ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

書く行為とは

2010-03-03 | パパ
ここ最近、渉一が機嫌が悪く寝付きも悪い。こんなとき、母親は苦しいのだろう。分かっていながらも、「うるさい!」と寝付かない渉一に心無い言葉を投げつけてしまうようだ。そしてそういう自分が悲しいのだと。だから、彼女は、ブログをこれ以上書けないと言う。理想的な思いと行為が乖離することに耐えられず苦しいからだ。

でも僕は、そんなことはないと思っている。人間はだれでも、いざという段になると、思いもよらない行動に一歩踏み込んでしまう。
夏目漱石も小説「こころ」で書いている。

「鋳型に入れたような悪人は世の中にある筈がありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断が出来ないのです。」

夏目漱石は、小説という形態を借りて人間のエゴイズムを、汎用の生活一般のなかに、なまなましく描きこみながら、自身の中に巣食う偽善という闇を自己本位という自己肯定へと昇華しようとしたのではないか?

ならば、書くということは、自己の矛盾を繰り返しながらも、その痛みを通して、自身が思い描く生き方へといざなう行為なのではないでしょうか。

ヘルマン・ヘッセは言っている。

「すべての人間の生活は自分自身への道である」のだと。

人は学びそして書き、苦しみ振り返りながら、ひとつひとつの行為をつなぎ、道を作り上げていく。人生というものは、そういうものではないでしょうか?