みんながいつも笑顔でありますように

私と家族と脳腫瘍G4の姉と

姉は生き抜いた

2014-06-27 | 旅立ち

姉は骨と皮になるまで精一杯生き抜きました。

命を絞り出すように最期まで

精一杯

 

昨年の12月頃 特養に入る許可が出て

とても綺麗な部屋でとても綺麗なお庭が見える部屋で

ここでずっとゆったりと暮らしていけるかなと思っていたら

今年2月 高熱が出て入院

免疫も落ちてるんだよね

そのまま 何も口に出来なくて

胃ろうをしましょうと言われ・・・

でもそれもうまくいかなくて

結局 静脈から栄養を点滴

そこから見る見る間に やせ細っていった姉

体全部で生き抜いた

体の隅々から生きようとする

 

そして 熱も落ち着き

次の転院先も決まっていた矢先

6月4日の早朝 姉は逝きました

 

もう 母に

頑張らないで ありがとう

って言ってるみたいで 

親より先に死ぬなんて親不孝

誰がそんな事言う??

誰が好きで親より先に死にたい?

 

姉ちゃん 

姉ちゃんは 親孝行だよ

遠い病院に転院になる前に逝った姉ちゃん

家から歩いて5分の病院

毎日 毎日病院に行って何時間も何時間も足をさすり

食べれなくなったけど歯を磨き 

薄くなった髪を梳かし ・・・ 

耳を掃除し 鼻もきれいにして 爪も切って

毎日 毎日 姉ちゃんに会いに行っていたお母さん

声を掛けても反応はなかったけど

でも私が子供らを連れて会いに行くと

大きく目を見開いて 子供を目で追っていた姉ちゃん

 

最期の日にお母さんが家に帰る時

ずっと ずっと目を開いてたんだってね

いつもはすぐ寝てしまうのに 

ずっと目を見開いてお母さんを見てたんだってね

「帰るよ」 って声を掛けても

ずっとお母さんを目で追ってたんだってね

さようなら を言ってたの?

分かってたの?

お母さん ありがとう って

お母さん もういいよ って

そんな声が聞こえそうだよ。

そうだよね?

だから

私は思うよ

姉ちゃんは 親孝行したんだよ

お母さんの体を考えてくれたんだよね?

そう 思いたいんだよ。

 

遺影の姉ちゃんは

綺麗な海をバックに微笑んでるキレイなお姉ちゃん

こんなキレイな笑顔だったんだなぁ

病気になってから出会った人たちは遺影を見てビックリしてるよ

言葉を失ってるよ

「こんなに きれいで若々しかったんですね」 って

ちょっと誇らしいよ

 

私たちが子供の頃 

バレエをやっていた写真が 最近 出てきたよ

私は一生懸命 姉ちゃんのまねをしてるよ

家族旅行した写真がでてきたよ

おそろいの洋服を来てポーズをとってたよ

 

姉ちゃんは居たんだね

 

今はどこにいったんだろう?

まだこの家にいるのかな?

 

お墓はね あんな山奥の寂しい所じゃなくて

家の近くに新しく建てたよ

すぐに会いに行けるからね

 

でも お墓にはいないか!!

自由に自由に自由に自由に自由に

色々な所に飛んで行ってね

歩けなかった分 存分に色々な所に行ってね

 

時々帰ってきてね

 

お母さんが昨日 言ってたよ

「蝶々がね 朝 窓を開けたら飛んで来て しばらく離れないんだよ

 きっとお姉ちゃんだね 空 飛んでるね」

 

私のお豆2号がね 時々 誰もいない 何もない方向を見て

笑顔でバイバイするんだよ

「あ、お姉ちゃんいた?」 って聞くとまだ手を振ってるね

だから私も手を振ってみたよ

 

姉ちゃん きっと自由に自由に自由に自由に 空を飛んでるね

大好きな旅行も 行ってるね

 

そう 思わせてね


姉ちゃん、何を伝えたかった?

