探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで  第六話

2016-01-18 16:21:54 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第六話

ここで、小笠原長径、長忠が、阿波国守護として阿波に居着いてしまえば、松尾小笠原家は生まれてこないことになります。ここでどんなドラマがあったのでしょうか?
承久の乱の時、小笠原長径は43歳、父・長清は60歳、長男・長忠は19歳、次男・長房にいたってはまだ8歳です。

 ・小笠原長房:生・没(1213-1276)( 阿波国守護)
 ・小笠原長忠:生・没(1202-1264)( 豊松丸、又次郎、兵庫助、信濃守)
 ・小笠原長径:生・没(1179-1247)( 弥太郎、入道, 阿波国守護)

小笠原長径の生涯の再確認
比企の乱までは、前文参照:建仁三(1203)年、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。承久三(1221)年、承久の乱で父長清は鎌倉方の大将軍として子息八人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後の貞応二(1223)年、長経は父の跡を継いで阿波国の守護となっており、5月27日、土御門上皇の土佐国から阿波国への還御にあたって、対応を命じられている。その後出家して小笠原入道と称され、宝治元(1247)年、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている(『葉黄記』)。

小笠原長忠
小笠原長忠は小笠原長経の子。伊那地方の松尾の地で出生したとされるため松尾長忠とも称される。父の長経は承久の乱で功績を挙げ、阿波守護職を得たもの、長忠は後に弟(長清の養子)の小笠原長房に守護職を譲り、自身は信濃に帰国し、伊那地方の伊賀良庄の松尾の地に居住した。長房の子孫は阿波小笠原氏となる。小笠原家の家譜によると長忠は松尾の地で生まれたとされる。
長忠とその子の長政の時代、信濃で幕府から重用されたのは小笠原氏の嫡家である伴野氏(伴野時長が祖)であったが、霜月騒動に連座して伴野長泰が殺害・没落したため、長忠の孫で長政の子の小笠原長氏に惣領の座が復帰した。

小笠原長房
小笠原長房は、阿波国守護。小笠原長経の次男で阿波小笠原氏の祖となる。
承久の乱後、兄・長忠が阿波国守護に任ぜられるが、長忠が本国である信濃国への帰国を希望したために、代わって長房が守護となった。文永四(1267)年に幕府の命令を奉じて、三好郡郡領・平盛隆を討ち、褒賞として美馬郡と三好郡に所領が与えられ、阿波岩倉城を拠点とした。子孫は鎌倉幕府滅亡まで阿波国守護を務め、子孫からは三好氏などを輩出した。

貞応元年(1222):長清、阿波守護となる。
寛喜3年(1231):長経、阿波守護となり、勝瑞を守護所とする。
文永元年(1264):長房、三好郡領の平盛高を滅ぼし三好美馬郡を得、岩倉に本拠を置く。

当たらずとはいえ遠からず・
阿波国守護の変遷を推定します。
長清から長径へ、阿波国守護継承。・・貞応元年(1222)。
長径から長房へ、阿波国守護継承。・・寛喜年間(1231-1233)
 ・・長房生誕(1212)+元服(15?)+α。おそらく元服(15歳過ぎ)まで待ったのだろうと思われます。
 
事実の変遷はこのようですが、ここで不思議なのは、何故小笠原長忠は、阿波国守護を選ばずに、信濃・伊那の松尾に帰ることを希望したのでしょうか。
小笠原長忠が、伊那の松尾に帰ることを選んだので、松尾小笠原家が存立し、ここから信濃国に君臨する幾多の”信濃国守護”が排出されるわけですから、興味津津です。
 ・信濃・伊那松尾では、おそらく”地頭”か”地頭代”の役職で”守護”より格下です。
 ・名誉や権力を考えるのなら、この選択肢はなかろうと思えます。
 ・承久の乱(1221)後、知久氏は上伊那の小河内から知久平に移って、伴野庄の地頭となったという。これ以後に、伊那・伴野(豊丘村)地頭の小笠原長清の名が文献から消えます。『守矢文書』には、十四世紀のはじめ伴野庄の地頭として伊具氏、波多野氏らの名があり、鎌倉時代、知久氏の勢力は知久平中心になります。知久氏は、承久の乱の時、東山道軍大将・小笠原長清の配下です。戦功の恩賞に、長清が関わっていたことは充分合理的に納得できますし、伊具氏、波多野氏も同類として推察できます。
 ・小笠原長忠の官名に信濃守と”民部卿”が見えます。鎌倉御家人として、出仕先が京都で、朝廷・民部卿である可能性もありますが裏付ける資料はありません。信濃守は、地方の行政官の官名ですから、知久氏などの地頭を束ねる役目だったと考える方が自然です。
 ・伊那・松尾に帰ってからの長忠は、公的な立場から名前が一切出てこなくなります。
 ・長忠が、伊那・松尾に帰ることを希望したのは、どうも私的な理由からだったのではないかと憶測します。長忠の母同様、室の名前も詳らかではありません。これは何を意味するのでしょうか。武家としての地位や名誉や名声や権力とは、かなり離れた存在だったことが覗われます。かなり興味深いことです。長忠の松尾への帰還と相まって、父・長径も松尾へ帰ったと記録に残ります。
 
小笠原長政:長忠の子
・小笠原長政のことも、小笠原家の家系図に載っているだけで、ほとんど判りません。

*(これは、小笠原家系図ならびに寛政譜からの資料の記載からです。群書類従には、違った内容で記載があります。この部分は次号で詳細します。)

小笠原長氏:長政の子:生没:安貞元~延慶三(1227-1310)年 
・長氏の時に、松尾小笠原家は劇的に変化して行きます。
 


松尾小笠原宗家の創立まで  第五話

2016-01-14 16:59:10 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第五話

承久の乱(1221)以後の小笠原家

まず、小笠原長清をはじめとする一族の事跡と恩賞・官名などから確認してみます。何が浮かび上がってくるのでしょうか?

少し前・加賀美遠光から・・・「吾妻鏡」より拾う
・治承四(1180)年、源頼朝が挙兵した少し後、信濃国は、加賀美遠光が名国司(信濃守)だったが、「実際の国務は目代である比企能員が沙汰しており、信濃国守護も兼務していた」と記録に残ります。”目代”よりも”国司”の方が立場は上ですが、実務は比企能員で、加賀美遠光(小笠原長清の父)は名誉職だったようです。
・治承四(1180)年、加々美次郎長清:富士川の戦い。長清、頼朝の黄瀬川本陣へ。
・治承四(1180)年、加々美次郎長清:頼朝の鎌倉大倉邸に移転する際随行。
・治承四(1180)年、加々美次郎長清:平知盛の家臣・右馬の允橘の公長、子息公忠、公成が鎌倉に投降。 長清が知盛に仕えていた好みで執り成しで鎌倉御家にする。
・養和元年、加々美次郎長清:頼朝の仲介で、上総の権の介廣常の聟と為る。
・元暦元(1184)年、小笠原次郎長清:「故志水の冠者義高の伴類等、甲斐、信濃等の国に隠居せしめ、叛逆を起こさんと 擬するの由風聞するの間、軍兵を遣わし征罰を加えらるべきの由その沙汰あり。 足利の冠者義兼、小笠原の次郎長清御家人等を相伴い、甲斐の国に発向すべし。」・・・高倉天皇より「小笠原姓」を賜り、以後「小笠原」を名乗る
・元暦二(1185)年、小笠原長清が頼朝挙兵に味方した恩賞で、父・遠光の信濃守の官名を継承します。
*元暦二(1185)年、源頼朝の推挙で、信濃守に補任された。ここより、信濃に勢力を浸透させていくこととなる。
・元暦二(1185)年、平家追討の際、「武田(石和)信光と小笠原長清を 誉めている」。逆に、「長清の兄・秋山光朝は敵視されている」。・・・頼朝が弟範頼に出した手紙
・文治元(1185)年、頼朝、全国に守護・地頭を設置:この時期に、長清も信濃国・伴野庄の地頭になった。(伴野庄は伊那・伴野庄と比定。佐久・伴野庄は平賀氏の所有)
・文治二(1186)年、小笠原二郎長清:伴野庄地頭・長清の年貢滞納がしばしばある云々。
・文治四(1188)年、小笠原次郎:伴野庄の年貢の滞納の弁償を申し付けられる。
・文治五(1189)年、小笠原次郎長清:奥州藤原氏征伐に遠光、光行、長経?と参加
・建久五(1194)年、小笠原次郎長清:小山朝政家に随行。弓馬の故実・家説を論ず。
・建久七年~建久九年:吾妻鑑の全文欠文。
・正治元年:頼朝:落馬にて死去。頼家、征夷大将軍に。
・建久十年~建暦三年:この間(14年間)長清に関する記述は無い。
 ・・・
 ①上記までの吾妻鑑の記述でわかるように、信頼を得ていた頼朝の死。
 ②梶原景時の謀反事件(1200年)と長清の従兄弟・武田(逸見)有義 の関連。
 ③二代将軍・頼家の側近となった長清の嫡男・長経、および比企の乱(1203)との関係。
・建保元年、小笠原次郎兵衛長清:将軍(実朝)新御所へ移る時の随行。
・承久元(1218)年、小笠原長清:実朝が右大臣に任じられ、鶴岡八幡宮に参拝の随行。
この時、公暁により実朝は暗殺される。
・承久三(1221)年、小笠原長清:承久の乱において、東山道五万騎の大将軍として。
・承久三(1221)年、小笠原長清:大井戸の渡しを渡り、官軍と戦う。
・承久三(1221)年、小笠原長清:宇治の合戦で、敵を打った武将の名前として。
・承久三(1221)年、小笠原長清:乱に関与した公家の権中納言源有雅を預かる。
・承久三(1221)年、小笠原長清:公家の権中納言源有雅を預かって甲斐国に下着した長清は、有雅が二位の尼(北条政子)へ送った助命嘆願の返事を待たず、処刑する。
・・・承久三年七月を境に、長清は吾妻鑑から姿を消す。
・・・有雅卿を処刑した事に対し、吾妻鑑には、「粗忽のていたらく、定めて亡魂の恨み有るものか」・これは、有雅卿の北条政子へ助命嘆願の結果を待たずに処刑した長清を責めているものである。
しかし、乱の関係者の処刑は、
  1221/07/03、遠山景朝が参議藤原信能を、
  1221/07/12、武田信光が按察卿葉室光親を、
  1221/07/14、小山朝長が権中納言藤原宗行を、
  1221/07/18、北条朝時が藤原範茂を
  ・・・処刑している事に比べれば、むしろ遅いほうである。
長清を責める文面は吾妻鑑の編者の思惑からか・長清が処罰された事実な無い。

