図書館で十数人待ちだった2枚が同時に借りられたv
どちらも写真、ライナー内容が充実していて、このタイミングでスペシャルなプレゼントが届いた感じ
どちらも2014年発売なんだ。
なんだかよく死後に発売される未発表曲やデモばかりを集めたアルバムの雰囲気なのが複雑。。。
私は普段、完成されていない別バージョンものは聴かないんだけど(ボランで数枚借りた程度。それもほぼ聴かない
ボランとボウイなら聴いてもイイ。
完成される前のものを聴くと、本人らがここから、頭の中にある完成形にどう1曲1曲を編集していったかが伺える。
●Bowie Heard Them Here First デヴィッド・ボウイが魅せられた名曲たち(2014/05/24発売
ボウイがカバーした元ネタがいろいろ入ってる。
♪Sorrow も好きな1曲。
大好きな♪Kingdom Come が流れた時は泣いた。カバーだと初めて知った。
ヴェルヴェッツや、イギーが入ってるのも感慨深い。
知らないバンドのほうが多いから、1つずつ掘り下げたくもなる。
♪I Took A Trip On A Gemini Spaceship/The Legendary Stardust Cowboy は、かなりイッちゃってる感w
どの曲も声質がボウイと似ているのは偶然?
でも、元ネタを知った後でも、やっぱりボウイの声でまた聴きたくなるんだ。
【ライナー抜粋メモ~イアン・ジョンストン(2014)】
1973年、“イギリス最大のロックンロール・センセーション”という評判を確立していたボウイ。
1960年代、抜け目ないマネージャー、トニー・デフリーズは、ボウイをスーパースターまで成長させた。
ジギーのヒントは『時計じかけのオレンジ』、イギー、元祖サイコビリーのThe Legendary Stardust Cowboyなど(彼の名からジギーをとった
♪Starman には♪Over the rainbow のフレーズを使い()、バックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を起用。
それまでのロックスターと違い、ボウイはキャラクターを演じていたが、そのイメージを消すのは困難だった。
1973年、「アラジン・セイン・ツアー」のラストで「僕らがライヴを演るのはこれが最後」と言った。
その後、ロンドンを離れ、パリでカバー・アルバムの録音をはじめる。
理由は、これでRCAとの契約が満了し、次のステップに進めるから。
一番のライバル、ブライアン・フェリーがカバー・アルバム『These Foolish Things』を出す噂もあり、
競争心旺盛なボウイは自分の地位を守ろうと思った(へえ、意外に負けず嫌い?
1週間遅れで発売した『Pin Ups』はイギリスのバンドに的を絞り、アメリカ人、若いファン向けだった。
「これらはとても大きな意味があり、どれもとても懐かしくなる曲。
64~67にマーキーで直に聴いた。これがあの頃の僕のロンドン」
歌手のレスリー・ダンカン(GF)を介して、スコット・ウォーカーからも影響を受けた。
ミュージカル『ジャック・ブレルは今日もパリに生きて歌っている』はその後にも影響を与えた。
ボウイは、ヴェルヴェッツの最初期からのファンだった。
「ヴェルヴェッツの曲を誰より早くカバーした。アルバムを出す前にカバーしたんだ」
1972年に『Transformer』をプロデュースして恩返しした。
1971年、初アメリカ滞在時にイギーの支持者となる。
1972年、ストゥージズのライヴには、ジョン・ライドン、ミック・ジョーンズらがいた。
『Raw Power』をプロデュースし、パンク・ロックの火付け役となった。
そもそもボウイの音楽活動はカバーから始まる。
1956年、父親が家にもってきたのは、チャック・ベリーやファッツ・ドミノなど。
中でもお気に入りはリトル・リチャードの♪Tutti-Frutti
1962年、ジョージ・アンダーウッド(幼なじみで親友)とのケンカで左目を殴り、瞳孔が開きっぱなしになたのはトレードマークとなる。
1966年、モンキーズのデイヴィッド・ジョーンズと間違えられないよう、デヴィッド・ボウイに変える。
アラモ砦の英雄ジェームズ・ボウイと彼のナイフにちなんだ。
最初のヒットは、1969年♪Space Oddity 『2001年宇宙の旅』がヒント。
トニー・ヴィスコンティが初参加。その後、お気に入りのプロデューサーとなる。
1974年、大規模な『ダイアモンドの犬』北米ツアー中にソウルミュージックを吸収し「プラスティック・ソウル」と呼んだ。
『ヤング・アメリカンズ』には、スライのドラマー、アンディ・ニューマークらが参加。
ジョン・レノンの♪Across The Universe もある。
「前から素晴らしい曲だと思っていた。オリジナルはかなり弱々しいから、ハンマーでガンガン叩いて気合を入れてみた」
(ビートルズを批評するって、すごい自信!
