功

次の日から出勤するも、微妙に体調が悪い。労働アレルギーだと認識。その日、運が悪いことに緊急対応あり残業。退勤する際に熱を測ると37度だったが、帰宅して再度熱を測ると38度を超えていた

翌日、抗原検査キットに綺麗な2本線が見える。ウソみたいだろ。陽性なんだぜ。それで。

嫁にも感染する

かゆい、うま

このようなことがありました。親族は無事だったので、新幹線のなかでもらったのかもしれません。その後無事に回復して労働を再開しております。感染症から回復し、久しぶりにビールを飲んだら味が違って悲嘆に暮れました。
コロナに罹っていた期間は39度台の熱がでて、苦しみながらずっと寝ていました。発熱3日目くらいからようやく回復しましたが、その後も咳などの後遺症が微妙に続いております。しんどかった。

復帰して真っ先に思ったのは「労働したくない」ということ。お金は欲しいけれども、あまり頑張って働きたくはないです。もちろん、まったく頑張らないわけにはいかないのですが。最近ポール・ラファルグの『怠ける権利』をだらだら読んで、そう思います。

私はざっくり言うと対人援助職の領域になるのですが、まあやりがいのある職場、手ごたえを感じやすい職場は基本的に給料が低い構造になっており。逆に「これ一体なんの役に立っているんだろう?」と虚無を感じやすい職場は、給料がよいです。よいといっても業界のなかではマシくらいで、いわゆる大手企業の足元にも及びませんけれども。およよ。

やりがいや手ごたえを感じつつ、ある程度金が入ってくればいいのですが、まあそんなにすべてがうまくいくこともないわけで。悲しいですね。でもまあ、これがある程度現実なのでしょう。長いこと働いてきて、ようやく直面しつつあります。昔はロマン主義者だったのですが。

何を優先するかは人それぞれですね。
私の場合は、ある程度よい仕事、誠実な仕事をしながらも、無理しないように働きたいと思っていて。仕事が終わって家に帰って、ある程度ちゃんと料理を作りたいし、楽器にも触りたい、読書も愉しみたい。ゆっくり風呂に入り、ちゃんと寝たい。時には旅行に行きたい。

そう考えると、ある程度虚無に耐えつつも、それなりの金を得て生きていきたいわけです。虚無とどう付き合っていくか。昔抱えていた虚無に比べたらずいぶんマシになりましたが、まだまだ労働を続ける必要があるので、虚無ちゃんとは適度な距離感で付き合っていきたいですね。


ぼんやりしていたら足を蚊に刺されました。私の血を吸って産卵のエネルギーを蓄えているんですね、そう考えると私も蚊たちの役に立っているわけです。
許さん、見つけ次第処す!!!!!!!!

日記

2023-08-08 16:29:37 | 日記
だるい。
暑いし、今週末に台風が来るしでやっていられない。
これと言って先の楽しみがあるわけではない。
実家に帰省するためのチケットも、まだ買っていない。
だるいのである。



いつもぎりぎりで行動を起こしている。
夏休みの宿題は、毎年8月下旬から焦ってやっていた。来年こそは、と思うものの、人間は忘れてしまう生き物である。その反省が活かされることはほとんどなかった。その証拠に、大学の卒論や修論もぎりぎりになって半泣きで書いていた。
締め切りが迫る日の深夜、研究室から喫煙所までの道のりを歩きながらMr.Childrenの「光の射す方へ」をよく聴いていた。

夏休みのある小学校時代に帰りたい

歌のなかで、主人公(というか歌い手?)の母親が愚痴るように放つ台詞である。
私としては、締め切りが刻一刻と迫ってくる夏休みよりも、いつも通り学校がある方が楽だった。長期的な目標に向けて自分で計画を立ててこつこつやるのではなく、宿題をやるのは日々のルーティンの1つ。夕食を食べるのと同じくらいに、その日やるのが当たり前のこと―そう認識している方が、気持ちが楽だった。