「尊卑分脈」から小笠原長清の生涯を辿る

承久の乱の後、長清は阿波国守護に任命された。従って一旦は阿波国への移住、活躍の場が鎌倉から離れます。小笠原長清は、官位も累進し、正四位下、信濃守、豆・相・甲・遠・淡・五カ国の管領となり、後に信濃・阿波両国の太守になった、と記されています。

五カ国は ・・・
 ・豆:伊豆、・相:相模、・甲:甲斐、・遠:遠江、・淡:淡路
のことでしょうか?

阿波国守護
阿波は守護ですが、信濃は信濃守・地頭だと思われます。
承久の乱の恩賞は、息子たちにも、長清とは別口で与えられています。
・小笠原(赤沢)清径は山城国、
・小笠原(伴野)時長には佐久・伴野庄、
・小笠原(大井)朝光には佐久・大井庄です。
  ・・(別説には、次男清経が、山城ではなく、伊豆国赤沢郷を本貫として赤沢氏を称したのに始まる、という説もありますが定かではありません)。
・阿波国守護は長清ですが、阿波国内の荘園地頭は長男・長径と孫・長忠、あるいは長径を”守護代”していたと考えるのが妥当だと思われます。
  ・・そしてすぐ、長清は阿波国と伊那・伴野と甲斐・小笠原領を子息(長径・他)に継承してから隠棲し、京に居住したものと思われます。

弓馬の礼
”弓馬の礼”を創った祖が長清ですから、”流儀”を完成させるのには時間が必要になります。戦役に明け暮れするそれまでの長清の人生ではそんな時間が取れませんでした。「承久の乱」の時に小笠原長清は齢六十歳でした。八十一歳で生涯を終えるまで約二十年間は”弓馬の礼”の流儀の奥義の完成に心血を注いだのだろうと思われます。仁治三(1242)年、長清は京都にて没(81歳)、京都・長清寺(東山の清水坂)に埋葬。その京・長清寺は戦乱に焼けて今はありません。
”弓馬の礼”の奥義は、小笠原長径に引き継がれます。ここで小笠原家に、武家という顔とは別の武家のたしなみとか礼儀とか弓馬の儀礼式の・「弓馬の礼」の宗家の骨格が出来上がります。これにより小笠原家は、武家の中で儀礼を先導するようになり、時には天皇や将軍の教授になり、「別格」として扱われるようになります。
住居としては、守護や地頭として自分の領国のほかに、京都の居を構え、絶えず権力者の近在に存在する、まことに異質の武家に育っていくのです。
これが、松尾小笠原家の源流です。

*気になるのは、伊豆守、信濃守などの”守”という官名は、鎌倉初期の頃は、まだ官名詐称の習慣や乱発もなく、意外に冠の国と関係することが多かったようで、赤沢清径伊豆守は伊豆に関係しているのかもしれません。

長経は正治二(1200)年九月二日条に・・・「小笠原阿波弥太郎」と載せ、 また貞応二(1223)年五月、土御門院を土佐より阿波に遷し奉る条に 「阿波守護小笠原弥太郎長経」とあり。「土御門院土佐の国より阿波の国に遷御有るべきの間、祇侯人数の事これを尋ね承り、注進すべきの旨、阿波守護小笠原の彌太郎長経の許に仰せ遣わさる。四月二十日御迎えの為すでに人を土州に進せをはんぬるの由、長経言上する所なり。今日若君息災の御祈祷等、内外共これを行わると。」・・・
また、当国小笠原氏の事は尊卑分脈に、・・・「長経─ 長房(阿波守、右兵衛佐、小笠原太郎、阿波守護、法名長心)」・・・とあります。貞応二(1223)年には、内外とも、小笠原長径が、阿波国で”守護”を勤めていたことが裏づけられています。また、「承久中佐々木氏の族・官軍に応ぜしにより、長経これと戦いて勝ち、また元仁二(1225)年?殖庄預所長清と相論せし事チエ条にいえり。」の文も見え、承久から元仁の年間は、小笠原長径が、阿波国守護であったことが確認できそうです。


松尾小笠原宗家の創立まで  第四話

2016-01-11 12:25:28 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第四話

伴野庄と佐久の豪族・平賀一族

・「吾妻鑑」文治二(1186)年に、信濃国伴野庄地頭として長清の名がみえている。・
この伴野庄は、信濃・伊那の伴野庄か、信濃・佐久の伴野庄かを別の角度で検証します。

それは、平安末期に、信濃・佐久郷に、豪族として君臨した「平賀一族」の歴史の検証になります

佐久の豪族・平賀一族

信濃・佐久郷(伴野庄、大井庄)は、平安末期から平賀一族が所有していました。平賀一族は、源義光流(森羅?新羅三郎)で、甲斐の武田・小笠原家とは同根の別流になります。

平賀義信(1143~1207)、源盛義の子
信濃佐久郡の豪族。「平治の乱」(1159)に源義朝に従い軍功。武蔵を巡り畠山氏と対立。
室:比企ノ尼の娘。子息:隆信(平賀[大内]惟義)、朝信。
官名:美濃守護(1185-1186〉、別名:大内四郎・武蔵守・入道・義宣。

平賀(大内)惟義 (*~1220*)、平賀義信の子。
伊賀国大内荘を領する。源義経の平氏追討軍に参加。「一ノ谷の合戦」に軍功。伊勢羽鳥山に志田義広を追撃する。
文治元(1185)年に頼朝の推薦で後白河院から相模守を拝領。
文治五(1189)年の「奥州征伐」に従軍。建久元(1190)年に頼朝と共に上洛。主に在京し京都の治安維持にあたる。
母:小早川遠平の娘か。藤原秀宗の妹婿。子:惟信、惟親、家信、惟家、義海。
官名:美濃守護(1187-1195〉、別名:大内・冠者・相模守。美濃守護、伊勢・伊賀守護。

平賀朝雅(*~1205)、平賀義信の次男。
佐久の豪族。武蔵を巡り畠山氏と抗争。1205年将軍職を望み、山内首藤通基により討伐。
室:北条時政の娘(北条時政の後妻・牧の方の娘婿)。
官名:京都守護、武蔵守、右衛門佐、別名:朝政。信濃源氏。新羅義光系。

平賀(大内)惟信、大内惟義の嫡男。
鎌倉前期の武将。鎌倉幕府御家人。清和源氏義光流。母:藤原秀宗の妹。
・・・
・元久二(1205)年に叔父の平賀朝雅が牧氏事件に連座して誅された後、朝雅の有していた伊賀・伊勢の守護を継承し、在京御家人として京の都の治安維持などにあたった。帯刀長、検非違使に任じられ、南都神木入洛を防いだり、延暦寺との合戦で焼失した園城寺の造営を奉行するなど重要な役割を果たした。建保七(1219)年に三代将軍源実朝が暗殺された後、父惟義から惟信へ家督が譲られたと見られ、惟義の美濃国の守護も引き継いだ。
承久三(1221)年の承久の乱では後鳥羽上皇方に付いて伊賀光季の襲撃に加わり、子息の惟忠と共に東海道大井戸渡の守りについて幕府軍と対峙した。敗北後、逃亡して十年近く潜伏を続け、法師として日吉八王子の庵室に潜んでいた所を探知され、寛喜二(1230)年12月、武家からの申し入れによって比叡山の悪僧に捕らえられて引き渡された。捕縛の際、力は強いが刀は抜かなかったという。(『明月記』)。その後一命は許されて西国へ配流となった。・・・江戸時代に、天才・奇才の博学として名をはせた平賀源内は四国が出自と聞くが、繋がっているのかも知れない。
承久三(1221)年の承久の乱で敗北した佐久の豪族・平賀一族は、この時点で没落し、所領の伊賀、美濃、信濃佐久は、幕府に没収されて、信濃佐久の権益は、小笠原一族の伴野氏と大井氏に移ったと見られる。 ・・・

平賀一族の経歴と姻戚関係を視野に入れて、当時の政治情勢を思い浮かべてみると、源実朝の亡き後に、将軍を狙ったことと考え合わせると、平賀氏の扱いがあまりにも軽い気がするのですが、平賀氏が「承久の乱」で朝廷側に味方したことから、北条氏の”ポチ”であった「吾妻鏡」編纂者の意図的な”軽視”に思えてなりません。


