
こんにちは。
あの日のような雪の降る夕刻です。
皆様の地域では如何ですか?
24日女川町ハマテラスから大川小学校を目指します。
何時ものセルフで給油。
ハイオクL167円。
R398を北上します。
リアス式海岸沿いに国道が走ります。
コバルトラインへの道もそうですが、震災後は整備が進みくねくねがなく高規格の直線道路が多くなってます。
そしてこの日の目的地『震災遺構大川小学校』にやってきました。
だいぶ整備されました。
震災後も何度か来ていたのですがログしたのは初めて。
なんだかUPしていいのかどうか・・・
あの日、この学校で在校生を含む84名の方が亡くなっています。
現在もなお、その日の避難指示について裁判もあり、解決して・・・
解決なんてするわけもないのですが。
現地に来るとわかりますが、海からある程度の距離もあり『まさかここまで』と、思わしめる位置に小学校はあります。
大川小学校は河口から5km離れています。
この小学校が大津波にのまれてしまい多くの尊い命が奪われました。
建物自体を残すか残さないかも長期間議論されました。
ご遺族にとっても切ない問題です。
あの日のことが嘘のように静か静かに佇んでいます。
ぐうじは当事者ではないですが、なぜか涙。
切ない場所です。
以下ウキペディアから
本震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあった。教師らは児童を校庭に集めて点呼を取り全員の安否を確認した後に、避難先について議論を始めた。学校南側の校庭すぐそばには裏山へ登るための緩やかな傾斜が存在し、児童らにとって椎茸栽培の学習でなじみ深い場所で、裏山は有力な避難場所であった。しかし、当日は降雪により足場が悪く、未曾有の大地震の直後のため土砂崩れ、地盤沈下、倒木・落石などの可能性もあることなどから、大勢の子供や高齢者らが登って避難するには問題があるという意見があった。裏山に逃げた児童たちもいたが、教諭に「戻れ!」と怒られ、連れ戻された。
教職員の間では、裏山へ逃げるという意見と、校庭にとどまるという意見が対立した。当校自体が地域の避難所に指定されていたこともあり、既に避難してきていた老人がいることから、裏山ではなく、約200 m西側にある周囲の堤防より小高くなっていたR398新北上大橋のたもと(三角地帯)へ避難するという案も上がった。教育委員会の報告書によれば、教頭は「山に上がらせてくれ」と言ったが、釜谷地区の区長は「ここまで来るはずがないから、三角地帯に行こう」と提案を認めず、口論となっていた。
この議論の間、20家族ほどの保護者が児童を迎えに来て、名簿に名前を書き帰宅していった。大津波警報が出ていることを報告した親もいた。教師たちは「学校のほうが安全」「帰らないように」「逃げないほうがいい」などと言い、逆に保護者達を引き留めた。実際に引き留めに応じた母親は、15時29分に「子どもと学校にいます」と夫に向けてメールを送り、その後、津波により死亡した。また、山に逃げたものの連れ戻された児童らが、「津波が来るから山へ逃げよう」「地割れが起きる」「ここにいたら死ぬ」と教師に泣きながら訴えている光景が、このときの保護者達により目撃されている
児童らが県道に出た直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込んだ。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて裏山を駆け上がり、一部は助かったが、迫りくる津波を目撃して腰を抜かし、地面に座り込んで避難できなくなった児童もいた。家族が車で迎えに出向き、独自に避難した児童は助かった。
教諭の中で唯一生存した男性は、その列の最後尾にいて学校の裏山に登って助かった。その際にこの男性教諭は、3年生の男子生徒を助けている。
津波から裏山方向に逃げて助かった5年生の児童は、「津波が来るのが見えたので山側に走った。雪で滑って登れなかった。波に押し上げられて山の途中で土に埋まって動けなくなった」と証言している。また、その埋もれた児童を助けたのは、同じように流された同級生で「骨折した左手で土を掘った」と語っている。
そんな葛藤のあった3・11
なんにせよあの日にはそれぞれの物語があって、大川小学校もその1つ。
だいぶ風化したかに感じる3・11ですが、こういった遺構があることで後世に物語はつながっていくのでしょう。
現地には2月の平日ともいうのに途切れぬ人が行き来してました。
アジア系の方々も熱心に遺構の様子を観察していましたし、やはりずっと泣いている方もいました。
開放的で子供たちが学ぶには環境の良かったであろう建築様式に見えます。
そんな場所が本来犠牲を生む場所になってはいけないのでしょうが、想定を超えすぎていましたね。
沿岸部から離れているにもかかわらず鉄筋コンクリートをなぎ倒すほどの津波だったのですから。
バイク乗りの人もそうでない人も、お子様がいらっしゃる方もここに来て何かを感じてほしいですね。
あの日、まさか北上川を逆流してこの高さを超えてしまうとは。
自然の力には抗えないけど、生きる術、チャンスもあったはず・・・
ぐうじもその場にいたら的確に判断できたかどうか・・
指示を無視して裏山に上れたろうか?
人生には何度かそんな場面があるかもしれない・・・
その時、この遺構の教えてくれたことを思い出せるかな・・
校舎の真裏にはグラウンドと裏山。
グラウンドは当時のまま。
【なぜ子どもたちは避難できなかったのか】津波に襲われた大川小学校が“遺したもの”【東日本大震災から12年】
裏山の近さが何故か悔しい。
学校の横には伝承館が建設されています。
とってもきれいな伝承館。
玄関ホールには校歌碑
これは震災で壊れたものを復刻したもの。
まだまだ、思い出はあったろうけどその1部が展示されています。
14:26に地震があり、大川小学校に津波が到達した時刻。
災害とは・・
残された人の思いとは・・・
そんなことを感じる伝承館です。
ここは撮影OKなのでほんの少しを紹介。
来月やってくる12年目のあの日を前に、ここにこれてよかった。
入館料は無料。
お時間があった際には是非
まだこんなね
そんな宮城県石巻の震災遺構大川小学校なのでした
帰り際にも遺構を訪れる人が切れません
駐車場から見る新北上大橋側
避難場所が・・・
そこだったそうです。
頑張っても裏山に行けばみんな助かったのだろうけど、あの日の雪が人生を変えたのかもしれません。
普段雪なんて降る地域じゃないんだけどねぇ
今も長井市は深々と真っ白な雪が舞っています。
雪国暮らしをしているとよくわかりますが、雪はファンタスティックでステキな反面、間違えば人の命を奪うこともあるとっても怖い気象です
様々を感じさせてくれた震災遺構ツーなのでした。
皆様にはステキな午後をお過ごし下さいませ。
最後まで読んで頂き有難うございました。