時間がどんどん過ぎていくなかで、「まだ時間があるから」から「そろそろやらないとまずいかも。でももう少し大丈夫かな」になり、「あれ、思っていたよりもヤバくない?」から「うわ…なんでやっていなかったんだろう。一体何していたんだろう」という気持ちに切り替わる瞬間。やがて襲ってくる、タコ糸でぎりぎり締め付けられるような苦しみ。悔恨している間にも、時間がどろどろに溶けていく感覚。賭博で借金をこさえるドストエフスキーも、あんな気持ちだったのかな。


なぜ同じような失敗を繰り返すのか。
ぎりぎりにならないとやる気が起きないのもある。あとは性根が楽観的な部分も大きい。「まあなんとかなるか」と思って生きているのである。たぶん人生をナメているのだろう。

とはいえ。
危機や締め切りに直面すると、さすがに楽観的でいられるはずもなく。直前になるとものすごく焦るのである。あの瞬間がたまらなく苦しい。しかし、いつまで経っても継続的努力することができず、締め切り直前に残業して帳尻を合わせたり、普段の2倍くらいのペースで文章を書いたりしているのである。愚かである。
そんな話はどうでもいいか。

とにかく。
継続的に努力ができる人が羨ましいし、素直に尊敬する。「享楽的な生き方をしていてはだめだよ」と、イソップ物語にすら書いてあるのに。きっと、大昔から自分と同じような人間がいたのだろう。そう考えると少し心強いかもしれない。いいのか、それで。


そういえば朝井リョウの『正欲』を読んでいる。
こんなにセクシュアリティに踏み込む物語を久しぶりに読んだ。読んだ、といってもまだ230ページくらいなので中盤だ。これからどうなるのか、ものすごく楽しみである。朝井リョウの小説を読むのは、『桐島、部活やめるってよ』以来だったが、こんなにすごい書き手だったか。びっくりしてしまった。

村田紗耶香の『コンビニ人間』を読んだときに、画一化された価値観が蔓延している現代の生き方に、一石を投じているように感じた。アンチ・ヒューマニズムというべきか。コストパフォーマンス、合理性、そういったものを追求する一方で、戦前戦後からの家族を大事に的な価値観。そこに生まれる「ひずみ」のようなものを描いた作品だったと記憶している。あれもすごい作品だった。面白いというよりも、面食らう感じ。

そして『正欲』でも、似たように面食らってしまった。この作品は、タイトルが表すように「なにが正しいセクシュアリティなのか」ということに疑問を投げかけているように思う。多様性と言えば聞こえはいいし、性的指向といえばマイルドに聞こえるが、突き詰めて考えるとこの小説で描かれているような、どこまでいってもザルからこぼれていく人がいるのだろう。

もちろん小児性愛や児童ポルノは、昨今ジャニーズの問題でも大きく取沙汰されているが、被害者に相当な傷つき、深刻な被害を与えるため到底許されるものではないのだが…じゃあどうしたらそういった性的な指向を持つ人たちがザルに掬われていくのか。まあ、冒頭の描写のようにそもそも、掬われることを願っていないかもしれないけれども…。
安易に多様性と訴えたところで、どうしたって外れていく人がいることを、どこまで意識できるだろうか。少なくとも私はこの本を読むまで、十分にピンときてなかったな、と思う。残り200ページもある、これから先どうなるのか本当に楽しみである。


話が逸れるようで逸れない。
コミックマーケットが週末にある。私は昨年初めて行ってみた、4630万円を受け取った人のコスプレが目に焼き付いている。午後に行ったので撤収している人たちも多かったが、本当にいろんな指向があるんだなあと感じた。

メタリカのヴォーカル、ジェームズ・ヘッドフィールドがインタビューで語っていたことを思い出す。
自分の子どもがソウルやラップを聴いていることに対して

「それはヒドい音楽だ、これを聴け!」という気持ちにはなる
でも子供たちの人生なんだ。オレは安全を守る保護者に過ぎない
彼らには彼らの道がある。好きな音楽を追求するように言ってるよ
誰かを傷つけるような音楽でない限りね

(出典:2010年11月11日放送、「MUSIC JAPAN overseas」のインタビューにて)