松尾小笠原宗家の創立まで  第三話

2016-01-06 12:38:24 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第三話

話が、承久の乱の前に戻ります。
比企の乱と源頼家(二代将軍)の近習・小笠原長径 ・・*近習・主人の側に仕える人

小笠原長径は、建久元年(1190)源頼朝上洛の際に随兵として名が見られます。その後、頼朝死後に跡を継いだ将軍・頼家の近習となり、的始儀の射手や狩の供を務めています。将軍・頼家が十三人の合議制に反発して選んだ五人の近習・側近にも選ばれています。
この二代将軍・源頼家の五人の近習に選ばれたことが、続いて起こった「比企の乱」に巻き込まれる要因になっていきます。源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた事変です。小笠原長径は、頼家の五人の近習=比企能員派として捕らえられるわけです。
この頃、父・小笠原長清は、あと三代将軍になる実朝から信頼が厚く、長清の妹・長径の叔母も大弐局として鎌倉府にあり、頼朝の側女であった大弐局は実朝の養育係でもあった関係で、処分的には鎌倉追放というかたちをとり、小笠原長径を隠棲させます。この時、長径は所領を没収されたとありますが、どこを所有していて没収されたのか場所が比定できていません。この事変の概要は、『吾妻鏡』によるものです。
『吾妻鏡』の記述から、源頼家(1182-1204)、小笠原長径(1179-1247)、北条時房(1175-1240)はほぼ同年代で、蹴鞠の遊び友達であり政治的な話題でも相談相手だったことが浮かび上がってきます。さらに北条時房は、北条時政の五男であったわけで、源頼家を主君にしたのは事実としても、比企家の勢力下にあったかどうかははなはだ疑問です。

近頃の研究では、頼家が選んだ五人の近習のひとり、中野(四郎)能成のことについて、興味深いことが研究成果として出てきています。
・・・ 頼家近習であった信濃国の御家人・中野能成は、比企氏滅亡直後の建仁三年(1203)九月四日の日付で時政から所領安堵を受けており、「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という書状が『市河文書』に残されているが、『吾妻鏡』では能成は頼家に連座して所領を没収され、遠流とされた事になっている。この能成と深い関係のあった時政の子・北条時房も頼家の蹴鞠の相手となっており、頼家の周辺には北条氏による監視の目があったと見られる。・・・

この中野能成を例に、小笠原長径の処分を類推すれば、処分は形式的なもので、実態は所領の没収などなかったのではないかと思えてなりません。長径の場合は、「市河文書」のような考証材料がないため断定はできないのですが ・・・・・。
それにしても、『吾妻鏡』というのは、鎌倉幕府編纂書であるがゆえに、鎌倉幕府に都合のいいような記述がかなり見受けられそうですね。つまり、敵対した側はかなり悪く書かれている、時には事実が曲げられている、と見たほうがいいようです。

もう少し踏み込むと、二代将軍・源頼家と北条時房と小笠原長経は「蹴鞠仲間」という記述が出てきています。多感な青春期の遊び仲間です。青春期の遊び仲間は、裏表が無く性格や気性や考え方が仲間にはすべて丸分かりです。これを気心が通じるといいますが、二代将軍を筆頭に、鎌倉幕府の有力者の子息達です。北条時房は、時政の子、兄が北条泰時です。当然政局の話も常に出てきており、各々の見解も仲間には筒抜けでしょうし、甲斐源氏の武田。小笠原が何を考えているのかも伝わっていただろうと思います。
こう考えると、北条時政が、息子・時房を通じて情報を得ていたことは確かだろうけれど、時政・政子の比企氏謀殺は、かなり勢力争いの意味が濃いと思えて、小笠原長経は巻き込まれて、形式的な処分をせざるを得なかったのだろうと推察できます。
して、処分の実態・実際は、この時には「伊賀良荘」が尊勝寺領から時政の手に移っており、ここの経営を任せたのではないかと。勿論「伊賀良荘」の所有は北条時政のままですから、役職は定かではありませんが、”地頭代(代官)”かと思われます。

そんなこんなで、小笠原長径は公的な場から隠棲を余儀なくされます。もちろん形式的とはいえ幕府の処分対象ですから、嫡流を外されてしまいます。ここで、小笠原長清を継ぐ小笠原家宗家は、伴野(小笠原)時長(六男)になるわけです。
長径の隠棲の場所は、長径の嫡子・長忠が伊那・松尾で生まれたことから伊賀良庄が俄然有力になってきます。
いよいよ、松尾小笠原家・・信濃・伊那・松尾に長径が足跡を残します。

その根拠のなったのが、小笠原長忠:長径の次男:松尾長忠(又次郎)のこと。長忠の生没(1202-1264)・・小笠原家家譜より。
小笠原長径の次男が長忠で、長忠は伊那・松尾で生まれた、と小笠原家譜に記してあります。
小笠原長径は、二代将軍・源頼家に近習として仕えて、比企の乱(1203)に巻き込まれて、所領没収の上追放とあります。長径の子・長忠の生誕が建仁二(1202)年、比企の乱が建仁三(1203)年、長径の追放が建仁三(1203)年。建仁二(1202)年は、辻褄として普通に考えれば鎌倉在住のはずです。小笠原長径の追放前後と長径の子・長忠の生誕前後が交錯します。どのように読み解けばいいのでしょうか。

ここで、二つの視座で眺めてみようと思います。
まず、当時の政治情勢・
「比企の乱」が起こった原因は、鎌倉幕府において、頼朝の乳母・比企尼一族が外戚となって勢力を拡大していた時期で、北条時政・政子らの北条一族は、勢力の相対的低下があり、勢力挽回で焦りがあったことが確認されています。北条一族の勢力基盤は、この時点では磐石ではなかった。次に、甲斐源氏の武田・小笠原一族は、北条一族に対しては独立気運が高く若干距離を置いていたといわれています。ここで注目すべきは、同じ二代将軍・源頼家の近習・中野能成の処分の仕方の実像です。「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」が、北条時政の実際の処遇の仕方です。
これを類推すれば、小笠原長径も同様の処遇の仕方が考えられます。つまり・形式的には、長径は所領没収の上追放ですが、所領を与えられて(安堵されて)いた、と考えられるのです。北条時政は、甲斐源氏を敵方へ追いやりたくはなかったとも考えられます。
次に鎌倉時代の奉仕のかたち・
平安時代の朝廷とか政権への奉仕の年数は三年が普通でした。しかし三年じぶんの領国を離れていると、力ある豪族が留守を狙って、領国を略奪する例が頻発します。そこで頼朝は、鎌倉幕府へ奉公する期間を半年にしました。鎌倉幕府の御家人は、半年は領国で過ごせるようになったわけです。この制度から考えると、いくら近習とはいえ、じぶんの領国へ戻れる余裕はあったと考えるのが合理的です。こう考えると、長径、長忠親子の追放と生誕の交差する期間の複雑さは解けます。

当時の、南信濃の荘園の統治形態はどのようだったのでしょうか?
平安末期、南信濃の荘園は、「伊賀良荘」、「伴野荘」、「江儀遠山荘」、「麻績荘」が、文献的に確認できるそうです。(このうち、「江儀遠山荘」、「麻績荘」は本文の目的から反れますので外します。「麻績荘」は、犀川沿いにもあるので紛らわしい)
「伊賀良荘」は、平安末期まで尊勝寺領となっているのが見えます。保延年間の文字が見えるので1136年から数年のこと、鎌倉幕府成立の50年余前の話です。その後「治承・寿永の乱」で頼朝が挙兵し平家を破って鎌倉幕府が成立します。尊勝寺領の「伊賀良荘」は、鎌倉幕府成立の時点で北条時政の所有の荘園に変わっています。「伊賀良荘」地頭が北条時政ということになります。正確な日付を指す文献が残っていませんが、以後「伊賀良荘」地頭が北条時政であるという証拠は揃っているようです。
「伴野荘」は、どのような統治形態だったのでしょうか。
・・・「吾妻鑑」文治二(1186)年十月二十九日の条には、信濃国伴野庄地頭として長清の名がみえている。・・・小笠原長清のことです。
「治承・寿永の乱」に頼朝に与して戦功をあげた小笠原長清への論功行賞と考えてよさそうです。
ここで問題なのは、伊那に”伴野”があり、佐久にも”伴野”があり、どちらだろうか、ということです。佐久の”伴野”は、「承久の乱」の論功行賞で小笠原時長に与えられていますから、もともとの小笠原家知行の地を褒賞されるのも変な話です。その後に起きる「承久の乱」の時、伊那谷の豪族を糾合して東山道を進軍していった事実とその後に南信濃が小笠原家の拠点になった事実をつなぎ合わせ、さらに小笠原長径が伊那・松尾に住んだ事実から、すべて文献の裏づけなしの状況証拠ですが、小笠原長清が伊那・”伴野荘”の地頭だったと考える方が、すべてに整合性があります。
そして、中世,赴任しない地頭の代わりに在地にいて実務を担当した者。一族や郎党の者が任命された。これを地頭代(官)と呼んだようですが、北条時政は、小笠原長径に”伊賀良荘」の地頭代をやらせたのではないかというのが推論です。・・・状況証拠の繋ぎあわせなので断定はしませんが、そうとでも考えなければ、松尾に小笠原長径は出現しませんし、松尾小笠原家が成立しなければ、松尾長忠(小笠原長忠)はないわけで、中興の祖の小笠原貞宗の存在も危うくなります。


松尾小笠原宗家の創立まで   第二話

2016-01-06 10:36:51 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで 第二話

話が、少し先へ飛びます。
承久の乱・東山道軍

さて、承久の乱の東山道軍の大将は武田信光と小笠原長清が任命されています。この戦の道順に、武田信光は甲斐の鎌倉御家人と諏訪家が合流して東山道本道を木曽へ抜けて岐阜へ、小笠原長清は伊賀良に痕跡があることから伊那道を経て、御坂峠越えで岐阜へ、岐阜あたりで武田軍と合流したのではないかと思われます。伊那道の小笠原軍は、途中で中澤氏、片桐氏、知久氏などを幕府軍として糾合しています。ここで始めて、小笠原家と南信濃がつながります。伊賀良は伊那道と東山道をつなぐ拠点で、ここで待って、続々と幕府軍に参加してくる伊那谷の御家人武士の大軍をまとめ上げたのではないかと思われます。長清寺あるいは長石寺(時又)は、そのときの戦勝祈願寺で、のちに子孫の丸毛氏が整備するまでは、そんなに立派でなかったのだろうとも思います。

