sibasenn気ままな旅日記&日常のつぶやき

東海道53次ウォークや気ままなバックパッカーの旅日記を写真もまじえて報告&日常のつぶやき

イタリア・中欧・カタールの旅(2014年3月27日① イタリア・ポンペイ)

2021-05-26 15:39:27 | 2014年イタリア・中欧・カタールの旅
こんにちは、sibasennです。

2014年3月27日①   イタリア・ポンペイ

さて今日はどこに行こうか?
一番に行きたいところは「青の洞窟」だが、
9時ごろホテルの人に聞いてみる。
ところが英語が通じずに、しかも小雨が降っているのであきらめて、
二番目のポンペイに向かうことにした。

9時30分ごろナポリ中央駅

ナポリ中央駅から30分ほどでポンペイに着く。
ガイド付きツアーを申し込む。
ところが女性ガイドの横柄な態度にムッとする。
初めにカフェに通されて、飲み物を注文するよう促されたり、
ツアー出発までに何やらと手間どったり、
出発したかと思ったら電話がかかってきて長話をしたりと、
もう私ぐらいの歳のものには考えられない態度にキレてしまった。
それでもまあなんとかツアーは出発!

*ここでポンペイについての一口メモ
紀元79年8月24日、ヴェスビオ火山の噴火によって
発生した火砕流によって一瞬にして地中に埋まり、
18世紀に発掘されるまで火山灰に埋もれていた。
火山灰が街を隙間なく覆い尽くしたことで
壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められ、
結果として街は非常によい保存状態のまま保たれることになった。

石畳の敷かれた道路は京都のように碁盤目で、水道網が発達し、
公共水場が設置され誰でも水にアクセスできたといわれている。
古代のローマ人は現代に近い清潔感を持っていたそうで、
浴場が大人気だったとか。
発掘以降は外気に晒されて崩壊が進んでいるため、
修復作業が常に行われている。

古代ローマの生活が見えるポンペイ遺跡は世界遺産に登録されている。


11時ごろようやくツアー出発。






パジリカ
裁判所として使われていた。
建物の一部と、柱の土台部分が主に残っていました。


マーケット


壺などの出土品
ワインの生産に使われていた。
石膏の遺体(上の写真中央含む)
発掘の最中、あまりに多くの不思議な形の空洞が現れることから、
石膏を流し込んで固めてから周囲の堆積物を取り除くと、人型が現れた。

壁画





浴場は当時ポンペイで非常に人気のあった施設で、
遺跡内にはいくつもの浴場がある。

そのうちの一つであるフォロ浴場




脱衣所の他、水風呂やサウナもあったとか。



パン屋などが並ぶ食堂街のような場所もある。
食べ物を温めるところや、冷蔵庫のように食品を保存しておくところまでも。
パン屋にはパンを焼くための焼き釜まで!(写真がないのが残念!)












貴族であった人物たちの邸宅跡

フレスコ画





モザイク画

入口にある小さな牧神の像
像の本物はナポリの国立考古学博物館に移されており、
ポンペイ遺跡にはそのレプリカが展示されている。











一応ツアーは終わり、あとは自由に散策

体育場

ポンペイ遺跡の一番東に位置する円形闘技場
奴隷や捕虜たちによる闘いのほか、
演劇など当時の市民の娯楽の場としても機能していた。

剣闘士たちが通った廊下など舞台裏も見ることができる。

残りは写真のみ紹介









いかがでしたか?
古代ローマの人々の暮らしの様子が伝わったでしょうか?
全てではないかもしれませんが、
現代の私たちの暮らしぶりと変わらないものが、そこにはあったのです。
でも一瞬の火山噴火と火砕流により、全てを飲み込まれてしまったのです。
石膏の遺体は、その時の人間のもがき苦しんだ様を伝えてくれています。
そして2000年間埋もれていた街が蘇ったのです。
でもあまりにも大量の灰が覆ってくれたことにより、
当時の街や人々の息づかいまでもが蘇ったのです。

日本に戻ってからケーブルテレビで「ポンペイ」という映画を見ました。
もちろん映画ですから、当時ポンペイで現実に起こったものとは違いますが、
私がこの目で見てきたポンペイ遺跡と重ね合わせ、
思い出しながら、何度も見ました。

さてこの後、アマルフィに向かいます。
ここもまた織田裕二の映画とダブってきます。

今回はここまで

ではまた

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