彼はそう語っていた。
上述した多様性を許容する範囲であるが、「誰かを傷つけない」というのがひとつの手がかりになるかもしれない。しかしながら。人間は些細なことで傷つく。傷つけないことが線引きになり得るか、と言われたら、自信を持ってそうとは言えない。人によって傷つく範囲や程度が違う。文化やその人が生きてきた歴史によっても、線引きは大きく異なる。


ふらふらと揺れる足場の上で、傷つく側、あるいは傷つける側にならないように、ずっと立っているようでもある。
悲しいことも多い。
だから人生は疲れる。
だるいのである。

寂しガリヤ戦記

2023-07-18 18:05:10 | 日記
3連休が終わってしまいました。
私は土曜日に労働しているので、2連休でしたけどね。
2連休て。世の中の人にとってはただの土日じゃん、ウケる。フォカヌポゥ。

でもこの連休がとても嬉しかったのです。
週6労働はそろそろしんどいやもしれません。
神が天地創造をした際に、7日目を安息日にするだけじゃなくて、4日目で午後休んだり、6日目も安息日にしてくれたりしたらよかったのに。憐れな人間たちの限界に配慮しないなんて、気が利かない神様ですこと。まあヨブにはバリバリ試練を与えていたからな…週6勤務など優しいものか。



ゼルダの新作をクリアしてしまいました。
SNSを見ていると不意にネタバレをくらいそうだったので、とりあえずラスボスでも倒そうかと思って。
泪はすべて回収して、ゴロン族はほったらかしてクリアしました。
今作はストーリーがとてもよかったですね。前作のブレワイがすごく面白かったぶん、期待を裏切られないか不安もありましたが、シナリオや最後のあたりの演出が胸にぐっと来ました。ありがとう任天堂。

昨日の昼にラスボスを倒して、それからゼルダロスです。この連休はだらだらするか、映画を見るか、ゼルダをするくらいしかしていなくって。ごはんは適当に食べて、冷房がよく効いた部屋で寝転んで。

映画「リバー、流れないでよ」を新宿まで繰り出して観たのですが、良い作品でした。タイムリープもので。後半になって、登場人物が思い思いに話をする場面が気持ちが乗ってて良かったです。ちょっと前に観た「ドロステのはてでぼくら」に演出が近いと思ったら、脚本が同じ人でした、なるほどね。それから1人でのんびり過ごしていたんですが、ふと寂しくなっていることに気づきました。


あっという間に連休が終わる寂しさもあります。
映画に刺激された寂しさもあります、気持ちを優しく揺らされるような、良い映画でした。
ゼルダをクリアした寂しさもあります、ゴロン族はずっとおいし岩を食べています。
こういう「寂しい」という感情は不思議なものですね。

そういう気持ちがあるから、人と会いたくなったり、誰かと話したくなったり、こうしてブログを書きたくなったりするわけです。自分はたぶん、かなり寂しがり屋なのだと思うのです。この年齢にしてまさか再認する日がくるとはね…でもそうなんだから仕方ないんですよ。抑圧したり否認したりするんじゃなくて、寂しさとうまく付き合っていくのが大事なのかなと。

しかしながら。
じゃあ気軽に人を誘って飲み行こうぜ!!とできるほどの行動力がなくて。「断られたら嫌だな」とか「迷惑じゃないかな」という考えがちらついてしまい、ぐずぐずしているうちに太陽が南中を越え、西に沈んでいくのです。寂しいね。
思えば幼少期からそういう傾向があり、なかなか友達を誘えない人生を歩んできた気もします。いや、友達はいるけどね。嘘じゃない、本当にいるって。おい、そんな目で見るなよ。

平たく言えばただの自意識過剰なのですが。前にパンサーの向井さんもラジオで同じようなことを話していて、勝手に心強さを感じています。向井さんの影響で、私もロールパンナちゃん推しになりそうです。

1人でできるアクティビティでもすればいいのでしょうが、こうも暑いとなかなか外に行く気になれないですね。数年前はふらっと真鶴や鎌倉に足を運んでいたんですけどねえ。どこか遠くに行きたいな。でも週6日労働していて遠くに行きたいと願うなら、大切ないとしいしと my preciousss である年休ちゃんを駆使しなくてはならないのですよねえ。年休ちゃんのことも大事にしてあげたいし、うーん、どうしようかなあ…と悩んでいるうちに太陽は南中を越え、季節が巡るのです。寂しいね。


次の連休はいつかな、とカレンダーを見たら9月でした。
8月は11日が山の日で休みですが、私は12日が仕事なので連休ではありません。
お盆も休みを取って実家に帰るものの、勤労が待ち受けています。
これでは連休がとうぶん先ではござらんかwwwwコポォwwwwww

再见、孩子们!