まず嫡子(六男):伴野時長:生没年不詳。

長径のほうは生没年(1179-1247)と見えていますが、伴野時長の生没はわかりません。何故、六男が正嫡なのかは不思議ですが長清の正妻が幕府の有力者の娘なら頷けます。そして政変によって家系を失い、小笠原家の家系からも抹消されたのなら、時長の母が不詳とされている意味が解けてきます。時長は鎌倉か小笠原郷で生まれ、元服まもなく嫡男と認められたのだろうと思われます。・・・長清の正妻:上総広常の娘が母親だろうと推定。長清が頼朝挙兵から幕府軍に参加して戦功があったことから有力御家人となり、正嫡の時長は早くから鎌倉幕府に出仕していて儀礼儀式に参加しています。
承久の乱(1221)のとき、小笠原長清は大将の一人として東山道軍の旗頭となった。この時子息八人は、父とともに参軍している。時長は、この時の戦功で幕府軍の反対勢力の大内氏の領土・佐久伴野庄を引き継ぎ、伴野時長と名乗るようになります。幕府も、伴野時長を小笠原長清の宗家として認めています。弓に優れ将軍の側近の一人であったが、やがて婚姻関係にあった安達氏がかかわる霜月騒動(1285)に連座して没落。伴野時長から三代後・伴野長泰のときのことです。承久の乱前に信濃に痕跡がなし、承久の乱後の霜月騒動で没落。

大井朝光(長清の七男):信濃国大井氏の祖
建久九年(1198)、小笠原長清の七男。母は上総権介平広常の娘。
長清の妹・大弐局は源頼朝の側女、兼実朝の養育係であった。大弐局は子がなかったので甥の大井朝光を養子とし、出羽・由利郡の所領を継承した。以後、由利郡には大井氏一族が地頭代なり仁賀保氏、矢島氏などの祖となった。
承久元年(1219)正月、実朝が鶴岡八幡宮に拝賀参詣した時、道中の随兵(実朝は公暁に暗殺された)。承久三年(1221)朝光は承久の乱で小笠原長清父子らと甲斐・信濃の軍勢五万を率いて東山道より上洛し、宇治川の合戦で功を挙げ、その功により大井庄を賜ったとされる。小笠原長清から引き継いで大井庄地頭となった朝光は岩村田郷に大井城を築いた。承久の乱後、長清が阿波国守護になったのを契機に阿波へ移り、その嫡流がそのまま長経、長房と続いた。佐久地方は、長経の弟時長が伴野荘で、朝光が大井荘で勢力を伸ばし分立した。承久の乱前に信濃・佐久にに痕跡なし、承久の乱後の霜月騒動の後も一族延命。系流が大弐局の流れと言うこともありそうです。

小笠原長径:小笠原長清の長男

小笠原長径の生誕に関して興味深い内容が『続群書類従』に記載されています。
長経について治承三年(1179)五月に山城国六波羅館で生まれたと記し、その二男に清経をおいて「或六波羅二郎。赤沢山城守受譲。」・・『続群書類従』巻124・「小笠原系図」。

この文献が真実として解読すると、小笠原長清が17歳の時の子ということになります。小笠原長清は元服を終えて京都の行き、平知盛に仕えたとされていますが、長清の子・長径は山城・六波羅館で出生とあります。
そして次男は清径・・小笠原家庶流・赤沢家の誕生もここに見えてきます。赤沢家は現在にも命脈を繋げる家系ですから、かなり説得力があります。ただ、赤沢家が小笠原家庶流であることは確かだろうけれそ、系図には、長径の子となっているものもあり、複雑です。長径の母については、藤原邦綱の娘?の記述があることから、頼朝の敵であった平清盛一族の係累が考えられます。藤原邦綱は、四人の娘を六条・高倉・安徳の三天皇及び高倉天皇中宮・平徳子の乳母とし、豊かな財力を活用してその養育に力を尽くしています。平家と親密な関係を深めて、白河殿盛子(関白・近衛基実室)の後見をつとめたが、仁安元年(1166)に基実が没すると多くの摂関家領を盛子に相続させています。この背景を考えると、長径が母の出自を曖昧にしたのは、母方が鎌倉幕府の敵方であったためからかも知れません。弟・赤沢清経は「六波羅二郎。赤沢山城守受譲」とありますが、普通に読めば、承久の乱の時の恩賞ですが、まだ確かめていません。
六波羅探題は、京都の治安部署であり、六波羅館は六波羅探題に勤める武人の館・宿泊所という意味であります。山城・六波羅館の所在の地が比定できません。なぜ京都ではなくて山城なのかも解けません。山城(滋賀県)が初期小笠原家と関係が深かっただろうことだけは垣間見られます。

長径は元服して、山城・六波羅舘から長清のもとへ戻り、鎌倉府に将軍・源頼家の近習として仕えて、比企の乱(1203)に巻き込まれます。小笠原長径は25歳、父・長清は42歳のことであります。


松尾小笠原宗家の創立まで

2016-01-04 14:08:19 | 歴史

保科家、伊奈家(荒川家)と探ってきましたが、力不足で探求が頓挫しています。

この間、周辺の歴史も見てきましたが、松尾小笠原家の小笠原定基がかなり興味深い人物のようです。松尾小笠原家は、府中小笠原長棟に敗れたこともあり、地元ではあまり人気がありません。郷土史家の探求も、ここには眼が向いていないらしく、あまり面白い研究書もなく、・・では自分が、・・という気になっています。

まず、松尾・小笠原家の成立のあたりから、・・・・・

 

松尾小笠原宗家の創立まで

松尾小笠原宗家の源流を探って見ます。
室町時代に信濃守護を歴任した小笠原家は、甲斐に出自を持つといわれています。甲斐は、武田家の地、小笠原家は武田と同根の同族であり、源氏の流れをくんだ氏族であったわけです。
「源氏の流れ」とは、清和源氏義光流となっています。

小笠原家の祖・小笠原長清

つまり、平安時代に、京都の朝廷から関東平定のため派遣された武官・源義光を祖として関東各地に子孫が定着していった中で、甲斐に定着した流派の一つが、まず武田で、その三代後に、武田家から分流したのが”加賀美遠光”であり、その正嫡が甲斐国巨摩郡小笠原郷・小笠原牧に住んで、小笠原を名乗り、その正嫡の名が”長清”です。小笠原長清が、小笠原家の祖になるわけです。

その小笠原長清の生涯を追ってみます

生まれたのは、応保二(1162)年、父は加賀美遠光で次男、母は杉本義宗の娘。杉本義宗は三浦一族で桓武平氏良文流。・・「母は和田義盛の女、小笠原氏を称し、小笠原二郎と号す」という別説がありますが、和田義盛(1147-1123)の年齢を考えると、むしろこちらは長清の妻、伴野時長の母、と考える方が妥当です。いずれにしても、三浦一族とともに、頼朝挙兵に呼応したようです。出生の地は詳らかではないが、父・遠光の所領の甲斐国巨摩郡小笠原郷が推定されます。元服を過ぎて京都に出仕し、兄・秋山光朝とともに平知盛の被官。長清・19歳のときに、1181年に源頼朝の挙兵に応じるべく、母の病気を理由に平知盛を退官して頼朝に参じたとされています。
その後、源頼朝の軍にあって治承・寿永の乱において戦功を重ね、父と同じ信濃守に任じられています。信濃守の役割はよく見えてきません。
長清・26歳のとき、鎌倉幕府が成立するとすぐに、鎌倉府に出仕して御家人になっています。弓馬に長けた長清は、海野幸氏・望月重隆・武田信光と並んで「弓馬四天王」と称されていました。
ここまでは、信濃守の官名はあるものの信濃国とのつながりはまだ見えてきません。

小笠原長清の子供たち

実に子沢山であります。到底、同じ母の子供であるとは思えません。
長清の生涯を尋ねると、まず元服を過ぎると京都へ出仕します。長男・長径の出生が、山城・六波羅館となっているのから憶測すると、京都か山城に現地妻がいたようです。山城・六波羅館で生まれたのが長径と清径ということになります。鎌倉幕府に仕えてから生まれたのが八代長光、小田清家、伴野時長、大井朝光、伴野教意、伴野為長、大井行長、鳴海清時、大蔵清家、大倉長隆、八代長文、伴野行正、大倉行信、伴野行意、他ということですが、母親が特定できません。
承久元(1219)年に参軍した長清の八人の子息は誰でしょうか。
まず、戦功で褒美をもらっているのなら、確定できそうです。・小笠原長径(長男)、・赤沢清径(次男)、・伴野時長(六男)、・太井朝光(七男) この四人は確定です。他に承久の時代に、元服を終えていた可能性があるのが、・小田清家(三男)、・八代(四郎)長光、の二人になります。しかし以後の文献に出てきません。他の子供は戦死した可能性があります。太井(七郎)朝光は、生没(1198-1125)の年代が明らかにされています。

*この時代の”元服”(成人)は15才前後と比定され、今の小六から中一の年代となります。例外としては、北条時行のように、繰上げ元服されて、幼児・小一の頃の6,7歳で元服するものもありました。これは明らかに政治的意図があったと思います。
*調べてみても、五男、八男は名前すらわかりません。承久の乱で、戦死した可能性があります。

小笠原長清とその子孫は、この承久の乱挙兵の過程とその戦功の褒賞によって、信濃国と関係を持つようになります。

 