2014-06-25 | 旅立ち

救急車で運ばれてすぐに手術

その晩にでも逝ってしまってもおかしくない、

って言われた位、悪化してた

病気をあまり理解しないまま

そうして闘病生活に入った姉ちゃん

 

何をしたかった?

何を伝えたかった?

 

その想いを全く聞けなかった

それが悔しい


結局、再発なし? もし あの時、ああしてれば・・・ たら ればの世界

2014-06-11 | 旅立ち

この神経膠芽腫は手術しても再発率と浸潤性が高くて

いくら手術して放射線治療をしても

抗がん剤を服用しても

イタチごっこで 追いつかなくて・・・

と言う事で

姉も2008年9月に手術して

新しい年を迎える事は難しいと言われ、

新しい年を迎えたら今度はあと1年ですと言われ・・・

命の宣告は数カ月刻みだった

 

でも姉は

5年と10カ月

生き抜きました。

そして、再発らしき再発 というのはなかったのです。

 

姉は 「肺炎」 で眠るように息を引き取りました。

肺炎は今年に入ってからずっと患っていて

2月から入院をしていたのだけれど

良くなったりまた高熱が出たりの繰り返し

 

だから「肺炎」だけれど「衰弱」だと思う。

入院した2月から一切食べ物を受け付けなくなり

みるみる痩せて行った。

 

4月頃から胃ろうを試していたんだけど

どうも受け付けず逆流してしまい

結局 静脈から点滴を入れて栄養を流し込んでいた4カ月間

 

もし、姉の腫瘍が前頭葉という場所ではなかったら

もっと姉らしく生きる事ができたのか。

我々ともっと意思疎通ができ、歩けて・・・

姉の病気に対する考えや気持ちを聞く事ができたのだろうか。

 

どうやって生きていくのか

 

それさえも姉と話す事ができなかった闘病生活

5年10カ月

 

我々が試行錯誤を繰り返した日々

姉はどう思ってたんだろう

笑顔の奥の奥の奥の方で

叫び声をあげてなかった?

 

「生きる」 

それに対して納得がいき、満足いくなんて

それは健康な人でも難しい中で

この難病になってしまった姉に

もっと他に選択肢はあったんだろうか

 

そう考えずにはいられない

5年10カ月

そして

これからも そう考え続けるんだろうと 思う。

 

あの時の私たちの選択が違うものだったら

まだ姉は居ただろうか

 

そう 考えてしまう。

 

そして いつも辿り着く所は

姉のあの2008年の夏のこと

 

もっと早くに見つけることはできなかったんだろうか

 

姉が亡くなってこの1週間

姉の親友のKさんとお話する機会があったのだけれど、

2008年の夏の様子を聞いてみた。

 

母からも姉の様子がおかしい事は聞いていたけれど

Kさんが印象に残っている事は

姉のおかしな行動よりも

「7月の終わりくらいからずっと風邪が治らなくて 

少し頭が痛いんだよね」

という言葉だという。

ずっと病院通いをしていたんだけれど、、

先生も姉もそして周りもみんな風邪をこじらせたと思ってたんだ・・・。

私だって傍にいたらそう思うんだろうな。

 

そして母ともそんな事を話していたら

「そう言えば2008年の2月に虫歯で歯を抜いたんだけれど

その時の痛み止めが効かなくて辛い 辛い

って顎をずっとさすってたなぁ・・・ 

あの時から病気は始まってたんだろうか」

 

当時の記録を読んでも

先生の答えは 「NO」

その時期に誰も影響が脳の方だとは思わないし

普通の内科医も脳だとは分からないだろう

とのこと。

これがマヤカシなのか真実なのか分からないけれど・・・

 

 

もし放射線治療をしなければ、

あそこまでひどい痴呆症にはならなかったのか。

もし代替医療をしなければ・・・

 

「もし」 「・・・たら」 「・・・れば」 の世界

考えても仕方がないし

考えた所で何の結果も見れない

不毛に精神を擦り減らすことだけれど

考えずにはいられない世界

 


神経膠芽腫 6回目の春

2014-06-10 | 旅立ち

姉はそれでも6回の春を越したんだ

 

6回目の今年は入院して、

肺炎を繰り返していたんだけれども……

 


姉ちゃん どこにいる?