録音にはジョンがvoc.,gt.で参加。
ツアー最中にドキュメンタリー番組『Cracked Actor』を制作。
そこには、ボウイの孤独感、か弱さ、幻滅が映し出されていた。
これを観たニコラス・ローグは、映画『地球に落ちてきた男』に起用。
1976年『Station to Station』のキャラクターは、クロウリー(この人?)、カバラ思想、トゥーレ協会に傾倒したシン・ホワイト・デューク。
これ以降、ボウイはヨーロッパに回帰する。
ロスで荒れ、引退同然だったイギーを救い『アイソラーツアー』に同行させ、『The Idiot』を録音。♪China Girl が作られた。
冷戦時代のベルリンは、ボウイとイギーの避難場所となる。ステージ裏ではブライアン・イーノと出会う。
『アイソラーツアーⅡ』を収録したのが『Stage』。ブレヒトの処女作『バール』の主役を演じる。
1980年代は『Scary Monsters』(NYに拠点を移す)で幸先良くはじまり、ブロードウェイにも進出。
『エレファントマン』で主役を演じる。
1983年、EMI移籍後初の『Let's Dance』でポップカルチャーに躍り出る。
(『Tonight』や『Never Let Me Down』を酷評しているのは的外れだなあ
『グラス・スパイダーツアー』は商業的には成功だった。
1989年、「tin machine」結成。
1990年、過去のヒット曲を網羅する『Sound + Vision World Tour』をはじめる。
1992年、フレディの追悼コンサートで闘病中のミック・ロンソンと演奏。
彼はその1年後に亡くなり、没後の『Heaven and Hull』に参加。
2004年、ドイツツアー中に心臓発作となり、長い隠遁生活に入る(知らなかった・・・
引退説の流れる中、ボウイはNYで妻イマン、娘アレクサンドリアとの生活を満喫していた。
66歳の誕生日、'70年代と同様に劇的な再登場。『The Next Day』は極秘に制作された。
ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館では、大規模な回顧展が開催された。
“空から目を離さないように。
トレヴァー・ボルダー、ルー・リード、ミック・ロンソンにこのCDを捧げる。”
「ブレヒト」
●Sound + Vision/David Bowie
♪Sound and vision は私のお気に入りの曲の1つで、なかなかCDで聴けなかったのが、やっと手元にやってきたのは感慨深い。
超豪華な4枚組。ブックレットもけっこうなぶ厚さ。
16曲目♪Rock 'N' Roll Suicide(Live '73)では、手拍子が聞こえるような・・・?
