メランコリア

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ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

こころの時代〜宗教・人生 選 マンダラと生きる 4 心をきわめる

2020-02-24 13:13:24 | テレビ・動画配信
マンダラと生きる 第2回 密教の成り立ち@こころの時代 宗教・人生 シリーズ

1、3が録れなかった


【内容抜粋メモ】




今からおよそ1200年前、四国の海辺の洞窟で一人、修行に身を投じる若い僧侶がいました
ある夜明け、心が極限まで研ぎ澄まされた時、口の中に金星が飛び込んだと言います

その僧侶は後の弘法大師 空海
空海は自らの体験の意味を求めて唐に渡りました

そこで空海が出会ったのはあまたの仏が描かれた一対の曼荼羅
当時、最先端の仏教だった密教の最高真理が表されています




その一つ胎蔵曼荼羅には姿かたちのことなる個性豊かな仏たちが400以上も描かれています




その中心に座るのは仏教の本尊である大日如来
この世の全てに余すところなく慈悲を注ぐ仏です

人の手足をむさぼる地獄の鬼たち
胎蔵曼荼羅には悟りとは程遠いと思われる者たちの姿もあります




中には異教であるヒンドゥー教の神々も(象可愛い
あらゆる存在が関わりあう世界のありのままの姿を描き出しています




一方金剛界曼荼羅は9つの区画からなる幾何学的な構図です




整然と居並ぶ仏たち
秩序ある静かな世界が広がっています
そこにはどのような真理が表されているのでしょうか
金剛界曼荼羅の教えを読み解きます

ゲスト:宗教学者 正木晃さん

「平成新写大曼荼羅」
空海が9世紀の初めに中国に渡ってこの二つの曼荼羅を一つとして携えて帰ってきた
非常に重要な曼荼羅ということですね

日本の密教の根本にあたる
曼荼羅はもともと経典の内容を目に見える形で表したものなんですけれども
その中で一番重要な経典が二つあります
その二つをそれぞれ表したのがこの曼荼羅です

アナ:前回の胎蔵曼荼羅は仏の慈悲を説いているという解釈でよろしいでしょうか?

この世にある森羅万象、生きとし生けるものすべてが大日如来の表れであるということ
ライバル関係にあったようなヒンドゥー教の開祖まで全て取り込んでしまうとか
地獄の住人まで描かれている







アナ:輪廻転生の各世界の人たちも全部ここに描かれている

それらが皆実は大日如来の現れ、化身なんだというのが根本的な考え方
そういった意味でおそらく仏教史上でも革命的な思想を説いた経典だと思います

アナ:
自分も、向かいから歩いてくる人も、家族も全て大日如来である
お互いに諭す諭される
上下関係はないということ

見た目はあるかもしれませんが
本質的には大日如来の化身ですから
みんな平等だよ、というのが大日経の教え
それを絵に表したものが胎蔵曼荼羅

今日詳しく見ていくのは金剛界曼荼羅
よく見ていただくと分かるのですが9つの区画で分かれている
一つではなくて9つの曼荼羅が集合体となって全体の大きな曼荼羅を構成している





アナ:複数を組み合わせる根拠は何でしょう?

一つだけでは救い取れない
いろんな方法を考えなければいけないというのは根本にあったんだと思います
状況が変わる、時代が変わる、人が変わる
その中にすべて対応しようとすると
9つに表れたと考えると分かりやすいかもしれない

アナ:これもやはり大日経とかお経を描いている?

金剛頂経という名前のお経
金剛はダイヤモンドの意味
密教の教えは最高だからよくダイヤモンドに例えられる
さらに頂点の頂がついている
最高の教えの中の、さらに頂点に位置する教えを説いている経典という意味

アナ:何を説こうとしているんですか?