2023-05-17 17:31:14 | 日記
やばいです。
なにがやばいって、全然仕事をさぼっていないのです。
いったい私はいつからこんなに勤労を美徳とする人間に成り下がってしまったのか。
このままだと資本家にいいように搾取される一方です、蟹工船です。おい地獄さ行くんだで!
自我を取り戻すためにブログを書きます。以下、断片的な話をぱらぱらと。


最近中国語を勉強しています…といっても一日数分程度です。
Duolingo(デュオリンゴ)という、めちゃくちゃこまめに犬や鳥が褒めてくれるアプリと、SpotifyのHSK中国語検定対策のPodcastを聴いて勉強しています。

中国語は文法が楽でいいですね、そのぶん発音がややこしいですが。
最初は「犬がコーヒーを飲みます」みたいな非現実的な例文をやっていたのですが、今は「私の学校はレストランの右にあります」くらいの文章までたどり着きました、少し現実的な勉強しています。
リスニングをしながら、聞き取れることばが増えたり、意味のわかる単語が増えたり…そういった瞬間に外国語を勉強する喜びを感じます。


職場の人から勧められて、伊坂幸太郎の『チルドレン』と『サブマリン』を読みました。
すごく久しぶりに彼の作品を読みました。大学生か院生の頃に読んだ『砂漠』以来だと思います。
破天荒というか、思ったことがそのまま口から出るエキセントリックな人物を中心とした、家裁調査官の話です。『チルドレン』は短編の集まりでしたが『サブマリン』はもう少し踏み込んだ話になっていて、どちらも面白かったです。
途中で出た「相手の大事なものを蔑ろにするな」という言葉がいいなあと思いました、私もそういう気持ちで日々、人の話を聞いているので。共感できるというか…うーん、共感?共感とも違う感覚かもしれませんが、自分の仕事の領域以外でも同じようなことを考える人がいるのだなと思って。あくまでの小説の人物の発言ですが、心強さや嬉しさを感じたり。


映画「BLUE GIANT」を2回観ました。
映像やストーリーも良かったですが、音楽が抜群に良かったですね。私は石若さんのドラム目当てで観に行って、1回目に見た時は演奏シーンで終始にやにやが止まらなくて、最後のライブシーンでは「なんじゃこりゃ」と射貫かれるような衝撃を受けました。
2回目は極音上映なるものを観に行って…でもそうなると、音の良さとCGの質のギャップがより大きくなって、うーん…という感じでした。演奏が良すぎるあまり、CGの粗さが少し気になったというか…。でも2回観て良かったです、すごく良かった。


生活面の見直しをしています。
いろいろと参加していた勉強会を整理して、今年度はずいぶん減らしました。去年の秋頃は学会や勉強会で死にそうになっていたので、もう少し趣味やのんびりする時間を捻出したいなと思っています。ピアノももう少し上達したいですし、遠出したいですね。個人的には島に行きたいところ。

しかしながら。
コロナの騒動が落ち着いてきたこともあり、どこの観光地も混雑していることでしょう。田舎で育った私にとっては、人間がたくさんいる場所に行くとたいへん消耗してしまいます。根がせっかちなので待つのも嫌ですし、気を遣って順番を譲り合うのも嫌です。ビルゲイツくらい金持ちになれば島を丸ごと買い取れるんでしょうけど、あいにくビルゲイツにはなれそうにありません。


