先日、ある方と電話で話していたら、こんな話が出た。ある大手出版社の内部ではこのごろ正社員が減りつつあり、逆にアルバイトが増えていて、それもレベルがずいぶん酷い。わけの分からない若者ばかりだという。なるほど、たしかにわたしも似たような感想をもっている。
「受付窓口」の頭しかない若者が、ムック本の「制作進行」をやっている。制作進行というのは、ある意味雑誌で言えばデスクのような仕事で、これはベテランでないと務まらない。デザインも分かり、編集もよく知っていて、原稿も書ける。もちろん制作のことをよく知っている。なにもかも分かっているひとでないとできない仕事を、「窓口」の知恵しかないアルバイトが回している。
だから、当然問題が起きる。わたしの場合はデザイナーだからデザイン関係の話が多くなるが、まずデザインフォーマットに合わない原稿を平気でもってくる。また上司から言われたことを、なんのフィードバックもなしに、ただそのままわたしのところへ持ってくる。これは困るというと、あなたのいうことは分かるがなんとかしてくれという。口調は丁寧だが、まったく意見は聞き入れられない。わたしが上司に直接言えば、たぶんすぐ解決するだろうと思うようなことばかりなのだが、間に立っている頭が空っぽだから、どうにもならない。レベルが低すぎてどうにもならないのだが、こういうことが増えてきた。
知恵のないひとは、とにかく上から言われたことを、トラブルなくソツなく回すことしか考えなくなる。流しそうめんみたいに、するするする~っと、とどこおりなく上から下へ仕事が流れていけば、それがいちばん仕事がうまくいったことなのだという感覚をもつ。いうまでもないがこれは、いちばん仕事のできないひとが、いちばん仕事をしていない時に抱く感覚なのだが、そういう感覚で仕事をしているひとが、むやみに多くなった。
彼らにはきっと、逆立ちしたって分からないだろうが、一流とまではいかなくとも、もうすこし上のレベルのひとたちはぜんぜん違う仕事をしている。みんな言われたとおりにやらないし、余計なことはするし、びっくりするようなフィードバックに振りまわされたりする。それはもう笑っちゃうようなことがいっぱい起きる。しかしそれでいて、こういう空っぽな若者が仕事をする場合よりも、はるかに効率がいいし、おもしろく刺激的で、素晴らしいものができあがる。そういうものである。
どうしてだめな若者が増えてしまったのか。しばらくかんがえてみて、すぐに分かったのは、これは奴隷の感覚だということだ。奴隷といって悪ければ、使い捨てられてきたひとたちの感覚といえばいいだろうか。
もしそうだとすれば、こういう不幸な使い捨て人生を歩む若者が増えてしまったのは、本人のみならず、わたしたちの世代の責任かもしれない。
なぜわたしがそう思うのかというと、いまのニホンは多くの若者たちを、廉く使い捨てるような使い方をしている。時給やアルバイトで廉く使い、なんとか仕事が回ってくれればそれでよい。そういう使い方をしているから、多くの若者たちも知らずしらず「使い捨て仕様」の顔つきになってくる。どうぞ使い捨ててくださいお廉くしておきます、と顔がいっているわけだ。
だから仕事ができあがるとか、できあがらないとか、それ以前のところで足踏みしている。そうしてますますわけの分からない人格になっていく。
そして、じつはこの「使い捨て仕様」の顔つきをしている連中は、若者にかぎらず、わたしたちの世代にも増えている。わたしたちより上の世代の方々のあいだにも増えていて、それはもうずいぶん以前からのことだ。
うつろな「使い捨て仕様」の年輩が、若者を使い捨てにしている。せめて注意くらいしてやって、責任をもっていろいろ教えてやればいいものを、めんどうなので、なにもしない。お客さん扱いである。これはいまのニホンの病いのひとつなのだろう。
わたしはせめて、ああ、この若者はもったいないなと思ったときは、堂々と憎まれ口をたたくようにしているが、もともと優しい人間なのでうまくいえない。逆になめられたり、ばかにされたりする。それに、こういう問題を指摘するためには、かわいそうだけど酷い言い方をしなくてはならない。人格の全否定みたいな言い方だ。おまえはなにも分かっていない、まったくどうにもならない、とまでいわなくてはならない。世界観から揺さぶりをかける必要があるからだ。もちろん、そんなことをいっても通じるわけがない。まったく損な役回りである。
使い捨て仕様の若者を、ほんとうに救い出すのは本人以外にない。昔から、どうせみんな最初は使い捨てだった。わたしだってそうだ。その状態から本人を救い出すのは、月並みだけど志し以外にない。だから、仕事に嘘やごまかしが出てくると、もう見込みがない。逆に言うと、誠意があって正直で、志しが高ければ、掃きだめの鶴みたいに、その存在が際立ってくる。そうなると、周りの扱いが変わってくる。そういうものだ。
若者よ、いやとりわけ年配者よ、どんなに状況が悲惨でも、やっている仕事がしょぼくても、胸を張れ、意識の梁をおもいきり高く掲げよ。その高さが、いつかあなたを救うだろう。そんな言葉をくちにしてみたところで、甲斐があるわけもなく、胸のうちにしまっておくばかりだ。いっそボトルに詰めて海にでも流しておけば、遠い未来の、べつの時代のひねくれ者が、あるいは拾ってくれるのかもしれない。