あえて言えば内面的な世界
私の心と体に関わる領域
具体的にいえば、どうしたら悟れるか方法論を描いている

一言で言えば瞑想法
最終的な目的は悟りを開くこと

普通、悟りと言うと、それがいったい何かは別として
一般的には大変長い時間がかかると考えられている

特に大乗仏教になると膨大な時間がかかる

「三刧成仏」
1刧というのは100年に1回空から天人が降りてくる
馬鹿でかい岩板があり、そこをベールのようなもので履く
100年に1回ずつ繰り返していて
やがてその大岩盤が摩滅してなくなってしまっても
まだ第一刧にすぎないという長い時間
ほとんど永遠✕3みたいな話で、何回生まれ変わったらいいんだって話になる

私たちが父親と母親から生まれたままの体
つまり今生きている体のままで悟れますっていうのが
実は密教の最大の売り物と言うか特徴で、これを即身成仏という
大変短時間で悟れるということで、とても魅力的だったということです

言葉ヅラから言うと秘密仏教ですから
とても神秘的で、合理性と縁遠いように見えるんですけれども
その実、かなり合理的、非常に物のわかった発想があることも事実です

アナ:
空海いわく、文字では分からないから図をもってそれを読み解くことが必要になる

一般的な言葉では真理や悟りは語れないというのが仏教の大原則ですから
それを読み解くことで、我々は非常に深い知恵を得られると思います


成身会




密教が考える悟りへの道が表されているという金剛界曼荼羅
全体を構成する9つの曼荼羅は
一見すると円と四角を組み合わせた幾何学的な模様に見えます

最も重要とされるのは中央に位置する「成身会」
月を表す白い円の中に仏たちが整然と並んでいます
金剛界曼荼羅ではこれらの仏たちは姿形を変えて何度も登場します

中心に座るのは密教の本尊 大日如来です
大日如来を囲む四つの円
その中心には如来が描かれています






如来とは悟りを開いたもののこと
大日如来を助けて衆生を悟りへ導きます





阿閦如来はあらゆる煩悩を克服して
完全な悟りに到達した仏
右手を地面につけた姿は、ブッダが地の神の力を借りて
修行を妨げる悪魔を滅ぼしたという故事に基づいています


さらにそれぞれの如来は四体の菩薩に囲まれています






菩薩 は如来に次ぐ地位にある者
如来を助けて衆生を悟りへ導こうとします

阿閦如来のすぐ上に描かれた金剛薩埵は菩薩の筆頭とされる存在
大日如来の言葉を衆生に伝える通訳の役割を果たします







周囲の帯のように見える部分には、複数の小さな仏が描かれています
賢刧千仏と呼ばれる千体の菩薩たち
髪飾りを付け、鮮やかな色の衣を着ています

これは私たちが生きているこの時代に
1000人もの修行者が即身成仏をすると言う密教独特の考えを表現したものです

このうち、右下の隅に並ぶ4体はすでに悟りを開いた如来の姿をしています
一番左の如来がブッダ
密教の教えに従えば、ブッタと同じ悟りに到達できることを示しています





「三昧耶会」




成身会の下に位置する三昧耶会
この曼荼羅には仏の姿は描かれていません
成身会に登場した仏たちが、その特徴や力を表すシンボルで描かれています

衆生を救う仏の誓いがより直接的に表されています
成身会の中心に描かれていた大日如来
ここではブッタを象徴する仏塔の下に
煩悩を討ち滅ぼすと言う密教の法具「五鈷杵」を組み合わせた形で表現されています





人差し指を触れ合わせる手をかたどったシンボル
この手の形は古代インドの喜びを表現する仕草です

このシンボルが表しているのは喜金剛菩薩
悟りを求める心の喜びを衆生と分かち合う存在です





理趣会




さらにとりわけ迷いの深いもののために描かれた曼荼羅もあります 一番右上
ここで表されているのは煩悩の行程です

9つの曼荼羅のうち、ここだけ大日如来の姿がなく、菩薩のみが描かれています
衆生に近い存在である菩薩を通して教えを説こうというのです

慢金剛菩薩は、驕り高ぶる高慢な心を肯定する存在です
奢りの中にある強い自信が悟りを求める力になることを表しています






触金剛菩薩は愛し合う者たちが互いに触れ合いたいという思いを肯定する存在です
性愛は本来、不浄なものではなく
悟りへ至る力になり得ることを示しています


「一印会」




成身会の上には大日如来が大きく一体だけ描かれています
これは9つの曼荼羅全ての背後にはたらいている
大日如来の力を一目でわかるように表したものです

大日如来は左手の人差し指を右の手のひらで包む仕草をしています
右手は仏、左手は衆生を象徴し
両者が分かちがたく結びついていることを示しています

金剛界曼荼羅には、どのような存在であっても
必ず悟りへ至ることができるという仏の約束が表されているのです



アナ:そもそも悟りとは何ですか?