【ライナー抜粋メモ~カート・ローダー(2003)】
ボウイの存在なしには70年代前半は痛ましい状況だっただろう。
(このカートさんは、G.オサリバン、C.キングらを酷評している
彼をパッケージ化したのがこのボックスセットで、当初は89年に3枚組みで発売された。
この4枚組みには、レアトラク、アウトテイクなどが入っている。
(経歴は上記でも少し触れたから省略
広告代理店で商業デザイナーもやってたの?驚
こないだ見た30分の映画『The Image』のことも書かれている。一時は劇団にも所属。
パントマイムアーティストのリンゼイ・ケンプからアントナン・アルトー、不条理演劇を学んだ。
1968年、トニー・ヴィスコンティはティラノザウスル・レックスのプロデュースを始め、
ボウイは、パントマイムアーティストとして彼らの前座を務めた/驚×5000
映画『The Virgin Soldiers』のエキストラ出演。
当時のGF、バレエダンサーのハーマイオニーはダンサーと逃げた。
「僕は彼女に夢中だったから、そのショックと、『2001年宇宙の旅』を観たことが♪Space Oddity のきっかけになった。
ジョン・ハッチンソンとの共作の予定が、彼は故郷に帰ると決め、1人で演ることになって心が折れたよ」
この曲が世界的大ヒットとなる。
ここに収められた♪The Prettiest Star のoriginal ver.では、グラムロックスターになる直前のボランがギターを弾いている!!
「マークと僕の間にはかなりライバル意識があった。スタジオではなんか2人とも奇妙な態度をとっていたのを覚えている。
でもその後、彼が非業の死を遂げるまで大親友になった」
セッションミュージシャンに飽きて、「ザ・ハイプ」を結成。
「メンバ全員がなにかのキャラクターに扮したら面白いと思った。
当時は長髪とジーンズが全盛で、ショーの間、ずっとブーイングされていた。観客は完全に毛嫌いしていた。最高だったよ!」
アンジェラ・バーネットと結婚。ゾウイ(現ダンカン)誕生。
ボウイは“メンズ・ドレス”で闊歩した。
RCAと契約し、ルー、イギー、A.ウォーホルと出会う。
『ハンキー・ドリー』では、ボウイの長年のアイドル、ディランをカバー。
♪Changes は初期の代表曲となる。
1972年、音楽週刊誌『メロディ・メイカー』で「僕は同性愛者だった」と語った。
「ドラッグの発言は当たり前になっていたけど、あれは当時最も挑発的だっただろうね」
「アラジン・セインは、ある意味“ジギー”を置き去りにした半端なものだった。
スパイダーズはストレートなロックに進みたがったが、僕はソウルなどに興味をもっていた」
「『Pin Ups』は、今は一番気に入っているアルバムの1つ。第二弾の構想もあった」
小説『1984』のミュージカル化計画は、オーウェル未亡人の承諾を得られず、『ダイアモンドの犬』に収録。
「途方に暮れたよ。だからバロウズのやり方で書き直した。
本格的にカットアップ技法を試して、ソングライティングの新たな道が開けた。
歌詞より、曲の雰囲気、姿勢が大事だった。
ステージを中心に活動する演劇的なアーティストとして再定義しようとしていた」
1976年、当時史上最大の大掛かりなツアーを開始。
「舞台セットは信じられないくらい高額で、おかげで一文無しになって、回収するまで数年かかった」
フィラデルフィアの2日間がライヴ録音され『David Bowie Live』としてリリース。
新人ギタリスト、カルロス・アロマーと出会い、厄介な舞台セットを捨て、
ソウルレビューのようなライヴをして、観客を戸惑わせたが、
『ヤング・アメリカンズ』はディスコで大評判となる
ボウイは、初期のスプリングスティーンを崇拝していた/驚
「♪It's Hard To Be A Saint In The City を録音中、聴きに来た彼はとてもシャイな人だった。
彼の生活はとてもディラン風で、ギターを背負って街から街へという感じ。
彼は僕たちのやっていることにあまり乗り気ではない様子だったな」
『Station to Station』には、ニーナ・シモンから拝借した(!)♪Wild Is the Wind を収録。
強烈な白色光を入れた『Station to Station Tour』は、ボウイのお気に入りの1つ。
「フリッツ・ラング、ゲオルグ・ヴィルヘイム・パープストなど表現主義の、ドイツ映画風のイメージに戻りたかった」
1976年、ボウイとイギーはドラッグ漬けの生活から立ち直るため、ベルリンに移住。
9月にロンドンに戻り、旧友のボランが司会を務めるテレビ番組に出演。
