ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

一犯一語

2010-03-02 | パパ
今日は大正時代の社会運動家で無政府主義者の大杉栄を紹介。
国家主義的・軍国主義的傾向が強まっていく時代において、自由と創造を叫ぶ者は逮捕され、監獄に送り込まれた。
そのような、恐ろしい時代において大杉栄は、自らの精神に忠実に、そして自ら招いた苦しい現実を学びの場へと創造した人物である。
彼は「続獄中記」の中で書いている。

「僕は自分が監獄で出来上がった人間だということを明らかに自覚している。自負している。入獄前の僕は、おそらくはまだどうにでも造り直せる、あるいはまだ、ろくにはできていなかった、ふやふやの人間だったのだ」と。

このように彼が書き残しているのには、わけがあって、それは、彼特有の投獄に際しての原則というものがあるからである。
それが「一犯一語」である。
どういうことかというと、一回投獄されるたびに、獄中の退屈な時間を使って一外国語をマスターしていくというもの。投獄されて殺されるかもしれない状況で、なんとものんびりした態度で勇ましい。

「つまらない文法の練習問題を一々真面目にやっていくなどは、監獄にでも入っていなければとうていできぬ業だろうと思う。ただ、一人では会話ができないで困る。夕食後
就寝まで二時間余りある。その間はトルストイの小説集(英文)を読んでいる。」

とは言っても、やはり一人では寂しさも募るのだろう。独房を訪れた一匹のトンボのエピソードを書き記している。

「何でも懐かしい。ことに世間のものは懐かしい。・・・生命のあるもの少しでも自分の生命と交感する何ものかを持っているものは、堪らなく懐かしい。空に舞う鳶、夕暮近く高く飛んでいく烏、窓のそとで鳴く雀。しかるに今、その生物の一つが、室の中に飛び込んできたのだ。僕はすぐに窓を閉めた。そして箒ではらったり、雑巾を投げたりして、室じゅうを散々に追い回した末に、ようやくそれを捕まえた。僕はこのトンボを飼って置くつもりだった。・・・できるものなら、何かを食わせて、少しでもこの虫に親しんでみたいと思った。僕はトンボの羽根を本の間に挟んでおさえて置いて、自分の手元にある一番丈夫そうな片の、帯の糸を抜き始めた。その糸きれを長く結んで、トンボをゆわえておくひもを作ろうと思ったのだ。が、そうして、厚い洋書の中にその羽根を挟まれて、しきりにもみて手をするように手足をもがいているトンボに、折々目をくばりながら、もう大分糸を抜いたと思う頃に、ふと電気にでも打たれたかのようにぞっと身震いがしてきた。そして僕はふと立ち上がりながら、そのトンボの羽根を持って、急いで窓の下に行って、それを外に放してやった。・・・僕はただ、急に沈み込んで、ぼんやりと何か考えているようだった。・・・俺は捕らえられているんだ。」

獄中というのは、今から考えれば、犯罪を犯したものが、国家によって管理される一つの小さな空間であるかもしれないが、彼が生きた時代においては、社会への変革を求める熱き思想をもって生きた人間が拘束されながらも、思索を深めていく学びの空間だったのかもしれない。だからこそ、建築家の後藤慶二は豊多摩監獄を、人間が生きていく空間として設計したのだ。

大杉栄にとって、現実という社会は、命にかえても、ぶつかっていかなければならない壁であり、獄中は壁に跳ね返された自身を内部から蘇生させてくれる極小であるが広大な世界だったのかもしれない。しかし、悲しくも、1923年、38歳の大杉は、投獄され、虐殺されてしまう。

しかし、彼は最後まで、権力という暴力には屈せず、精神において自身を貫いた一生だったと思う。


「思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そしてさらに動機にも自由あれ」と。