それがわかれば我々は今頃成仏してるかもしれませんけれども
それが分からないのが結局仏教の歴史であって

悟りの内容についてブッタは何も語らなかった
悟った後の境地とか、悟るためにはどうしたらいいのかという
方法論は教えているんですけれども
その中身については口を閉ざして語らなかったんですよ

ともかく悟った直後のブッタは
自らその悟りの境地を楽しむ自受法楽の境地に入ってしまいまして
なかなか説こうとしなかったと言われている

その理由は、自分の悟った内容というのは大変難しくて
繊細で、しかも世の常識に逆らうものだから

アナ:
しかしその悟りというものは確実にあるもので
あなたも体験してみなさい、という方法は教えたということなんですね

そこが仏教の難問中の難問
仏教の歴史は、ブッダが悟りの内容について語らなかったのでそれを追求していく

そのためにはブッタが実際にしたであろう修行法を自分達でも実践して
ブッタの体験を追体験することが仏教の歴史といってもいいくらいなんです

根本にあるのは、ブッダがお弟子さんたちに言った
禁欲的な生活をしなさい

もう一つは瞑想をしなさい
徹底した瞑想修行こそが悟りへの道だよ

これは確かだったので
瞑想法をめぐる詮索、試みがずっと続いてきたんだと思います

「梵我一如」
密教では「悟り」とは研究者らによってずいぶん見解が違うところがあるんですが
一般的には「梵我一如」と言って
大宇宙と私の二つが、実は本質的には同じだよって
そういう境地に達することができれば良いのではないかという考え方が強いと思います

アナ:
前回も胎蔵曼荼羅で大日如来と自分は同じになれる
同じ存在だということ、大変ありがたい教えなんですけれども
宇宙と自分がひとつってなんですか?
大日如来自体が宇宙ということですか?

全宇宙、全世界そのものは大日如来であり
私たちもその中にいるよっていうのが密教的な考え方です

でもそれを体感するというか
頭である程度理解できたとしても
体の奥深く、心の奥深くで内得するということにはなかなかならない

もっと具体的に言ってしまえばなかなか実感できない
どうしたら私たちの心と体の奥深いところに実感を得るか
それを求めて歴代の密教者たちは修行してきたんだと思います

空海自身もそれを求めて修行していた時に
有名な話で口の中に明星が飛び込んだ

おそらくその時は空海自身もこれが何だったのかわからなかったかもしれないですね
後で考えてみたら、あの時自分は宇宙と合一した、一つになった
それは大日如来と一体化したことの証と考えたかもしれない

アナ:
金剛界曼荼羅はこの身このままで悟れる
その具体的な方法を説いている
瞑想と言うと例えば座禅を組むとか
昨今、会社の研修などにも取り入れているところもあり、流行ってますよね

ある意味では仏教の歴史からすると古典的な方法ですよね
心を鎮めるという方向性
無になりなさいと言いますけれども
実践してみると分かるんですが難しいですよね

アナ:
何も考えないということを考えてますものね
集中しようと思うと色々な邪念が起きてきて
そんな中でやがて悟りに至るような瞑想に入れるのだろうかと思います

それに対して金剛界曼荼羅は、革新的な瞑想法を開発していったということです
それが中心部にある「成身会」という所に証明されている

9つの真ん中の部分
成ると身 おそらく成仏するという意味が込められているのかもしれません
そういうことを語る曼荼羅

今までの胎蔵曼荼羅は、どちらかと言うと私たちが曼荼羅を見ている 外にある
金剛界の段階になると私たちが中に入ってしまう
その場合は曼荼羅は描かれる場所を空間、地面ではなく心の中入る