ボランはこの1週間後、自動車事故で亡くなる。
ボウイとイーノの3部作『Low』『Heroes』『Lodger』は、その後80年代に「アヴァンロック」に大きな影響を及ぼす雛形となる。
「ある日、イーノが慌てて入ってきて“未来のサウンドを聴いた”と言って、
ドナ・サマーの♪I Feel Love をかけて、“これは今後15年間のクラブミュージックを変えるよ”と言った」
「僕たちは、『オブリーク・ストラテジーズ』のカードをかなり利用したよ。
行き詰った時、カードを1枚ひいて、どんな指示でも従うわけだ。
ロックをプレイする際の決め事をすべてぶち壊すべく様々なことをやった」
1979年、映画『Just a Gigolo』、1983年『The Hunger』に出演。
『Let's Dance』は、ボウイが長年魅了されてきたダンスミュージック、
ニューウェイヴ(レコード業界が軽蔑に値する純粋なパンクと区別するために作り出した名称)、
ポストパンクを盛り込んだアルバム。
(『デヴィッド・ボウイが魅せられた名曲たち』のライナーで酷評されたアルバムは、ここでは評価されている。
評論家も、結局その作品が“好きか嫌いか”なんだよね。
「tin machine」は1993年にひっそりと解散。昔からのファンが、時代の先端をいく
独創的で尖った音楽についていけなかったことも、理由の1つだった。
これほどオリジナリティのバンドのLPをカット盤にして、ディスカウントコーナーに追い込んだ
大衆のアホさ加減に悪態をつきたくなるだろう(たしかに、この2枚は実際素晴らしい
1993年、イギリスでドラマ化された『The Buddha Of Suburbia』のサントラは、もっと多くのファンが聴くべきだと思う。
締めくくりは♪パラス・アテナ の長いライヴver.。
最近のボウイは、若かりし頃からのファンに向かって、判で押したような活動だけをしているわけではない。
つまり彼は(明らかに)金のためだけに活動しているわけではない。
彼はその他すべてのために続けている。今でも。
どちらも写真、ライナー内容が充実していて、このタイミングでスペシャルなプレゼントが届いた感じ
どちらも2014年発売なんだ。
なんだかよく死後に発売される未発表曲やデモばかりを集めたアルバムの雰囲気なのが複雑。。。
私は普段、完成されていない別バージョンものは聴かないんだけど(ボランで数枚借りた程度。それもほぼ聴かない
ボランとボウイなら聴いてもイイ。
完成される前のものを聴くと、本人らがここから、頭の中にある完成形にどう1曲1曲を編集していったかが伺える。
●Bowie Heard Them Here First デヴィッド・ボウイが魅せられた名曲たち(2014/05/24発売
ボウイがカバーした元ネタがいろいろ入ってる。
♪Sorrow も好きな1曲。
大好きな♪Kingdom Come が流れた時は泣いた。カバーだと初めて知った。
ヴェルヴェッツや、イギーが入ってるのも感慨深い。
知らないバンドのほうが多いから、1つずつ掘り下げたくもなる。
♪I Took A Trip On A Gemini Spaceship/The Legendary Stardust Cowboy は、かなりイッちゃってる感w
どの曲も声質がボウイと似ているのは偶然?
でも、元ネタを知った後でも、やっぱりボウイの声でまた聴きたくなるんだ。
【ライナー抜粋メモ~イアン・ジョンストン(2014)】
1973年、“イギリス最大のロックンロール・センセーション”という評判を確立していたボウイ。
1960年代、抜け目ないマネージャー、トニー・デフリーズは、ボウイをスーパースターまで成長させた。
ジギーのヒントは『時計じかけのオレンジ』、イギー、元祖サイコビリーのThe Legendary Stardust Cowboyなど(彼の名からジギーをとった
♪Starman には♪Over the rainbow のフレーズを使い()、バックバンド「スパイダーズ・フロム・マーズ」を起用。
それまでのロックスターと違い、ボウイはキャラクターを演じていたが、そのイメージを消すのは困難だった。
1973年、「アラジン・セイン・ツアー」のラストで「僕らがライヴを演るのはこれが最後」と言った。
その後、ロンドンを離れ、パリでカバー・アルバムの録音をはじめる。
理由は、これでRCAとの契約が満了し、次のステップに進めるから。
一番のライバル、ブライアン・フェリーがカバー・アルバム『These Foolish Things』を出す噂もあり、
競争心旺盛なボウイは自分の地位を守ろうと思った(へえ、意外に負けず嫌い?