秋葉街道、不思議のもとを辿る

2015-12-23 15:44:47 | 歴史

秋葉街道、不思議のもとを辿る 雑記
                  ・・・ かなり緩い「秋葉街道」の話

秋葉街道
近世、「秋葉街道」という道が注目を浴びております。
この「秋葉街道」という名称には、いささかの不思議があります。「秋葉街道」の名称自体が古代から戦国期までの記録には存在していないのです。
あの武田信玄が、青崩峠(兵ごえ峠)を超えて徳川領の浜松に攻め入った「三方が原の戦い」の時の青崩峠は秋葉街道一の難所ですが、道筋は獣道であり、その頃「秋葉道」と呼んだかどうかは定かではなかったみたいです。
そんなことを考えると、どうやら秋葉道の名称はともかく、往来はどうも戦国の後の頃からではないかと推定されます。

秋葉街道は信仰の道?
秋葉街道を、赤石山脈のガレ場の峠・青崩峠を越えて下っていくと、暫くして秋葉山・秋葉神社が脇の方にあります。秋葉神社は「火伏せの神」の総本社で、大火事にあった人などが信仰する防火の守りの神様です。それは、そのとうりなのですが、伊那の人達の信仰に、秋葉信仰というものがほとんど見られません。要するに、伊那から秋葉神社への参詣の事実があったかどうかは、どうも得心がいかないのです。中には希で、道中の道すがらに参詣したという事実は否定しませんが、「希の度合い」にも依りますが、参詣の道と言うほどのものでは無いように思えてなりません。

秋葉神社

秋葉古道
街道の名称はともかくとして、獣道に近い街道が、この青崩峠を越して存在していたのは、どうも事実のようです。信州・伊那谷と遠州を繋ぐこの古道は難所だらけで、相当の健脚を必要としています。したがって必要最低限の場合に限り、限られた人達の往来であったことが窺い知れます。
限られた必要ぬ迫られた人達とは、どんな人でしょうか。猟師た木樵たちは通行したのは事実でしょうが、そんなに行動範囲を広げないと思われます。それは、やはり海産物と塩を扱う商人だろうと思われます。遠州灘の魚などの海産物と当時沿岸では自家生産が盛んだった塩を、行商として、伊那に運んだのだろうと思われます。
塩の道のメインが三州街道であったにしても、冬の長い信州の食料には、長期保存に必要な塩は、貴重なものだったに違いはありません。
この往来の活性化は、戦国時代以降だったと思われます。この時代に、この街道の一部が秋葉街道という呼称で呼ばれるようになった。秋葉街道の呼称は、この街道筋で一番有名だったのが秋葉神社であり、秋葉山だったということから以外には、理由は見つかりません。

宗良親王の道?
南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・宗良親王は南朝の東日本のリーダーとして活躍しました。
多くの南朝支持の豪族の中で、浜松の浜名湖の奧・井伊谷の井伊家と大鹿・大河原の香阪家は、宗良親王の熱烈な守護者として有名です。この浜松・井伊谷と大鹿・大河原は、この街道を通じるとかなり近くになります。地図を見ての目測ですから正確ではないがおよそ100Km前後。難所は多いが距離は近いという関係になります。もしや、直線的に、宗良親王はこの道を通ったのではないかという憶測の文章をみかけますが文献的な裏付けがまったく発見できません。おそらく通ってないだろうと思われます。この頃、秋葉道は、獣道としてしか認識されていなかったのではないかと思われます。

秋葉街道の原点 国道256号線
今でこそ、秋葉街道は、国道152号線の代替名称として定着していますが、本来の秋葉街道は、飯田からで、三州街道と遠州街道が分岐し、さらに遠州街道が、島田・鳩が峯八幡宮で秋葉街道を分岐します。街道の冠にする地名は、地元では目的地を指していると言われます。
この鳩が岡八幡宮は、室町時代の創建と聞きます。さらにこの地で信濃守護を歴任した小笠原家の戦勝祈願神社だったと聞きます。松尾小笠原家の本貫の拠点でもあったわけで、居館は、秋葉街道を鳩が峯八幡宮から少し下った小学校(松尾小学校)の秋葉街道を挟んだ反対側だろうと推定されています。ちなみに現在の地籍は、いみじくも飯田市松尾・城となっています。ここは、小笠原家内訌で、鈴岡・小笠原家や府中・小笠原家と争った松尾小笠原家の松尾城ではありません。小笠原の松尾居館は、小笠原貞宗や長忠や宗康や光康が生まれた所だと確認されています。松尾城は、三家内訌の時の松尾小笠原家の松尾城は光康か家長の頃新らしく城を造り、城郭へ移ったのだろうとされています。

鳩が峯八幡神社

小川路峠・秋葉古道
この秋葉街道は、天竜川を渡ると山を登っていき、知久氏と武田信玄が戦った神之峰城辺りから左に折れて喬木・小川路へ向かいます。今では小川路の峠を徒歩で越えるのではなく、大分迂回して国道152号線に繋がる自動車の通れる道もあるのですが、この道筋の住民はすべからく昔から、小川路峠越えの道を”秋葉街道”と呼んでいます。小川路峠越えの道は、昔の古道の雰囲気を残していますが、今では整備された山歩きのハイキングコースになっています。

この(本家)秋葉街道の宿場は、かって八幡、越久保、上村、和田とつなぎ、青崩峠を経て秋葉に向かいました。峠は難所で、小川路峠、青崩峠になります。上村と和田はかって遠山郷といわれ、江戸時代遠山藩の領地でした。この地は、古式神式の祭、神楽霜月祭(神楽の原型)がいまだ行われており、現代人を惹き付けるらしく、「ジブリ」というアニメ集団の「千と千尋の神隠し」のモチーフが生まれた場所としても注目されています。

秋葉街道・小川路峠

 

二つの秋葉街道?

この小川路峠を抜けて152号線に出る辺りは、「しらびそ高原」として今売り出し中の「高原キャンプ場」です。秋葉街道は、大鹿・大河原方面ではなく、下栗の「天空の里」の方へ、そこから青崩峠に向かいます。
どうも、地元の古老達の話をつなぐと、鳩が岡八幡宮から小川路峠を経て、152号に合流し、下栗・和田・青崩峠を超えて遠州・秋葉山沿いに浜松に抜ける道が本来の秋葉道のようです。国道256号とか国道152号とかの番号では味気なく、地元のこの街道の愛称が「秋葉街道」のようです。
杖突街道(R152)の古を訪ねると諏訪大社と大鹿・大河原までが本道で地蔵峠で山間道になり、いったん途絶えたかのようになります。大河原と諏訪は諏訪大社の神域でもあり、政治的というか諏訪神党の結びつきもあり、文献的にもかなり頻繁に登場しますが、遠山藩成立以降に、遠山と大鹿の交流がようやく確認されるところをみると、杖突街道は遠山郷に素直につながっていたかどうかは、疑いの余地がありそうです。現在も、近在の商業地かつ地方自治の拠点の飯田までは、大鹿・大河原は、中川、生田などを通って松川町に通じ、遠山・和田は平岡経由のルートが最も一般的です。そう考えると、近世になって杖突街道が整備・延長されて秋葉街道につながり、上村・上町から青崩までも整備されて国道152号になった。合流点にある上村・上町にすむ旧家の古老は、この部分の経緯が最も詳しいと思われます。ですから、国道152号線も一部は秋葉街道だったわけですが、いつの間にか国道152線が全区間「秋葉街道」と呼ばれるようになり、それが当たり前のようになったわけです。
名前の由来には、軒先を貸したら、母屋を乗っ取られた・感があります。

秋葉街道・小川路

秋葉街道・下栗 チロルの里


車が通行できない二つの国道
さて、国道256号(本家・秋葉街道)ですが、小川路峠の手前で突然地図上で消えてしまっています。つまり本来の秋葉街道は、徒歩で小川路峠を越しなさいと言うことのようです。実際の車のルートは、迂回して、飯田から弁天橋で天竜川を渡り152号に繋がる道に出ることが出来ます。
また、国道152号は、かって大鹿から和田へ向かう途中の地蔵峠で車は通行止めになっていたが、最近はこの区間は車の通行が可能となったようです。しかし、青崩峠は車の通行は不可能で、ここも迂回して近くの「兵ごえ峠」で静岡側へ抜けることが出来ます。この「兵ごえ峠」は信玄が、家康との戦・「三方ヶ原の戦い」で通過した道にちなんで付けられた峠の名前で、地元の人が名付けたそうです。

青崩峠

兵ごえ峠 

 

三遠南信自動車道
この青崩峠付近は、日本のチロルと呼ばれる風光明媚だが道路事情が悪い地区としても有名ですが、信州・遠州(浜松)・三州(三河)の境界線地帯。家康の松平家の発祥の地域でもあるそうです・・奥三河。ここを、今までの道路事情を一変させる「三遠南信自動車道」という高規格道路が計画され、着々と全線開通に向けて工事が進んでいるらしい・・一部開通済み。*高規格道路・地域高規格道路は2車線以上の車線を確保し、自動車専用道路もしくはこれと同等の高い規格を有し60km/h以上の高速サービスを提供できる道路。

本来は・・
個人的には、国道152線は、「杖突街道」とか「諏訪の奥道」とか、または「分杭街道」とかの名前の方がも味があり、歴史を伝えるように思えます。高遠辺りの住民や大鹿辺りの住民が、秋葉山や秋葉神社へ参詣に行ったとは、到底思えません。また、秋葉の地名に愛情を感じているとも思えません。何となく違和感を感じながら、そう言うのならそうでもいいか、ぐらいの感覚かな・・そのくらい昔は、この街道に存在感が感じられなかったようです。