アナ:空間の移動ではなくてイメージする

ご覧になると分かりますが、非常に対称性が強くて幾何学っぽい
どうしてこう綺麗に対称性があって幾何学的かと言うと
感じることは秩序 整然としている

曼荼羅というのは徹底的な聖なる世界
汚れたものは一切ないんですけれども

実は私たち日常生活の中で色々汚れる行為、嫌なこともあって
でも、その本質にあるものは大日如来と同じで綺麗なものだから
実は入れるんだよという発想です

アナ:
基本、性善説
本質は綺麗なものである
そこをまず信じていいのだろうかと思いますけれども
そこを肯定するんですね

特に金剛の考え方では、この世界はありとあらゆる
「胡麻をまいたような」と書いてありますが
世界がすべて仏で満たされてますよという発想が元々ある


一切如来
その一切如来たちが、私たちに悟りへの道はどうしたらいいか
手を差し伸べてくれてますよ、というのが教えなんです

私たちの努力だけではやはり無理で
聖なる存在がこちらに手を差し伸べてくれなければいけないよという発想があります


アナ:
それは瞑想の過程において
仏がこちらに手を差し伸べてくださっているということを思うわけですか?


「一切義成就菩薩」
こういう名前の修行者がいた

旧来型のブッタの時代
大乗仏教の時代から受け継がれてきた瞑想法を一生懸命やって
自分ではもう最高のところに近づいたかな
もうちょっとだなと思っているんですが

その時に如来のほうから声がかかって
「君ね、そんなことやっていたら永遠に悟りは開けないよ」って言われてしまうわけです

「じゃあどうしたらいいんですか?」って尋ねたらば
「教えてあげましょうか」ということで
独特の瞑想法「五相成身観」を教えてくれましたという話

アナ:これをやるとマンダラに入れる?

非常に興味深いのは、一切義成就菩薩というのはシッダールタ
ブッダが出家する前の名前を意訳するとこうなるんです

ということは、密教はブッタの時代からはるかに時間が隔たっているけれども
実はそこでモデルにされているのは歴史上のブッダなんです

ブッダも五相成身観を実践したから悟ったんだよということを前提にしています
一種の虚構ですけれども、やはりブッダの修行を追体験しなければ
悟りは開けないっていう考え方は共通しています


瞑想の5つのプロセス
これをマスターするのはなかなか難しい
五つのプロセスを通して、自分の心が極めて綺麗なものだ
ということをだんだん発見していく、体得していくというプロセス

「三密」(身体・言葉・心)
そのためにとても重要なのは第2回で紹介した護摩のところでの「三密」身体・言葉・心
これは人間を構成している三大要素と考えている
これらを仏の三つの要素に近づけていくことによって
自らも仏になれるという考え方

「五相成身観」
曼荼羅に入る瞑想法、五相成身観は密教の僧侶にだけ伝えられてきた秘法です
修行者は両手に深い瞑想に入っていることを示す印形を結び
真言を唱えながら仏へと近づいていきます

第一段階




まず修行者は、自らの心を暗い霧がかかった月と捉え
その中にインドの言葉、サンスクリットの「あ」という字を思い浮かべます

「あ」は大日如来を表す真言
心に描くことで大日如来と同じものが自らにも宿っていることを念じます
そして真言を唱え、心を極める瞑想に入ることを宣言します

第2段階
月を覆う闇が払われ、金色の「あ」が輝いている様子を思い描きます
悟りを求める心を起こすことを念じながら真言を唱えます

第3段階




月の中の「あ」が大日如来のシンボルである「五鈷杵」に変わる様子を思い描きます
五鈷杵の拡大と縮小を繰り返し、悟りを求める心をより堅固にすることを念じます

第4段階




心の中に浮かんでいた五鈷杵を体の中に導き入れます
この時、世界に満ちている一切如来が五鈷杵に集まり
それら全てが体に入っていくと思い描きます

第5段階




最後、一切如来の集合した五鈷杵を大日如来の姿へと変化させます
大日如来と自らが溶け合い、一体になると思い描きます
この段階に達した時、修行者は曼荼羅に入り
大日如来としてその中心に座っていると考えられています





