このクニのひとびとは、ながいあいだ貧しい生活を強いられてきた。それが第二次大戦後の経済成長によって、たいていのひとが豊かな生活をおくることができるようになった。ついこの数十年の間のことである。
生活が豊かになって、ニホンのひとびとは何を失ったのか。それは「不運を理解する能力」にほかならない。
以前からよく、都市部の人びとは冷たいとか、豊かになって人間が酷薄になったなどといわれる。わたしはそうではないと思う。ひとびとは冷たくなったわけでもなく薄情になったわけでもない。ただ不運への感受性をうしなっただけなのだ。
このクニの、ひとにぎりの特権階級のひとびとは以前からずっとそうだった。彼らは不運を理解せず、それを不快なものとしかみることができない。目の前に不幸なにんげんが現われると、それは彼らにとって不快な出来事以外のなにものでもなかった。空襲で大勢のひとが死んでも、きっとスクリーンに映る映画のように見えたことだろう。彼らは不運から何も学ばなかったのである。
いわゆる「ちゃんとした家柄」のなかに、救いがたいほど歪な人格が産まれることがある。運命よりも上に、エゴイズムが置かれているような、魔物のような人格。ひとびとはそんな人物に出会って、まったく途方に暮れてしまうのだ。品もよく、躾もよく、教養があって、感受性も豊かで、人格者なのに、何かが根本的に狂っているような人物。彼、彼女らは不幸なひとびとに同情もするし涙も流す。手を差しのべることもある。信仰心もあつい。ところが、根本的にそれらを理解する能力がないために、すべてが狂っているのである。
いまのニホンのひとびとは、みなかつての特権階級やこうした人物と同じように、不運を不快な現象としかみることができなくなっている。それを理解する能力を失ってしまったのだ。そうして保険に入り、貯蓄にはげむ。まるで結界を張るように、家の周りに高い塀を張り巡らす。リスク管理に敏感になり、あやしい人物との交際に慎重になる。罠に追い込まれる鼠のように、酸素不足の狭い部屋や、重い立場に追い込まれていく。
不運は、神と出会うチャンスでもあり、人間存在の秘密を解く鍵でもある。このクニの貧しかった庶民や底辺のひとびとは、それを生得的に、生活のなかで知っていたのである。運命は、天や神仏からもたらされるものであり、生きることそのものでもあった。いまは、ある種の芸術家や、つねに運を天にまかせる生き方を強いられる冒険家などの、ひと握りのひとびとしかこれを知らない。