*使用した写真は、地方自治体の案内文・カタログなどから転用させていただきました。


伊那の工藤氏について

2015-11-05 04:21:51 | 歴史

伊那の工藤氏について

「伊那の工藤氏は、保科正俊や高遠頼継に仕えていたと思いますか。」
この様な質問を受けました。これについて、自分なりの考えを記します。


伊那春近領における犬房丸の伝説  (クイックして下さい)

‘←’で、このブログに戻ります

これを読む限りに置いて、犬房丸の直流か傍流かが伊那に住み着いたのは確かだろうと思います。しかし、各地に残る犬房丸伝承と比べて断定できるほどの資料が揃っているとは思われません。

ここで確認出来ることは、伊那・春近・小出に工藤一族が住んでいた、ただし名前は工藤氏とは限らない、と言うことです。
この春近・小出を領有した豪族は、高遠・諏訪頼継とその先達、また藤沢頼親が確認出来ます。この事実を踏まえると、鎌倉時代は工藤一族は池上弥三郎(入道)に仕えた。この池上は在郷の春近荘の荘官で役職は検校であると記録に残ります。室町時代は小出・工藤一族は藤沢頼親の配下とか高遠・諏訪頼継あるいは高遠・諏訪継宗の配下であった可能性は高い、と思われます。この事実からは一次的想定の範囲に留めるべきで、それ以上想定を広げることは危険です。そう考えると、保科正俊との関係は、同僚か知己の範囲とするのが妥当でしょう。

次ぎに、「工藤虎豊の末裔の工藤祐長・祐元兄弟」と伊那・小出の工藤家の関係は、繋げる資料は出てきていません。
諏訪郡代・板垣信友が工藤兄弟を発見し、武田家への帰参を段取りして信玄の了解を取った、と言うことだけが記録に残っているわけで、工藤家と保科家の親密な関係を照らして憶測すれば、諏訪郡代・板垣信友の郡代統治のテリトリーの範囲にいた、と考えるのが常識的で、無理のない合理的な筋道だろうと考えたわけです。板垣が、当時まだ不安定な諏訪地方を留守にして、伊豆地方に工藤兄弟を捜しに時間を割いたとする方が無理筋だろうと思われます。これも断定できる資料はありません。他説では、武田信虎に追われた工藤一族は、伊豆の伊勢宗瑞のもとへ訪れた記録が残ります。伊勢宗瑞は北条早雲のことで、そこには工藤一族が宗瑞の家臣になったとか伊豆に永住したという記録はありませんから、諏訪・伊那北部に隠棲していた可能性とは矛盾しません。

上記は、既に書いたことですが、まだ書いてない事実・・・
諏訪頼継の高遠城、藤沢頼親の福与城が陥落して、信玄が諏訪・上伊那を攻略したのが1546年、この年から保科正俊と工藤兄弟は信玄に仕えます。2年後の1548年に、塩尻峠の戦いで、信玄は信濃守護・小笠原長時を打ち破ります。この負け方は異常で、本来守護側に付くべき塩嶺の地理に詳しいもの達の裏切りが相当確認されます。
注目は1550年、信玄が更に府中(現在の松本)に攻め込むと、小笠原長時以下の小笠原勢はあまり戦わずして自落する城が多かったようです。長時は、松尾へ逃避していきます。
信玄は、府中(この時点あたりから府中は松本と呼ばれるようになったようです)の統治に、林城ではなく深志城(=松本城)を選び、その城修復の役を、工藤祐長にさせます。→内藤昌豊の名前は、次の戦いの功績で、甲斐の名門・内藤家の名跡を信玄から嗣ぐように命じられたようです。
1550年は、内藤昌月(←保科千次郎)の生まれた年です。
工藤祐長の深志城修復を保科正俊は手伝ったのではないかと言われています。
そして、府中・松本の近く、明科・熊倉は、荒川易氏の次男・保科易正の兄が養子に行った先という説が存在します。更に明科の隣の生坂は、保科正俊の娘の嫁ぎ先・大日方源太左衛門直幸の居城があります。

工藤祐長→内藤昌豊の信玄の直参時代の本貫地はよく分からないのですが、・・・
内藤昌豊の父・工藤虎豊以前の工藤家は、本貫を巨摩郡・西郡とし大草郷までを領有した、という記録が残ります。甲斐の地理には詳しくないのですが、どうも富士川の西域で釜無川当たりかと当たりをつけています。それで甲斐国の中に、大草郷を探したがどうしても見つからない。
範囲を広げると、すずらんの入笠高原を登り、芝平峠から山室川を下れば高遠だが、そのまま牧場を東へ迂回すれば長谷・市野瀬へ出る。ここから直ぐの分杭峠を越すとそこが大草郷(中川村)になる。この間は、そんなに近くはないが遠くでもない。県を跨いで、山梨県と長野県なので違和感はあるが、先述の文章と繋がります。この大草の隣の豊丘村の林と云う所にも工藤家伝承が残っていて、一族は林から春近にも流れたとも言われています。
この入笠・芝平・市野瀬・大草の道は、南朝・宗良親王の道といわれ、中世は案外通行量が多かったのかも知れません。
ここでも、藤沢・山室・芝平辺りの代官だった保科家と大草郷の工藤家と繋がりがあるのかも知れません。

内藤昌豊の人物像を考えてみるとどうしても戦国武将にありがちな戦闘能力に長けた”武闘派”のイメージは浮かび上がってきません。主に甲陽軍艦からの伝承でしょうが、1:深志城の修復、2:小荷駄奉行の業績、3:上野・国峰城攻撃の味方の無損傷の勝利などは、内藤昌豊の能力の方向性を示していると思われます。四大名臣として信玄に愛された昌豊の能力は、”知性派”とか‘内務官僚”的な要素からだったからではないかと思われます。「思慮深く温厚で、ぜ子細よりも全体を見て、知略」をもっていたとされ、「個人の戦いは、味方を苦戦に陥れるだけ」とう哲学を持っていたとされています。「内藤昌豊は毎時相整う真の副将である」という評価は、信玄の臣下の仲間達からの評価でもあり、人望も厚く、「人衆を扱うことでは武田家無双の侍大将」とも言われています。

以上は、武田信玄の家臣時代の内藤昌豊の人物像ですが、ここから信玄の家臣になる以前の工藤祐長の姿が多少憶測できそうです。1:は武芸訓練を受けていない。2:は戦略性に長けているのは、中国故事の知識を有していそうだ。論語などを読みこなす教育を受けていた可能性がある。3:は育った環境が民衆とともにあった。・・・そう考えると、育った環境は、仏門や神官の周辺が思いやられるのですが・・・これも断定できる資料はありません。


荒川城の荒川氏

2015-08-09 23:41:56 | 歴史

荒川城の荒川氏

三河国、今の西尾市八ツ面山の八ツ面城は”荒川城”ともいう。この荒川城を拠点とした氏族に”荒川氏”がある。この‘荒川氏’は、西尾市の資料に依れば、”前期荒川氏”と”後期荒川氏”に分かれるという。この前期と後期を繋ぐ”荒川氏”は、遠い姻戚の関係は示されるものの、直接的な関係はないそうだ。
つまり、後期荒川氏とは、西条吉良氏の分流の東条吉良氏・義弘(=義広とも)が”独立して荒川城に住み、荒川義広を名乗ってから”後期荒川氏”と呼ばれるようになった。時代は、家康の三河時代初期で、三河に”三河一向一揆”が起こった、まさにその時代であった。荒川義広は、三河一向一揆の旗頭の一人として、家康に対峙して、そして敗れたのである。
この項は、荒川義広が、名跡”荒川家”を継いだ、その元の方の”前期荒川家”のことである。

◇【荒川家の起源】八ツ面町がルーツの足利一門
○荒川氏のルーツですが、尊卑分脈の系図から、足利義兼の孫・戸賀崎義宗の子・荒川満氏に始まりました。足利一門の最も末流に属するとの見方もありましたが、少なくとも室町時代には「御当家の累葉」「当流の累葉」として足利一門と認識されていました。戸賀崎氏の起源は三河国戸ヶ崎村(西尾市戸ヶ崎町)、荒川氏は三河国荒河村(同市八ツ面町)です。荒河村は戸ヶ崎村に隣接しています。戸賀崎義宗が他所から三河国に来た契機は分かりませんが、源氏にルーツを持つ足利惣領家の足利義氏が三河国守護に任じられたこととの関係が指摘されています。鎌倉時代の荒川氏の動向は史料不足で不明です。

◇荒川氏の系図
○荒川氏が史料(太平記)に現れるのは、足利惣領家の尊氏が挙兵した時です。荒川氏は元弘三年(1333)、吉良・上杉・仁木・細川・今川ら足利家の一族らと共に尊氏上洛の随行衆でした。その後、足利家の与党で、建武二年(1335)の箱根竹の下合戦、同三年(1336)年6月の比叡山攻撃、7月の洛中合戦に参加。12月の越前金ヶ崎城攻撃では、丹後衆800騎を率いる大将軍として、荒川満氏の曾孫である「荒川参川守(詮頼)」が登場。同四年(1337)の数カ月間ですが、詮頼は丹後国守護職にあり、この時期に荒川氏の守る丹後国与謝郡(京都府宮津市)の成相寺城を祇園前執行顕詮の防人が攻撃したことが分かっています。
○詮頼の父「荒川三河三郎(頼直)」は元弘・建武年中、仏名院領である摂津国有馬郡野鞍庄(兵庫県三田市)を「恩賞地として宛行われた」と称して押領したことが分かっています。足利方としての軍事行動の一環とみられています。その後、足利直義(尊氏の弟)と高師直の対立が激しくなると、荒川氏は直義党になったとみられ、尊氏・忠吉兄弟が三条の館で高師直の軍勢に包囲された貞和五年(1349)8月、直義方として参上した武将の中に「荒川三河守詮頼」の名があります。そして尊氏と直義が争う観応の擾乱でも、荒川氏は直義方に味方しました。名字の地である荒川村がある吉良荘を支配していた吉良氏と行動を共にしたのでしょうか。