アナ:
これはかなり具体的で鮮烈なイメージを抱くんですね
もっと瞑想というのは静かなものかと思った

そもそもインドの瞑想法の歴史を見てみると
初めは古典的な「ヨーガ」という
座禅のように呼吸をコントロールしながら鎮めていくという方法だったんですけれども

ヨガの定義は身体技法を伴う瞑想法ということで
具体的に言うと呼吸コントロールが中心
呼吸を自分でコントロールしながら深い世界に入っていく

歴史上のブッダもおそらくこういう瞑想法をしたんだと思うんですけれども
長い歴史の中でこういう古典的と言われる瞑想法では飽き足らなくなったというか
もっと効果的なものにしたいと言う人たちが現れて
徐々に活性化、ダイナミックな方向に転換していった

寂静の道から増進の道
密教も増進の道、ダイナミックなタイプのヨーガに入ると思います

アナ:
そこに印を結ぶとか、真言を唱えるとか
それも一つの仏と一体化する方法なんですか?

「三密瑜伽」というタイプに入ると思います
瑜伽というのはヨーガという言葉を漢字に写している
三密を使ったヨーガ

アナ:
空海は大切なことは言葉では説明できないと言いました
それなのに真言というのはどう考えたらいいんですか?

ここもパラドックスと言うか興味深い点ですが、日常的な言語ではない
通常、日常生活では言葉を使ってコミュニケーションをとっていて
言葉で了解することを「分かった」と言いますが
実は分かってないんじゃない?っていうのが仏教の発想の中にあると思う

もっと大げさに言えば、言葉が世界を作ってしまって
それは虚構でしかないわけで
ありのままの世界とはかなりかけ離れたものになっている

「言葉」そのものを解体させるとか、死滅させるとか
言葉の働きを止めてしまわないと、世界はありのままに見られない
したがって悟りには近づけないという考え方だと思います

(テレパシーの世界ってことか?


「真言」
これは密教のみならず、インドの古いタイプの宗教の中に
長い間伝承されていることなんですけれども
短い言葉を繰り返し唱えることによって言葉の意味を解体してしまう

意味の向こう側にある真理に到達するという発想がある
それが真言という言葉で、特徴の一つは何度も繰り返すうちに
元々の意味はなくなって、イントネーション、リズムのようなものにバラバラになっていく

その時、言葉は本当に解体され、開けるのかもしれない
それがすごく重要なことだと思います





迷いを拭い去り、この身このままで悟りに至るためには真言が欠かせないと考えた空海
密教の教えを「真言宗」と名付けたのは、その信念に裏打ちされたものでした



自ら曼荼羅を生み出す
そこで終わらないのが密教たる所以で、さらにその先がある
それは自ら今度は曼荼羅を生み出していくということ
この世界は私自身そのものにほかならないという実感を生み出す瞑想法が必要になってくると考えた

アナ:それはとても傲慢のような、自分中心であるかのようにも思われますけれども

そもそも密教の考え方では、この世界そのものは大日如来と考える
私と大日如来はイコール
でもそれを実感するとなるとなかなか難しい

そのためには、今度は自分の中にマンダラを築き上げるという行為が必要になる
具体的に言うと「成身会」に描かれている37の仏様たち
一体一体を思い描いて、自分の心の中にマンダラを築き上げていく


「成身会」
曼荼羅を生み出す瞑想は、一切如来の代表である4体の如来だけの状態から
成身会の主要な仏たちを心の中に描いていきます




まず五相成身観を成就し、大日如来となった修行者自身が曼荼羅の中心に座ります
そして瞑想によって近くから順番に仏を生み出していきます

初めは阿閦如来の上に位置する金剛薩埵仏を生み出すには
それぞれのシンボルを思い浮かべます

金剛薩埵は法具の五鈷杵
そのシンボルを自分の目の前に差し出すと
次の瞬間、金剛薩埵が姿を現します

この一連の瞑想を繰り返すことで成身会を構成する主要な仏37体を描き出します
無数の仏によって満たされた世界そのものを表している曼荼羅
それを心の中に築き上げることで世界を生み出す実感を得るのです

(どっちが鶏か卵かみたいな話でとても不思議

自分の心の中に築きあげていますから
それは心と同じであるし、自分の体とも同じ
もっと言えば自分の体全体が曼荼羅だという思い

アナ:
そうすると無限に自身が広がっていく
世界に思いを馳せるようになるということですか?