1週間遅れで発売した『Pin Ups』はイギリスのバンドに的を絞り、アメリカ人、若いファン向けだった。
「これらはとても大きな意味があり、どれもとても懐かしくなる曲。
64~67にマーキーで直に聴いた。これがあの頃の僕のロンドン」
歌手のレスリー・ダンカン(GF)を介して、スコット・ウォーカーからも影響を受けた。
ミュージカル『ジャック・ブレルは今日もパリに生きて歌っている』はその後にも影響を与えた。
ボウイは、ヴェルヴェッツの最初期からのファンだった。
「ヴェルヴェッツの曲を誰より早くカバーした。アルバムを出す前にカバーしたんだ」
1972年に『Transformer』をプロデュースして恩返しした。
1971年、初アメリカ滞在時にイギーの支持者となる。
1972年、ストゥージズのライヴには、ジョン・ライドン、ミック・ジョーンズらがいた。
『Raw Power』をプロデュースし、パンク・ロックの火付け役となった。
そもそもボウイの音楽活動はカバーから始まる。
1956年、父親が家にもってきたのは、チャック・ベリーやファッツ・ドミノなど。
中でもお気に入りはリトル・リチャードの♪Tutti-Frutti
1962年、ジョージ・アンダーウッド(幼なじみで親友)とのケンカで左目を殴り、瞳孔が開きっぱなしになたのはトレードマークとなる。
1966年、モンキーズのデイヴィッド・ジョーンズと間違えられないよう、デヴィッド・ボウイに変える。
アラモ砦の英雄ジェームズ・ボウイと彼のナイフにちなんだ。
最初のヒットは、1969年♪Space Oddity 『2001年宇宙の旅』がヒント。
トニー・ヴィスコンティが初参加。その後、お気に入りのプロデューサーとなる。
1974年、大規模な『ダイアモンドの犬』北米ツアー中にソウルミュージックを吸収し「プラスティック・ソウル」と呼んだ。
『ヤング・アメリカンズ』には、スライのドラマー、アンディ・ニューマークらが参加。
ジョン・レノンの♪Across The Universe もある。
「前から素晴らしい曲だと思っていた。オリジナルはかなり弱々しいから、ハンマーでガンガン叩いて気合を入れてみた」
(ビートルズを批評するって、すごい自信!