◇【荒川氏守護職】尊氏に帰属して栄進
○「荒川三河入道」が観応二年(1351)9月に直義党として、石堂入道と共に伊勢国から近江国に軍勢を北上させること(太平記)、直義が「荒川三河三郎入道成円」に属して戦うよう、美濃国住人鷲見保憲に命じる軍勢催促状(同年8月)を下したこと(長善寺文書)、同じく「荒川三河三郎入道」に属して相模国箱根路の警固に行くよう、彦部四郎光春に命じる軍勢催促状(同年12月)を下したこと(彦部文書)―が確認されています。頼直がこのころまでに三河三郎入道成円と号したようです。しかし、尊氏の子・義詮が文和元年(1353)11月、石見国の敵を討伐するため「荒川遠江守詮頼」を派遣することを、周布兼氏に知らせていますので、荒川氏は擾乱後、尊氏方に帰属したと考えられています。
○荒川詮頼の石見国派遣は、殺害された高師直の跡を受けて、石見国守護職に補任されたものです。在任は14年余。貞治四年(1365)正月頃まで活動の形跡があり、残っている文書の大部分が感状や軍勢催促状、軍忠注進状など軍事関係文書であるため、詮頼には軍事指導者としての役割が期待されており、在任期間はもっぱら九州から中国地方に転進した足利直冬党(反尊氏派)の討伐に費やされました。直冬が文和三年(1354)5月に上洛を目指して石見国を進発すると、「荒川三河三郎(詮頼の子・詮長)」が詮頼と共に湯野郷に城郭を構えて直冬の進路をふさぎますが、10月には直冬の上洛を許してしまいます。直義党に対する荒川父子の軍事的制圧は不成功。
○直冬が室町幕府に屈服し、石見国に隠棲するのは、直冬を応援していた大内弘世・山名時氏が幕府に帰順した貞治二年(1363)。守護在任中に従五位下遠江守となった詮頼は同年正月、弾正少弼に任じられ、その後、守護を解任されて京都に移ったもようです。詮頼は在京中、管領細川頼之に石見国守護職復帰を働きかけて成功。幕府と対立した大内弘世に替わって貞治六年(1376)年、詮頼が再び石見国守護職に補任。詮頼はこの時出家しており、「荒川入道道恵」と名乗っていました。同年閏7月に石見国へ下向し、君谷氏や井尻氏など国人領主層の懐柔を通じて分国掌握に務めましたが、4年後の康暦元年(1379)、細川頼之が失脚する「康暦の政変」に連座し、石見守護職を罷免されました。詮頼は史料から消え、没年も不明。これ以降、荒川氏が守護職として復帰することはなかった。

戦国の荒波に消えた“前期荒川氏”・(饗庭ひな)
“前期荒川氏”はどうも将軍権力の近くにあったようです。
荒川氏は、戦国の荒波にもまれていきます。荒川氏が所属した室町幕府奉公衆は、明応の政変後に事実上崩壊し、同時代史料への荒川氏の登場が極端に減ります。
奉公衆の名簿史料をみると荒川氏は、明応二年(1493)から大永年間(1521~28)まで30年余りの空白があります。
今回はその空白を埋める別の史料から見る荒川氏の活動と、さらにその後の織田信長や武田晴信とも関わる荒川氏を見ていきたいと思います。

◇【宮内少輔家】将軍義稙―義維派に
○空白を埋める史料の一つが「東寺百合文書」にある「荒川三河守尹宗書状」です。
明応の政変で将軍職を追われた義尹(=後の義稙)が入洛する永正五年(1508)6月以降。荒川尹宗(ただむね)の人物像を探っていくと、「尹」は将軍義尹の偏諱であり、「宗」は「荒川宮内少輔政宗」と通字になっているため、三家に分かれた荒川氏のうち宮内少輔家の人物(政宗の子か)か。この分析は、偏諱と通字から家流系譜を探っています。
・・・将軍義尹が義材から改名したのは明応七年(1498)以後なので、尹宗は、その頃までに、越前→近江→河内→周防と流浪を続けた義尹のもとに下向したとみられます。尹宗が歴代の官途である宮内少輔を名乗らず、詮頼以来の受領名である三河守を称したのは、将軍義尹が荒川惣領家の「太郎家」を尹宗に相続させたためではないかとの見方もあります。永正十四年(1517)正月に近衛邸への年始挨拶で「荒川」が訪れていますが、尹宗かその子と思われます。
・・・9代将軍・義尚の時代に、荒川家は”三流派”存在しており、棟梁家が”荒川太郎家”で”荒川民部少輔家”、分流に”荒川宮内少輔家”、もう一流はあるものの今のところは名前が分かりません。・後述で”荒川治部少輔家”。同時期に、上記の官名を名乗っていたかは不明。
○空白を埋めるもう一つの史料が「武家書状集」にある「荒川維国添状」。書状の年代は不明ですが、享禄三年(1530)の史料から「荒川宮内少輔維国」が堺公方足利義維(義稙の養子)の近臣だったようです。官途から荒川宮内少輔家の人物で、前出の尹宗の近親者。維国の「維」は義維(1527年7月以降)の偏諱。当時は将軍家が義稙派と義澄派に分かれて抗争しており、宮内少輔家は「義稙―義維系」だったことが想定できます。

◇【治部少輔家】将軍義澄―義晴派に
○一方で、治部少輔家は「義澄―義晴系」に所属。奉公衆の名簿史料「雑々諸札」には、義晴の将軍在職時の五ヶ番衆の二番に「荒川治部少輔」の名があります。ここへきて再び奉公番方に編入されている。その中で、天文五年(1536)8月に編成された将軍の側近集団「内談衆」の当初構成員でもあった「荒川治部少輔氏隆」の活動が目立ちます。
・・・史料名は・
雑=「雑々諸札」、岩=「室町家日記別録」、永=「光源院殿御代当参衆?足軽以下衆覚」
○氏隆は天文二年(1533)4月27日には「申次」として将軍義晴に供奉(ぐぶ=同行)して六角定頼のもとに臨席、さらに同年10月6日にも「申次」としての活動が史料に記されており、将軍義晴が近江国桑実寺に滞在した同年当時には、すでに申次衆に列していることが分かっています。また、「雑々諸札」の成立は享禄五年(1532)正月で、氏隆の申次衆就任は天文元年(1532)以前。
・・・これで、三流派目が”荒川治部少輔家”と分かりました。でも、官名は世襲なのでしょうか、これには疑問が残ります。
○「申次衆」は正月や節日、朔日(ついたち)などの対面の際、殿中で公武の出仕者の姓名の奏上、進物の披露、下賜品の伝達などを行う将軍への取次役です。荒川治部少輔の名は「言継卿記(ときつぐきょうき)」「石山本願寺日記」「大館常興日記」などに現れ、申次としての任務のほか、公家の邸宅での歌会や蹴鞠の集いに出席したり、同じ番衆の領地の返還を本願寺に折衝したり、将軍の私的書状である御内書の発給を指示したり、将軍の近辺で諸事に精勤していることが分かっています。
・・・荘園の所有権は本願寺にあるのでしょうか。

◇【治部少輔家】将軍直訴で惣領家に
○「大館常興日記」の天文九年(1540)5月25日条に興味深い記事。荒川氏が三系統に分かれていた中で荒川氏隆が、①太郎は逐電して行方不明であり、民部少輔は先年敵方に走っているので、彼らの越中国にある所領を氏隆に賜りたい、②荒川氏惣領として氏隆の家を認めてもらいたい―と訴え、先祖(詮頼)が石見国守護職に補任された時の将軍義詮の御判御教書を将軍に上覧した、というのです。
○「太郎」は前回の記事で紹介したとおり、荒川氏の中で惣領家と位置付けられる「太郎家」でしょう。「先年敵方に走った民部少輔」というのは、将軍義稙―義維系に帰属した「宮内少輔家」。荒川氏隆は御判御教書など太郎家に伝わる重要文書を何らかの形で入手したのでしょう。その後、氏隆の次代が将軍義晴から一字を授かって「晴宣」と名乗っていることから、庶子家だった氏隆の治部少輔家が荒川惣領家に認められたようです。
○天文十三年(1543)から「荒川又三郎」の名が各種一次史料に現れますが、前年に氏隆から代替わりした荒川晴宣のことか。天文二十二年(1553)には父同様に申次衆に任ぜられ、永禄二年(1559)以降、将軍義輝の申次衆として活動。
永禄八年(1565)5月、松永・三好氏が将軍の二条御所に乱入。二時間に及ぶ激闘の末、剣豪義輝も力尽きて討たれ、義輝と共に戦った晴宣を含む側近衆も、全員が討死。