自分と自分以外の物との間に差別がなくなる
自分と他者との区別がなくなる世界がもしかしたら生まれる
どうしても私とあなたと分けてしまいますが
それにこだわっている限り、他者に対する慈しみの心はなかなか生まれませんよね

アナ:
世界のどこかで傷ついている人がいるとか
大変なことが起きた時に、自分の体に起きたことと感じるということですか?

世界が痛むということは、私が痛むということですから、そこには自他の区別がない
そうなると「他」と言う必要がない 全ては自分

(♪そうなったらいいのになあ〜

アナ:
空海が後に池を作ったとか、一生懸命、利他を行なったというのは
一つの世界=自分であると言う謙虚の意味

とりあえず私という精神があるけれども
本当はすべてが大日如来で
一体のものなんだという感覚をどこかで持っていたほうが
実は人は生きやすいのかもしれません

アナ:
今は本当に小さな差異を大切にして
それが個性だとか、民族の違いだとか、宗教の違いだと
言い過ぎているかもしれないですね

他者も全て同じ自分、同じ痛みを感じる存在なのだと
もしこの密教の世界で言っているとしたら
それは極めて現代的な警告かもしれないですね


それは仏教が築き上げてきた知恵で
大乗仏教の究極の姿でもあるので
そこには素晴らしいものが宿っているはずなんです

面白いのは、こうして曼荼羅を築くと最後どうするか?
究極はその生み出したものを食べる

金剛曼荼羅は私たちの心の中に描かれていますから
それを大きくしたり小さくしたり繰り返して
あげくに小さくして食べる瞑想をする
自分の体がマンダラになる
自分こそが曼荼羅となる

アナ:
そこで瞑想が完結するんですね
そうするとまさに大日如来、仏の住む世界=自分にもなるし
他の人たちもみんな同じ存在になるというわけですね

(ヒトだけじゃなくて 生きとし生きるものすべて


供養菩薩




しかもよく見ていただくと気付くのですが
大日如来だけが偉いわけではないですよ、というメッセージが込められている

拡大するとわかりますが「供養菩薩」と言う存在が描かれている
成身会の外側と内側の四隅に描かれている 女性の姿




手にしているのは供物、楽器も持ってますね
如来と呼ばれている存在に対して
敬意や感謝の心を込めて捧げ物をするという役割を担う

ですからお香とか花飾り、場合によっては歌や踊りというもので供養する
これはインドで目上の者に対して敬意を捧げて感謝の意を表するという役割

(供養を捧げているのが全員女性というのはどういう意味だろう?


 


如来に感謝や敬意を表す供養菩薩
成身会の内側と周辺に4体ずつ描かれています(青い丸と赤い丸

内側の4体は、大日如来が周りを囲む如来たちの働きに感謝して生み出したもの
周辺の4体は、大日如来の計らいに感謝して如来たちが生み出したものです

供養菩薩は、仏たちが大日如来だけを崇めるのではなく
互いの存在を讃え合い、尊重し合う関係を表しています

また、本来、大日如来は着飾った王者のような姿に描かれるものですが
成身会の中心に描かれた大日如来は、飾りの少ない質素な身なりをしています
これは瞑想を通じて仏になろうとする修行者の姿を投影したものと考えられています


これは曼荼羅独特ですけれども
全ての存在が全てと関わり合うというか
他者と関わり合いながらバランスをとっていくというのが曼荼羅の特質だと思います

根本的には全てが私でもあるし
他者も自分と同質のものを持っている
そういう根底があります

アナ:
修行者のみならず、一般の人でも大日如来のようになれるという
応援メッセージみたいな感じと思ってよろしいですか?