そんなこんなでなんとか生きています。
最近、前よりも死にたくない気持ちが強いです。
すこし寂しいですが、仕方ないなと思っています。

限りある愛

2023-03-03 17:21:27 | 日記
疲れているので断片的な話をぱらぱらと。
急な話で恐縮ですが、愛に限りがないのは神や仏だけなんだろうな、と思います。
キリスト教の神が与える愛は「無償の愛」「アガペー」と言われますよね、英語だとunconditional loveだそうです。無条件の愛。どんな状態でも愛してくれるわけです。人間の家庭だとそうはいかないよね。シンナー吸ったりアル中になったり、はたまた不貞を働いたりすると愛は確実に損なわれていく。

仏教でも「阿弥陀仏(阿弥陀如来)」という仏が、主に大乗仏教系で信仰の対象となっています。阿弥陀仏は、サンスクリット語でアミターユス(無限の寿命を持つ者)とアミターバ(無限の光明を持つ者)として表されるらしいのです。たとえ人間が輪廻をぐるぐる廻っているあいだでも、阿弥陀仏はずっと光を与えてくれる。そういう存在として信仰されたようです。人間には決して真似できない芸当ですね、限界がありますから。皆死にますから。

ちょっと前に研修会に参加して。そこで、ある男性の方が「人間が誰かに与えられる愛って限りがあると思っていて」と発言されていたのがずっと記憶に残っています。だから何だって話ですけど。
いろんなことに関心や興味を持つのもいいけど、どこかに限界があって。
取捨選択をしていかなくては、と思う次第です。


人間の有限性、限界について考える日々です(なんでそんなことばかり考えているんだろうか、死期が近いわけではないのですが)。
昨今もてはやされているケアの概念やアンガーマネジメントもなあ。
最近ではスマホのアプリでAIによるカウンセリングを受けられたリ、CBTが受けられたりするみたいです。色々と開発されていくのはいいんだけれども、人間は社会的動物であり、他者とつながることでしか回復しない面があると思うけど、他者が開発したAIに委ねられるというのも皮肉なものですね。

大半の人はそれでいいのかもしれないけど、どうしたってそこから外れていく人もいるよなあ…と思ったり。
某ひ〇ゆきから「なんかそういうデータとかってあるんですか?」と言われたら、こちらは「ぐぬぬ…」と呻きながら憤死していくしかありませんが…。基礎系の心理の方に頑張ってもらいたいところです、私はSPSSを操作しようとすると目がつぶれる呪いにかかってしまっているので…。


先日ラジオを聴いていたとき、エルレガーデンの「風の日」という曲を初めて通して聴きました。
部分的に聞いたことはあるけど、ちゃんと聴いたのは初めてで。
すごくいい曲でした。もちろん音楽もいいんですけど、歌詞がすっと身体にしみ込んでくる感覚があって。天気が変わるように、どうしようもなく周囲の環境に振り回されていく私たち。どうしたって影響を受けざるを得ない。ふとそういう自分を、有限性のある存在を意識しました。

最近、漱石の『草枕』を読んでいます。
冒頭の「とかく人の世は住みにくい」で有名な小説です。確か『坊ちゃん』の次あたりで書いた作品です。この辺から『虞美人草』までは、頭でっかちな文章が多いですね。本作でも絵描きである主人公が、ああでもないこうでもないと、詩作や美学について思い巡らせているのを見て「なんだこいつ?」と思ってしまいます。
イギリスの詩人の作品を諳んじている箇所は知識をひけらかしているように見えるし、目の前の熊本の景色を眺めつつ芸術とは…と小難しく考えている箇所は「いい気なもんだよ。この高等遊民が!」と詰りたくなります。

しかしながら。
そう感じるのは自分に余裕が無いせいでは?と思ったり。
話が冒頭に戻ってきますが、私自身の限界もあり、興味を持てること、学びたいこと、関わりたい人…注げる熱には限りがあります。何かを切り捨てたいわけじゃないけれども、やはり選ばざるを得ない状況があります。
そういえば、昔通っていた下北沢のおじさんからもそんなことを言われた気がするな、あのおじさん元気かしら。


そう、人生は有限。
一生懸命仕事している場合じゃないんです。
そう思った私はやおら仕事をさぼりはじめ、こうしてインターネットの大海に文章を投棄するのでありました。
めでたしめでたし。