ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

ここは僕のいえ

2010-03-14 | ママ
公園で遊び足りない様子の渉くん。
帰るのいやいや、バギーも抱っこもいやいや。
‘もっと歩きたいんだ!’と歩道を歩いていく。

つないだ手もふりほどくので、仕方なく真後ろを囲うようについて行くママ。
こっちのフェンスが気になれば、あっちの金網も気になる。
あっちゃでバンバン、こっちゃでガタガタ、寄り道しながら、ようやくもうすぐ我が家。

一人でずんずん歩いていく後ろ姿を追いながら、さぁ家に帰れるかな。
一緒にいた母と顔を見合わせ、しばし観察。
するとちゃーんと角をまがり、マンションのエントランスに入っていく。
迷いも無くすたすたすた。
おおー!
エレベーターが開くとちゃーんと家のドアの前でストップ!
ドアを開けようと背伸びしている渉くん。
おおー!

すごい!もう自分の家がちゃんとわかっているんだね。
ついこの間まで、よちよち歩きだったのに、もうすっかり一人前に歩く。
大地を踏みしめながら歩く背中を頼もしく感じました。



絵本を楽しもう

2010-03-11 | ママ


いつも行っている児童館での講座、「絵本を楽しもう」に参加してきた。
自宅スペースを誰でも立ち寄れる絵本広場として解放している「ぶんぶん文庫」の方が来てくれた。
みんなお気に入りの絵本を持ち寄って紹介しあう。

私は、母からもらった大御所!?「はらぺこあおむし」と渉くんの大好きな「ノンタン」。
いろんな絵本があって大人も興味津々。
大人はどうしても文字をおってしまうが、こどもは絵を読んでいるようだ。
大人は物語の世界と現実を区別しているが、子供は想像の世界でふわふわの状態。
絵本の世界を体験しながら徐々に区別がついてくるようだ。
いろんな世界が子供たちの頭のなかに浮かぶのだろうな。

ちょうど今日の新聞のオーサー・ビジットのコーナーで、面白い記事があった。
詩人の工藤直子さんが小学校を訪れ、子供たちが書いた詩を朗読するというもの。
工藤さんの作品「よいしょ」を参考に子供たちが作ったものだ。

おもちがぷくぷく よいしょとふくらんで
ききゅうみたいになっちゃって
とぼうとあみの上でよいしょよいしょと
ききゅうみたいにとぶためれんしゅうちゅう
おそらの上までとんでった
おもちのおそらができました。

小学3年生の作品。
おもちから気球はなかなか想像しない。
子供の感性の豊かさにははっとさせられ脱帽。

これから渉くんと読む絵本の時間。
どんな絵本が好きになって、どんな反応して、どんな話ができるかな。
楽しみがいっぱいだ。






まるごと大根 

2010-03-08 | 料理


久々に冷蔵庫の中がからっぽ。
渉くんと一緒に買出し隊に!

にんじん・ほうれん草・レンコン・ごぼう・かぶら・かぼちゃ。
そして葉付大根一本。
美味しい大根を見つけて以来、常備している大根さん。
煮物に最高の季節だけど、あまりに甘くてみずみずしいので、まるごと生で頂いてます。

前に食べ終わった大根の皮が一本分置いてあるので、短冊切りにして半日干。
今日買った大根葉とにんじん葉とかぶらの葉も細かく刻んで、栄養満点の炒め物。
ごま油で炒って、日本酒で蒸し、しょうゆとみりんで味付け。
簡単だけど、あつあつのご飯にかけると苦味がきいてて美味しい!
お酒のあてにもどうぞ。



もう一品も野菜づくし。
根菜類の泥をおとし、皮付きのままざくざく大胆に。
あごだしにしょうがをいれて、香りがでたら野菜をそのままごっそりお鍋にいれる。
お酒少々であとは野菜からしっかり旨みがでてくるのを待つ。
和風ポトフといったところ。
食卓の彩りは地味だけど、、、ヘルシーな晩御飯。

大根スティックに佃煮の残りと、と用意していたら、なんと急に飲みがはいったとか。
くすん、一人の食卓となりました。
また明日食べよーっと。

教育

2010-03-08 | パパ
現代の小学生は脱ゆとり教育のせいか、はたまた子供への過剰な期待のせいなのか、とかく習い事や塾で忙しいようだ。姉の姪もバレエや塾、学校の宿題で休まる暇がないらしく、昨日も全国模試で一緒に食事に行くことができなかった。
これから色々なことに驚き、感性を豊かにしていく子供に、血の通わない単なる競争を作り出すだけの知識をただ押し付けているだけではないだろうか心配である。人間にとって一番大事な好奇心というものは、情報が多すぎると萎えてしまう。無いからこそ欲することができるのである。

アリストテレスは次のような言葉を残している。
「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」

「人は単に知っていることによって知慮あるひとたるのではなくして、実践しうるひとたることによってそうなるのである」

子供は様々な場所で上級生や大人との交流を通して、社会性を見につけ、学んだ知識が身体化される。知識は試験場で競争に打ち勝つための手段ではないはずだ。何かに出会ったときに、何を感じるか、そして、如何に決断するか。そのような状況に置かれて初めて、知識は活性化され、より深く身体に刻まれる。

チンパンジーの親は、子には例えば木の実の割り方などを指導はしない。子も割れないからといって親に要求しない。ただ親は子の横に寄り添い木の実を割るのを見せているだけである。昔の徒弟制はこの形式に近く、技は教えられるものではなく盗むものだった。
時代が進むとともに、効率的に教育は体系化されて、盗むといった回りくどい方法から、単に機械的に生活環境から切り離して大量に詰め込んでいく方法へと移り変わっていった。

子供を混沌の世界に放り込む勇気。そして、さまよい歩く子供に、だまって寄り添い、ともに成長していく覚悟をもつこと。そうしない限り、子供たちはますます不毛な習い事や受験勉強といった小さな世界へと回収されていくと思う。

「勇気と節操をもっている人たちは、ほかの人たちからみると、いつだって非常にきみのわるいものさ。」ヘルマン・ヘッセ







歴史

2010-03-07 | パパ
歴史というものを作る歴史が存在する。
美術の歴史を研究する学問分野である美術史は、16世紀のジョルジョ・ヴァザーリが出版した「画家・彫刻家・建築家列伝」に始まるといわれている。




彼は、ミケランジェロの天才的な作品を、彼一人の才能としてではなく、人類の営みの中で発展した頂点におき、非凡な作品の系譜の連なりとして描いている。そこには、美術を現代のように様式によって分類し分析していく透明性はないが、画家の生き方と作品のリアリティを時代毎につないでいくことで、ミケランジェロまでの歴史をなまなましく作り上げている。


現在、われわれが絵を見るときに参照するルネサンス美術やバロック美術といった様式によって歴史を捉えようとしたのが、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンである。





彼は、1915年に出版した「美術史の基礎概念」の中で、ルネサンスとバロックを5つの表現形式で対比して分析した。
われわれは、美術館に足を運んで絵を見るとき、そこに描かれる絵よりもそれを説明するテキストを先に読み、その解釈のもとに絵を文字とともに鑑賞する。それはまさに、ヴェルフリンの時代からの系譜なのである。


現在というものは常に混沌として、日々更新される。そして、ある時間のスパンを経た人類が、過去を振り返ったときに、混沌への不安を解消し、秩序を生み出すために歴史は作り出されるのかもしれない。
そして、人間は混沌と秩序の狭間で揺らぎながら、歴史を振り返り、新たに前に一歩踏み出していく生き物なのかもしれない。