2014-06-10 | 旅立ち

姉ちゃん、どこ行っちゃった?

 

本当に久しぶりにこのブログを開き、

恐る恐る過去の姉ちゃんを振り返ってみた。

すべてではないけれど・・・

 

前向きに病気と向き合っていた頃があったんだな

病気になってからも姉ちゃんは姉ちゃんらしく生きてた時があったんだな

 

と・・・

 

 

2012年のお正月に家で自力でお風呂に入ったのが最後だったね。

それ以来、ガクッと全てが落ち込んでしまい

急速に認知証も進んでしまった姉ちゃん

話せず歩けずオムツとの生活を余儀なくされ

皮と骨しかないガリガリになってしまった姉ちゃんしか

印象に残っていなかったのに

このブログのおかげで

ふくよかで笑ってご飯も食べて病気に挑んでた姉ちゃんを思い出せた。

 

 

旅行にも行ったんだね。

姉ちゃんが病気にならなければ、一緒に行く事なんてなかったかもなぁ

 

ディズニーランド 家から近いのにちょっと良いホテルに二泊も泊まって

母の還暦も含めてホテルの最上階でフルコースディナーも食べたっけなぁ

姉ちゃんも頑張ってフォークとナイフ使ってたね。

温泉にも行ったんだっけね。

水着を新しく買って温泉プールにも入ったなぁ・・・。

 

 

涙そうそう

森山良子さんのお兄さんが若くして亡くなり

それで作った歌だと聞きました。

その歌詞の意味が今、初めて心に染み入ります。。。

私は幸いにもこれまで身近な大切な人を亡くした経験がなく

この年齢まで来ました。

だから、今 ちょっとしんどいです。

 

でも、それでも、穏やかな悲しみなのかな と思います。

約6年間、この病と向き合ってきて、

それなりの心の持ち方や覚悟があったのかな

 

夜中に目が覚めた時

姉ちゃんが告知された時の夜と

手術をして病気と命の宣告を受けた日の事を

思い出した。

その時の方が、今よりも 精神的に 正直、きつかった 

と 思う。

 

脳に関する本を色々読み

西洋医学だけではなくて東洋医学で何かないか調べ

たくさんの先生に手紙を書いた

 

たくさんの方の闘病手記を

徹夜で読んでた

 

その当時よりも 今の方が 気持ちは 穏やかです。

 

でも、先週の姉ちゃんが亡くなった水曜日からうまく眠れません。

子供たちの風邪がすっかり移ってしまった私は

お通夜から告別式にかけて声がでなくなちゃった

なーに?

何か言いたい事が姉ちゃんにはあるんだよね?

なんだろう?

 

今 私は

何を食べても味がしなくて 

歯がずっと浮いたように痛くて

 

私の体は姉ちゃんの死を受け止めきれてないのかな。

 

 

 

静かに姉ちゃんの最後に立ち会う事ができました。

眠るように静かに息をする事を止めたんだね

 

何を思ってた?

周りは認知証だと思ってたけれど

脳の深い深い所では何かを感じ、

考えていたんじゃないかと思ってるよ?

 

今 姉ちゃんはピンク色の美しいカメオの骨壷に入ってます。

棺もピンク

お花も見事に美しいユリや胡蝶蘭、

ピンクの可愛らしいガーベラやバラ かすみ草にしました。

今も淡いピンク色のお花に囲まれて遺影の中の姉ちゃんは満面の笑みです。

 

写真は病気になる前の健康で若々しい写真を選びました。

背景に美しい南国の海を入れてもらいました。

 

ダイビングも好きで南国にもたくさん行っていた姉ちゃんだったから