昨年のこと、ある若者と仕事の打ち合わせをしていて、急に気づいた。このひとによく似た青年に昔あったことがある。わたしはその青年をよく知っていて、しかしもうずっと会っていない。
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仕事以前に、どうにもならない人格をもった青年だった。しかしどこに問題があるのか、それを指摘するのは難しい。
彼は心が痩せていた。そういう指摘もできる。しかしこれは半分間違っている。なぜならその青年は、ある意味とても豊かで穏やかな心をもっていたからだ。
世界観がせまく余裕がない。そういう言い方もできる。しかしこれも間違っている。その青年はある意味仕事を超えた視野をもっていて、それに鷹揚な大きさを持っていたからだ。
彼にはどこか、べつの場所から流されてきたみたいな、場違いな雰囲気があった。影がうすいというか、不吉な感じもあった。生きるはずではない人生を生きているような。しかしこの認識も間違っている。彼はときに存在感があり、ときには奇妙に目立つようなところがあったからだ。彼が街を歩いている姿が、へんに目につく。そういう若者だった。それにあたたかい雰囲気があり、この青年といっしょにいたら良いことがありそうだと感じているひともいた。
そんな彼が、ごくまれに、きつい言葉をつかうことがあった。つよい力で、自分のかんがえを強く押し出すことがある。それがすっきりと筋のとおったかんがえで説得力もあった。言葉の表現もすっきりと上手で、よく考えられ悩んだすえの意見なのだと分かる。しかしなにか問題がある。彼がなにかを強く言うときには、周りのひとは、いつもその意見の内容以前に、なにか間違ったことが彼のなかで起きていると感じていた。
彼の上司は、彼にむかって「いつもすっきりとした考え方をしようとするのは間違っている。ひとはいつもいろいろな問題に翻弄されながら、どろどろしたものを抱えて生きていて、また、そうあるべきだからだ。君の世界観にはどうも間違いがある」、そう指摘したこともある。これはその青年が失恋をしてしょげているときに、上司が心配して、同僚たちの前で言ってくれた言葉だった。
彼の存在そのものが、ひとつの意識にぴたりと波長を合わせて、瞑想する銅像みたいに、ひとつの意識そのものの権化のような青年になる。それがひとつの怒りや意見である場合、彼の目の光が不吉に研ぎ澄まされてくる。そういう若者をよく見かけることがあるだろう。つるりとした顔をして、いつも言っていることが間違っておらず正論で、しかし危ない感じをいだかせるような若者。その危なさは、あたたかい人間性の欠如のようなものだ。しかしこの表現も間違っている。彼はとてもあたたかい人間らしい青年だったからだ。
彼のその、薄ら寒い人間性、まるで肉厚の母性から遠く離され迷子にでもなっているかのような。神経が弱く、いつも不安定なものをやっと安定させているような、薄さ、貧しさのようなもの。そして、それらをかかえながら、ときには奇妙に先鋭化していくことの危うさ。
そういう若者を前にしたら、あるひとはこう感じるだろう。
「ああ、この青年は、しあわせになれない」
そんな青年を知っていた。わたしは二十年以上の時をへて、急に彼を思いだしたのだ。そうして、ありありと彼の姿を思い浮かべることができた。なんということだろう。たしかに、この青年はしあわせになれない。人格のなにかに問題がありすぎて、どうにもならない。
「君はまったく間違っている。人間性から間違っていて、それはトータルに反省しないかぎり気づくことはできないだろう」
そんなことを上司から言われたこともあった。もちろん意味など分からない。性格でもなく考えでもなく、仕事が間違っているわけでもなく、人格がことさらだめというわけでもない。それ以前のなにかが間違っているというのだ。こんなことを言ってくれるような、めんどうくさい上司に出会ったことを、わたしはほんとうに幸運だったと思っている。
わたしは若いころ、ある女性からこう言われたことがあった。仕事で知り合った年上の女性で、数年ぶりに会っていっしょに酒をのんだときのことだった。
「あなたは、きっとこれからもたいへんでしょうね。でも、生きることをあきらめないでね」
若いひとはよく分かるだろうが、二十代の終わりごろになって急にこういうことを言われたら、若者は途方に暮れてしまうものだ。わたしはふいを突かれて、どうこたえたらいいのか分からなかった。なんの脈絡もなく、突然そう言われたのだから。当時のわたしはなんの問題もかかえておらず、意気揚々と運命に挑戦しようとしているときだった。
おまえはまったくだめだ。まったく、どうにもならない。それではどこにも通用しない。これほど酷い批判もないが、そうとしか言いようのない場合があって、そういうめんどうな批判をしてくれるひとはそんなにいない。それからあの女性の「きっとこれからもたいへんでしょうね」という言葉のなかには「なかなかしあわせになれないでしょうね」という意味もふくまれている。さすがにそこまでは言えなかったのだろう。
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しかし一度だけ、ずばりそう言われたことがある。それはわたしが高校生のころで、バス亭に並んでいるときにたまたま居あわせた同級生からそう言われたのだ。クラスは違っていて、ほとんど会うこともなく、あまり話したこともなかった。
「おまえ、しあわせになれないよ。いまそんな気がしたんだ」
からかうのではなく、ほんとうに誠意をこめた口調だったので、わたしは面食らった。そもそもそういう冗談を言ったり軽口をたたくような少年ではなかった。なぜそう思うのかと訊くと、予想外の答えが返ってきた。
「だって、そんなに細い腕をしているもの」
彼はおそらく、べつの意味でそう言っていたのだろうが、その「細い腕」こそが、じつは真実をついていたのだ。
わたしは、なま白く、細い腕のような青年だった。いまもそうだ。それがほんとうの問題の始まりだったのだ。