大乗仏教の段階になると、全てのものが悟れるよっていう思想が出てきます
その究極の姿かもしれません
すべてのものの中には、仏になれる可能性が確実に宿っているということを表現している

アナ:
自らの罪を悟らされて非常にがっかりするというものではなくて
見ることによって勇気が出てくるものでもあるんですかね
しかしもう少しわかりやすく描いてくださってもよかったのにと思うんですけどw

密教の長い歴史の中でようやく到達したところなので
試行錯誤の結果がこうだったということだと思います

アナ:でも少しだけ親しいものに感じられました


阿字観
古来、数多くの修行者が悟りを得ようと試みてきた密教の瞑想法
その知恵を現代に伝えようとする人がいると聞き訪ねました




真言宗の僧侶・山崎さん
60年以上にわたって密教の瞑想法の実践と普及に努めてきました

山崎さんが取り組んできたのは阿字観と呼ばれる瞑想法
大日如来を象徴する真言「あ」とひたすら向き合うことで
日常で見失っている人間本来の姿を見つめ直します






阿字観は平安時代に貴族の間で大きな流行となりましたが
時代の変化とともに世間から忘れられていきました

(宗教にも流行り廃りがあるんだな

山崎さんは僧侶のみが知る存在だった阿字観の奥義を一般の人にも伝えようとしてきました
著作は3ヶ国語に翻訳され、阿字観という言葉を世界に紹介しました






山崎さんの大学院時代




山崎さん:
なぜアジカンを始めたかというと
大学に入って密教の勉強していると

経典類の多いこと、拝み方の複雑なこと
これは一生の間でとてもものにならない 大変だなと
ジャングルの前に立った旅人のような
期待と不安に襲われた

アジカンは非常に簡潔によくできてます
これはすごいなと思った


阿字観にこそ密教を極める道があると考えた山崎さん
実践することを胸に僧侶として歩んできました

アナ:人間にとって「あ」という音は何でしょう?

山崎さん:
皆さん何か声を出してください
自然にあって言いますね
「き」とか「く」とか言わないでしょ

ABCD は本当はドイツ語では「アーベーツェーデー」でしょ
キリスト教では「アーメン」って言うでしょ
だからみんな「あ」で始まってるじゃないですか


「阿字観の体験」




普通にまっすぐ立ったままで、足だけ曲げて
そのままでそれを3回

「オンボージシッタ オダハダヤミ」を繰り返す







手に印を結び、真言を唱えて瞑想に入る準備を整えていきます
「あ」の字が描かれた掛け軸を見つめ
心の中にそのイメージを写しとっていきます

準備が整ったらいよいよ瞑想に入ります
まじまじと見て、しばらく止めて
ちょっと目をつぶって残像を確かめる
これを繰り返す

実感することが大事ですね
蓮華の香りのいい清らかな花

蓮華は泥中にあっても清らかなように
私の身も心も本来清浄である

お月さんは秋の名月のように煌々とした清らかな光を放っている
これが本来の自己自身ですね

アナ:本来の自分はどうあるべきものなんですか?

理屈ばかり尋ねられるとね
何回問いかけてもぐるぐる回るだけですわ
「そうならなければいけない」というイメージを先に作ったらいけないんです

深い宗教体験はありますよ
それを私は言わない
そうならなければいけないと思ったらだめ
自然に出てくるものでなかったらダメなんです

アナ:この世の自然のならいをそのまま密教も逆らわず

いろんな求め方があるし
色んな段階があっていいと思うんですよ

大事なのは初めから拒絶するんじゃなく
密教っていうのは全部を包み込むものですからね
全部捨てないです

アナ:密教は煩悩も一つのエネルギーである

大事にしないといけない、煩悩は
煩悩を大事にして、とことん向き合って戦って克服することです
悟りなんて別にあらへん そんなものは

アナ:それはあまり力まずにいていいってことですか

力んでもしょうがないでしょう


「阿字観を終えて」
アナ:こんなに静かになることは日頃ないですね
山崎さん:こんな気持ちになったことないでしょ?
アナ:はい



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