、
15.05.07 撮影
美しい山々と大自然が語る壮大な歴史ロマン
山中城跡 (日本百名城・山中城公園)
本丸跡
標高578m、面積1,740㎡、天守櫓と共に、山中城の中心となる曲輪(くるわ)である
周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁(どるい)と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。この曲輪は盛土によって兵糧庫側から2m
前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。
虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く、江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦西、北条丸寄り
に建てられており現在の藤棚の位置である。
、
、
山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に小田原に本城をおいた後、北条氏が築城しました。その後、天正十七年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政
は、秀吉の小田原城攻めに備え急遽堀や岱崎出丸等の整備、増築を行いました。しかし翌天正十八年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、四万の豊臣軍
の総攻撃を受けました。北条軍は四千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。
この時の城主・松田康長、副将・間宮康後、豊臣方の一柳直末等武将の墓が三の丸にある宗閑寺境内に有ります。
400年前の遺構がそのまま復元されている山城は全国的にも非常に珍しく、堀や土塁が良く残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱
根山の自然の地形を巧みに取り入れた山城の作り方など、目を見張るものがあります。 昭和九年(1934年)国の史跡に指定されました。
、
、
西ノ丸への入口
画像で見るよりは、かなりキツイ上り坂でした。
、
西ノ丸櫓
西ノ丸櫓跡は下記画像の四角く白く映っている場所ですが、この下部に西ノ丸が位置します。
西ノ丸は3400㎡の広大な面積を持つ曲輪(くるわ)で山中城の西方防備の拠点である。西端の高い見張り台はすべて盛土(もりど)をつみ
上げたもので、ここを中心に曲輪の三方を【コ】の字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見晴台に近い所から、南側は盛土して平坦
にならしている。
曲輪は全体に東へ傾斜して東側にある溜池には連絡用通路を排水口として雨水等が集められるしくみである、自然の地形と人知とを一体化
した築城術に北条流の一端を見る事が出来ます。
、
、
西ノ丸、側面
、
西ノ丸畝堀(うねぼり)
西ノ丸内部に敵が進入することを防ぐため完全に曲輪の周囲に堀によって、とりまいている。 山中城では場所によって水のない堀と水の
ある堀や、柔らかい泥土(でいど)のある堀とに分けられる、この堀の中は5本の畝(うね)によって区画されている。畝の高さは、堀底から約
2m、更に西ノ丸の曲輪へ入るには9mちかくもよじ登らなければならない。
遺構を保護するため、現在は芝生や樹木を植栽してあるが当時はすべりやすい「ローム層」が露出していた。
、
、
西ノ丸堀
西ノ丸堀は山中城の西方防備の拠点で、西ノ丸にふさわしく広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。
西櫓と西ノ丸の間は中央に太い畝を置き交互に両曲輪に向かって畝を出しているが、西ノ丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより
複雑にしている。
このように複雑な堀の構造は共に伝えられる「北条流障子」の変形であり学術上の価値も高いものです。
、
、
西ノ丸を正面に見る(画像上部の平らな所)
、
架橋
、
箱根旧街道 腰巻地区の石畳復元 ↓
箱根旧街道は、慶長九年(1604年)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿
と三島宿を結ぶ、標高845mの箱根峠を超える箱根八里(約32km)の区間です。
この旧街道には通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれた。またローム層の土で大変滑り
やすい道なので、やがてその道に竹が敷かれたが、延宝八年(1680年)頃には石畳の道に改修された。
”おいら”、スニーカーでこの石畳を500m程あるいて見たが、スニーカーでも歩きにくい、当時の人は「わらじ」だったであろうから、大変だっ
たのではないだろうか?
、
、
平成27年12月開通予定の「箱根西麓三島大吊橋」
本日の撮影目的は、下記完成図の「箱根西麓大吊橋」だったのだが、出向いて見たら本柱が一本まだ未完成で、中にも入れなかった、
5月5日、PM18:54からのTVニュースで、車いすに乗って通行している人の姿が映し出されていた為、もう通行可能かと思って行ったの
だが、”おいら”の見間違いの様だった、きっと完成時の合成写真を見てしまったのだと思う・・・・・ 残念!
仕方なく、すぐ近くに有る、山中城跡へ行ったのだが画像で見るよりはとても大変で、2時間半ほど、山中を歩き回ったよ、疲れた疲れた。