録音にはジョンがvoc.,gt.で参加。
ツアー最中にドキュメンタリー番組『Cracked Actor』を制作。
そこには、ボウイの孤独感、か弱さ、幻滅が映し出されていた。
これを観たニコラス・ローグは、映画『地球に落ちてきた男』に起用。
1976年『Station to Station』のキャラクターは、クロウリー(この人?)、カバラ思想、トゥーレ協会に傾倒したシン・ホワイト・デューク。
これ以降、ボウイはヨーロッパに回帰する。
ロスで荒れ、引退同然だったイギーを救い『アイソラーツアー』に同行させ、『The Idiot』を録音。♪China Girl が作られた。
冷戦時代のベルリンは、ボウイとイギーの避難場所となる。ステージ裏ではブライアン・イーノと出会う。
『アイソラーツアーⅡ』を収録したのが『Stage』。ブレヒトの処女作『バール』の主役を演じる。
1980年代は『Scary Monsters』(NYに拠点を移す)で幸先良くはじまり、ブロードウェイにも進出。
『エレファントマン』で主役を演じる。
1983年、EMI移籍後初の『Let's Dance』でポップカルチャーに躍り出る。
(『Tonight』や『Never Let Me Down』を酷評しているのは的外れだなあ
『グラス・スパイダーツアー』は商業的には成功だった。
1989年、「tin machine」結成。
1990年、過去のヒット曲を網羅する『Sound + Vision World Tour』をはじめる。
1992年、フレディの追悼コンサートで闘病中のミック・ロンソンと演奏。
彼はその1年後に亡くなり、没後の『Heaven and Hull』に参加。
2004年、ドイツツアー中に心臓発作となり、長い隠遁生活に入る(知らなかった・・・
引退説の流れる中、ボウイはNYで妻イマン、娘アレクサンドリアとの生活を満喫していた。
66歳の誕生日、'70年代と同様に劇的な再登場。『The Next Day』は極秘に制作された。
ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館では、大規模な回顧展が開催された。
“空から目を離さないように。
トレヴァー・ボルダー、ルー・リード、ミック・ロンソンにこのCDを捧げる。”
「ブレヒト」
●Sound + Vision/David Bowie
♪Sound and vision は私のお気に入りの曲の1つで、なかなかCDで聴けなかったのが、やっと手元にやってきたのは感慨深い。
超豪華な4枚組。ブックレットもけっこうなぶ厚さ。
16曲目♪Rock 'N' Roll Suicide(Live '73)では、手拍子が聞こえるような・・・?
【ライナー抜粋メモ~カート・ローダー(2003)】
ボウイの存在なしには70年代前半は痛ましい状況だっただろう。
(このカートさんは、G.オサリバン、C.キングらを酷評している
彼をパッケージ化したのがこのボックスセットで、当初は89年に3枚組みで発売された。
この4枚組みには、レアトラク、アウトテイクなどが入っている。
(経歴は上記でも少し触れたから省略
広告代理店で商業デザイナーもやってたの?驚
こないだ見た30分の映画『The Image』のことも書かれている。一時は劇団にも所属。
パントマイムアーティストのリンゼイ・ケンプからアントナン・アルトー、不条理演劇を学んだ。
1968年、トニー・ヴィスコンティはティラノザウスル・レックスのプロデュースを始め、
ボウイは、パントマイムアーティストとして彼らの前座を務めた/驚×5000
映画『The Virgin Soldiers』のエキストラ出演。
当時のGF、バレエダンサーのハーマイオニーはダンサーと逃げた。
「僕は彼女に夢中だったから、そのショックと、『2001年宇宙の旅』を観たことが♪Space Oddity のきっかけになった。
ジョン・ハッチンソンとの共作の予定が、彼は故郷に帰ると決め、1人で演ることになって心が折れたよ」
この曲が世界的大ヒットとなる。
ここに収められた♪The Prettiest Star のoriginal ver.では、グラムロックスターになる直前のボランがギターを弾いている!!
「マークと僕の間にはかなりライバル意識があった。スタジオではなんか2人とも奇妙な態度をとっていたのを覚えている。
でもその後、彼が非業の死を遂げるまで大親友になった」
セッションミュージシャンに飽きて、「ザ・ハイプ」を結成。
「メンバ全員がなにかのキャラクターに扮したら面白いと思った。
当時は長髪とジーンズが全盛で、ショーの間、ずっとブーイングされていた。観客は完全に毛嫌いしていた。最高だったよ!」