◇【謎の治部少輔】信長や信玄に帰属
○荒川氏の命運は尽きたかと思いきや、永禄八年以降の諸史料にも「荒川治部少輔」の名があります。見方として、「言継卿記」に見える晴宣の子が、元亀二年(1571)に一族の玄甫霊三和尚を能登国安国寺住持に推挙した「荒川」(「鹿苑院公文帳」)、天正元年(1573)に織田信長から京都近郊七カ所都合97貫600文余の所領を安堵された「荒川治部少輔」(信長関連文書)と理解できそうです。将軍義昭の近習だったところ、京を追われた義昭に従わず、信長に仕えたとも考えられます。
○永禄十年(1567)に十四代将軍足利義栄の使者として「荒川治部少輔」、永禄十一年(1568)には義栄の申次衆として「荒川治部少輔」が、「晴右記」「言継卿記」に登場。これは晴宣の子ではなく、「義稙―義維系」に属した宮内少輔家の系統が、晴宣の死後に”治部少輔”の官途を襲い、”荒川惣領職”を義栄から認められたのかもしれません。
○元亀三年(1572)には甲斐の武田晴信(信玄)が「荒川治部少輔」に、駿河国東部(庵原郡・駿東郡)の内で知行を与えており、「甲州古文書」から「荒川治部少輔」が永禄十一年以降、甲斐武田氏に帰属しています。義栄の申次衆だった「荒川治部少輔」が義栄の死後、同じ足利一門である駿河今川氏を頼ったものの、永禄十一年12月の甲斐武田氏による駿河侵攻を受け、今川氏を離れて武田氏に付いたのかもしれません。

◇戦国末期の将軍家権威の失墜と、京都政権からの転落に伴い、京都から没落した”荒川太郎家”。その後の動静については良質な史料には現れず、まったく不明になります。
足利一門として室町将軍家に処遇され、南北朝時代には国大将または守護職を務めた経歴も持ちますが、守護職時代の軍事的失敗で世襲の守護職にはなれず、遅くとも将軍義持の時代には将軍近習になっていました。その後、室町幕府奉公衆に編入された系統が出ましたが、その在地支配力は弱いものでした。将軍家が義稙と義澄の二派に分かれて抗争すると、荒川氏も両派に属する系統に分裂しました。その一部は在地支配をあきらめ、将軍に近侍する内談衆・申次衆として主に京都で活躍しましたが、戦国の荒波にもまれた室町幕府の衰退・滅亡に伴って没落し、史料からその姿を消しました。
・・・小林輝久彦「室町幕府奉公衆荒河氏の基礎的研究」(2015.3:「大倉山論集」所収

以上の文脈は、合理性があり、説得力があります。
そうすると、保科易正や伊奈易次の父・荒川易氏とは、どのように関係してくるのでしょう。

これは独断の私見ですが、・・・

「荒川易氏」の系譜は、京都の将軍奉公衆の”荒川太郎家・荒川民部少輔家”である可能性は極めて高く、政変に巻き込まれてか、政変を引き起こして、身の危険を感じるほどに”命”を狙われていた、と察する状況が想定されます。あるいは殺害されたのかも知れません。その荒川民部の四男が、荒川(四郎)易氏ではないだろうか、と推定されます。

そうすると、「将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ」というのは公的でないと言うことになります。隠棲した場所は分かりませんが、追補の手を逃れるには子息達の名前を変えて、恐らく”宮内少輔”か‘治部少輔”である京都の親族に働きかけて、御厨代官の道を探ったのでしょうか。”宮内少輔”の職務が宮廷における、儀式儀礼、‘治部少輔”の職務が官位の授与や荘園の所領問題だとすれば、働きかけは‘治部少輔”の方が可能性があります。事実、”治部少輔家”が将軍直訴で惣領家になったとき、先祖(詮頼)が石見国守護職に補任された時の将軍義詮の御判御教書を将軍に上覧した、とされ、本来本家にあるべきものが”治部少輔家”に移動しており、これを憶測すると、御厨代官への推薦と引き替えにその御教書が渡ったと考えられそうです。

その時、義尚の所属する応仁の乱の東軍の軍監・細川家と一番近い関係にあったのが、信濃国では松尾小笠原家と鈴岡小笠原家で、松尾小笠原家と同盟関係の知久氏や高遠諏訪家、鈴岡小笠原家と同盟関係にあったのが諏訪上社大祝であったわけで、東軍の荒川易氏の庇護・隠棲に協力したとすれば、守護の鈴岡小笠原家の方で近そうで、守護が荒川易氏に伴野を知行地として与えたとすると、伴野・壬生沢(豊丘村)の芦川館の伝承と繋がります。この押領を不服とした知久氏が、松尾小笠原と同盟し、鈴岡小笠原を謀殺した、というストーリーはかなり説得力がありそうです。ちなみに府中(深志)小笠原家と関係が深いのは畠山家で、どうも西軍に属していたようですが、中央の政争には、ほぼ無関心で、基本的には日和見だったのでしょう。従って、小笠原家の内訌を、”応仁の乱の代理戦争”という説は、自分には得心がいかない説に思えます。さらに、東軍の細川家の家宰は三好氏で、この家は、言ってみれば”松尾小笠原家”の庶流の家でもあるわけです。この”独断の私見”は、資料がかなり薄いため、演繹的な思考方法をとっています。

 

 


室町期の高遠の豪族  ・・・ 高遠家親と高遠頼継の背景

2015-06-12 11:25:29 | 歴史

室町期の高遠の豪族
 ・・・ 高遠家親と高遠頼継の背景

 ・・ 質問への回答に替えて

> ・コメントを書いた人
> io
> ・タイトル
> 質問です。
> ・コメント> 「高遠家親」の読み方を教えて下さい。

"家親"は、”いえちか”と読むのでしょう。

ここで紛らわしいのは、”高遠家親”の”高遠”の方です。
武田信玄に一時同盟後に滅ぼされた”高遠頼継”の家系とは全く関係がありません。

高遠家親は、高遠・木曽家親とした方が分かりやすい。この系譜は、源平合戦の初期に、信濃・木曽谷で旗を挙げて北信、北陸を攻め上がり、京都を征服した”旭将軍・木曾義仲”の末裔だとされています。倶利伽羅峠の戦い・火牛の計が有名ですね。
後に、頼朝に滅ぼされて滅亡しますが、末流が一部木曽谷へ、一部上州沼田に流れて命脈を保ち、沼田へ流れた方が、南北朝期に北朝に味方して功績を挙げ、足利尊氏から祖先の木曽谷と塩尻の一部、高遠を報償として貰います。それが木曾家村、その三代目が木曽家親で、高遠に住んで、高遠家親を名乗りました。
しかし、系譜の信憑性は薄く、系譜の仮冒の疑いがあるそうです。
古書に、1385年に高遠家親の記事があることから、この頃高遠は、木曽氏の支配下であったことが確認されていますが、高遠は小豪族が乱立していて抜きんでてはいなかった、と言われています。

通常”高遠家”と呼ばれるのは諏訪上社の大祝一族で、歴史上に登場する、高遠・諏訪継宗、高遠・諏訪満継、高遠・諏訪頼継などが、高遠一揆衆の頭目になり、この系譜のことを指します。
参考:一揆の意味・・本来は「目的のため血判して団結すること、を意味する」。この目的のため団結することで結果として戦いに及ぶ事の方が一揆とされることが多いが、本来の意味は前者。
この前後の歴史は資料が乏しくて判然としない部分もありますが、”蕗原捨葉”によれば、高遠・木曽家の勢力も小さくなり、高遠の小豪族に成り下がり、高遠の小豪族達が集まって協議をし、このままでは高遠が脅かされるので、象徴的・名目的棟梁を戴いて、高遠一揆衆としてまとまろうではないかと血判し、諏訪上社に棟梁を要請して、高遠・諏訪家が出来上がった、と言う筋書きです。
この高遠・諏訪家の城主になったのが、諏訪上社の大祝・諏訪頼継(先代)の嫡男(信員)で、何らかの欠点があったらしく大祝にはなれず、高遠城主になったわけで、本来なら諏訪神党の惣領に着くはず・・の”本家意識”が強く、このため諏訪上社との”本家争い”が度々でてきます。
蕗原捨葉には「・・・本来愚かにして」という理由で上社・大祝になれなかったとされていますが、先代・頼継だとすれば、大祝を経験し、さらに北条時行を保護して”大徳寺城の戦い”で幕府・小笠原家と戦った諏訪頼継と言うことになり、「・・愚か・・」とも思えません。幕府に反目したので当然幕府に追求されます。嫡男・信員は、恐らく、当時の幕府への忠誠への評価が主要因で大祝になれなかったのでしょう。そして乞われて高遠城主になった。、大徳王寺城の戦いの後、追放された大祝・諏訪頼継に代わり、諏訪家庶流の藤沢家から大祝が出ています。しかし諏訪家親族、神党から支持が得られずに、頼継の弟が大祝に代わっています。面白いのは、これを境に、藤沢家は府中・小笠原家に近づき、さらに婚姻関係を結び、諏訪神党から離れ小笠原守護家のグループに入っていきます。勿論この大祝交代劇は、諏訪円忠が筋書しています。

高遠・諏訪頼継が武田信玄に攻められるとき、頼継の家臣団を見て見ると、高遠一揆衆の筆頭は保科正俊で、城将に”千村内匠が勤めています。いずれも家老と思われるが、千村氏は木曽家の庶流です。勢力は衰えたといえど、高遠領内に小豪族ぐらいの勢力を保持していたことが覗われます。

この高遠城主・諏訪頼継と家臣の関係は、戦国大名としては異質の特色があります。
まず、諏訪神党の宗教的繋がりであり、諏訪上社への尊敬はあるものの武家としての主従関係は見えてきません。
次ぎに、高遠地区への愛情なのですが、高遠・諏訪家は、諏訪上社の本家意識が強く、高遠への愛情は感じられません。一方、高遠の拠点を置く一揆衆は、地元である高遠の郷土愛はかなりあるようです。その証拠に信長亡き後、高遠を奪還する”保科正俊”に、地元高遠は、全く違和感がありません。さらに、封建の基礎の部分の、豪族の領土については、高遠城主と家臣の間で、契約的な主従関係が見えてきません。他にもありますが、以上の要点から、高遠城主・諏訪家とその家臣の関係は、かなり名目的・象徴的な部分が多く、他の戦国大名と比べて異質であったようです。このことを分析した研究書は余り見かけませんが。