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こんばんわ。木蓮です。
大晦日の晩に、皆様如何お過ごしでしょうか?(^^
私の居住地・大阪では朝から風がきつくて、寒いのなんのって!
ヒーターつけてないと手が凍ってタイプできません・・・
沖縄はちょうどいい温度なんだろうな~ >くらりす
今日は、年末の長いおやすみの間に読んでいる本の
感想を書きたいと思います。
* * * * *
ヘーゲルのこの本は、読むのは2回目でしょうか。
2年前の誕生日の日にある人から送られたものですけど、
なかなか最後まで読ませてもらえません。
長い著述なので、ブログに1歩1歩、記録を残しつつ、
読み進めたいなと思います。
Ⅰ.感覚的確信 ―――「目の前のこれ」と「思い込み」
(P.066~P.077)
※以下、引用は『』で書きます。
『まっさきにわたしたちの目に飛びこんでくる知は、直接の知、直接目の前にあるものを知ること以外にはありえない。この知を前にして、わたしたちは、目の前の自体をそのまま受けとる以外にはなく、示された対象になんの変更も加えず、そこに概念を持ち込んだりしてはならない。』
(P.066)
●要するに、今目の前に見えることは限りも無く、感覚的には真実であり、
なんら疑うことはないということでしょう?
『感覚的確信が真理だと称するものは、もっとも抽象的で、もっともまずしいものである。感覚的確信が、自分の知る対象についていうことは、「それがある」ということだけで、その真理にふくまれるのは、事柄があるということだけである。』
(P.066)
●でもって、その真実は普遍的な真理ではないですよ、と。
感覚的確信の正体は、ただそこにあるということだけ。
例えば、目の前にドラちゃんのぬいぐるみがあって、
そこにドラちゃんのぬいぐるみが「ここ」に「ある」ということだけが真理だと。
『自我は、「いま」や「ここ」や「このもの」と同様、一般的なものでしかありえないのだ。わたしはこの個としてある自分を思うことはできるが、個としての自分をそのままことばにできない。それは、「いま」や「ここ」として思ったものをそのままいうことができないのと同じである。』
(P.071)
●感覚的確信がその内容を言葉にするとき、
それは普遍の真理ではなくなっている。
「ここ」と一言でいっても、いろいろな「ここ」があるわけだし。
私が首をひねって視点を変えれば、「ここ」の内容は変ってしまう。
「ここ」として、その指し示すものは、無限に存在するので、あって、
全部書けばきりがない。
だから「ここ」としか書けない。
内容というより、形式的なものでしか表現できないんだね。感覚は。
『要求する人自身がこのものとかこの自我というときなにを考えているのか、である。が、それをいうのは不可能なのだ。』
(P.071)
●感覚的確信を持っているそのもの自体を言葉にできないって、
それって、私達は考えてるけど、考えてる私達はなにものってことでしょ?
このⅠ.感覚的確信から始まって、Ⅳ.自己確信の真理に至るまでの
論法がとても興味深いです。
Ⅰ.であれだけ感覚的確信は、一般的なものでしかありえないといっておきながら、
Ⅳ.では、『確信と真理が一致するいった事態』に向かっていく。
わたしはこの本を開いて真っ先に読んだのが、Ⅳ.自己確信の真理 だった。
だって、タイトルからして、一番知りたいことでしたし。
この方の著作は確かに難しい書き方をしている箇所はありますけど、
絶対読めないものではないように思いますね。
疑りながら読むんではなくて、
とにかく、著者の思惑通りの道順で進んでいきましょう。
というのが正解な読み方ではないでしょうか?^^
ではでは、次回は Ⅱ.知覚 です。
大晦日の晩に、皆様如何お過ごしでしょうか?(^^
私の居住地・大阪では朝から風がきつくて、寒いのなんのって!
ヒーターつけてないと手が凍ってタイプできません・・・
沖縄はちょうどいい温度なんだろうな~ >くらりす
今日は、年末の長いおやすみの間に読んでいる本の
感想を書きたいと思います。
* * * * *
ヘーゲルのこの本は、読むのは2回目でしょうか。
2年前の誕生日の日にある人から送られたものですけど、
なかなか最後まで読ませてもらえません。
長い著述なので、ブログに1歩1歩、記録を残しつつ、
読み進めたいなと思います。
Ⅰ.感覚的確信 ―――「目の前のこれ」と「思い込み」
(P.066~P.077)
※以下、引用は『』で書きます。
『まっさきにわたしたちの目に飛びこんでくる知は、直接の知、直接目の前にあるものを知ること以外にはありえない。この知を前にして、わたしたちは、目の前の自体をそのまま受けとる以外にはなく、示された対象になんの変更も加えず、そこに概念を持ち込んだりしてはならない。』
(P.066)
●要するに、今目の前に見えることは限りも無く、感覚的には真実であり、
なんら疑うことはないということでしょう?
『感覚的確信が真理だと称するものは、もっとも抽象的で、もっともまずしいものである。感覚的確信が、自分の知る対象についていうことは、「それがある」ということだけで、その真理にふくまれるのは、事柄があるということだけである。』
(P.066)
●でもって、その真実は普遍的な真理ではないですよ、と。
感覚的確信の正体は、ただそこにあるということだけ。
例えば、目の前にドラちゃんのぬいぐるみがあって、
そこにドラちゃんのぬいぐるみが「ここ」に「ある」ということだけが真理だと。
『自我は、「いま」や「ここ」や「このもの」と同様、一般的なものでしかありえないのだ。わたしはこの個としてある自分を思うことはできるが、個としての自分をそのままことばにできない。それは、「いま」や「ここ」として思ったものをそのままいうことができないのと同じである。』
(P.071)
●感覚的確信がその内容を言葉にするとき、
それは普遍の真理ではなくなっている。
「ここ」と一言でいっても、いろいろな「ここ」があるわけだし。
私が首をひねって視点を変えれば、「ここ」の内容は変ってしまう。
「ここ」として、その指し示すものは、無限に存在するので、あって、
全部書けばきりがない。
だから「ここ」としか書けない。
内容というより、形式的なものでしか表現できないんだね。感覚は。
『要求する人自身がこのものとかこの自我というときなにを考えているのか、である。が、それをいうのは不可能なのだ。』
(P.071)
●感覚的確信を持っているそのもの自体を言葉にできないって、
それって、私達は考えてるけど、考えてる私達はなにものってことでしょ?
このⅠ.感覚的確信から始まって、Ⅳ.自己確信の真理に至るまでの
論法がとても興味深いです。
Ⅰ.であれだけ感覚的確信は、一般的なものでしかありえないといっておきながら、
Ⅳ.では、『確信と真理が一致するいった事態』に向かっていく。
わたしはこの本を開いて真っ先に読んだのが、Ⅳ.自己確信の真理 だった。
だって、タイトルからして、一番知りたいことでしたし。
この方の著作は確かに難しい書き方をしている箇所はありますけど、
絶対読めないものではないように思いますね。
疑りながら読むんではなくて、
とにかく、著者の思惑通りの道順で進んでいきましょう。
というのが正解な読み方ではないでしょうか?^^
ではでは、次回は Ⅱ.知覚 です。
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