アンジェラ・バーネットと結婚。ゾウイ(現ダンカン)誕生。
ボウイは“メンズ・ドレス”で闊歩した。
RCAと契約し、ルー、イギー、A.ウォーホルと出会う。
『ハンキー・ドリー』では、ボウイの長年のアイドル、ディランをカバー。
♪Changes は初期の代表曲となる。
1972年、音楽週刊誌『メロディ・メイカー』で「僕は同性愛者だった」と語った。
「ドラッグの発言は当たり前になっていたけど、あれは当時最も挑発的だっただろうね」
「アラジン・セインは、ある意味“ジギー”を置き去りにした半端なものだった。
スパイダーズはストレートなロックに進みたがったが、僕はソウルなどに興味をもっていた」
「『Pin Ups』は、今は一番気に入っているアルバムの1つ。第二弾の構想もあった」
小説『1984』のミュージカル化計画は、オーウェル未亡人の承諾を得られず、『ダイアモンドの犬』に収録。
「途方に暮れたよ。だからバロウズのやり方で書き直した。
本格的にカットアップ技法を試して、ソングライティングの新たな道が開けた。
歌詞より、曲の雰囲気、姿勢が大事だった。
ステージを中心に活動する演劇的なアーティストとして再定義しようとしていた」
1976年、当時史上最大の大掛かりなツアーを開始。
「舞台セットは信じられないくらい高額で、おかげで一文無しになって、回収するまで数年かかった」
フィラデルフィアの2日間がライヴ録音され『David Bowie Live』としてリリース。
新人ギタリスト、カルロス・アロマーと出会い、厄介な舞台セットを捨て、
ソウルレビューのようなライヴをして、観客を戸惑わせたが、
『ヤング・アメリカンズ』はディスコで大評判となる
ボウイは、初期のスプリングスティーンを崇拝していた/驚
「♪It's Hard To Be A Saint In The City を録音中、聴きに来た彼はとてもシャイな人だった。
彼の生活はとてもディラン風で、ギターを背負って街から街へという感じ。
彼は僕たちのやっていることにあまり乗り気ではない様子だったな」
『Station to Station』には、ニーナ・シモンから拝借した(!)♪Wild Is the Wind を収録。
強烈な白色光を入れた『Station to Station Tour』は、ボウイのお気に入りの1つ。
「フリッツ・ラング、ゲオルグ・ヴィルヘイム・パープストなど表現主義の、ドイツ映画風のイメージに戻りたかった」
1976年、ボウイとイギーはドラッグ漬けの生活から立ち直るため、ベルリンに移住。
9月にロンドンに戻り、旧友のボランが司会を務めるテレビ番組に出演。
ボランはこの1週間後、自動車事故で亡くなる。
ボウイとイーノの3部作『Low』『Heroes』『Lodger』は、その後80年代に「アヴァンロック」に大きな影響を及ぼす雛形となる。
「ある日、イーノが慌てて入ってきて“未来のサウンドを聴いた”と言って、
ドナ・サマーの♪I Feel Love をかけて、“これは今後15年間のクラブミュージックを変えるよ”と言った」
「僕たちは、『オブリーク・ストラテジーズ』のカードをかなり利用したよ。
行き詰った時、カードを1枚ひいて、どんな指示でも従うわけだ。
ロックをプレイする際の決め事をすべてぶち壊すべく様々なことをやった」
1979年、映画『Just a Gigolo』、1983年『The Hunger』に出演。
『Let's Dance』は、ボウイが長年魅了されてきたダンスミュージック、
ニューウェイヴ(レコード業界が軽蔑に値する純粋なパンクと区別するために作り出した名称)、
ポストパンクを盛り込んだアルバム。
(『デヴィッド・ボウイが魅せられた名曲たち』のライナーで酷評されたアルバムは、ここでは評価されている。
評論家も、結局その作品が“好きか嫌いか”なんだよね。
「tin machine」は1993年にひっそりと解散。昔からのファンが、時代の先端をいく
独創的で尖った音楽についていけなかったことも、理由の1つだった。
これほどオリジナリティのバンドのLPをカット盤にして、ディスカウントコーナーに追い込んだ
大衆のアホさ加減に悪態をつきたくなるだろう(たしかに、この2枚は実際素晴らしい
1993年、イギリスでドラマ化された『The Buddha Of Suburbia』のサントラは、もっと多くのファンが聴くべきだと思う。
締めくくりは♪パラス・アテナ の長いライヴver.。
最近のボウイは、若かりし頃からのファンに向かって、判で押したような活動だけをしているわけではない。
つまり彼は(明らかに)金のためだけに活動しているわけではない。
彼はその他すべてのために続けている。今でも。