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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

爆発の予兆の空のいいにおい 後藤貴子/連衆70号を読む(1)~プロローグ4の始まり(その50)

2015-04-13 02:47:03 | エッセー・評論
手許に連衆70号がある。代表の谷口慎也氏をはじめ論客揃いの当誌とあって、巻頭言あたりから何か感想を述べてみたいが、何よりもまず作品鑑賞から入りたい。毎回外部よりの招待作家の連作が巻頭を飾る。今号は俳人の後藤貴子と川柳の内田真理子の各22句である。まず後藤作品は『荒寥と』と題するもので表題の通り作者の意図しての荒寥とした心象風景を1句々々に落し込んでいる。

蝶二頭重なる沼の荒寥に
乳母車霧の重さのあかんぼう
ポッキーの日の大倭折れてゐし
まぐわえば空気の抜けるマリア像
積分の解けぬどじょうの荒ぬめり
春暁のひだるきものにのどちんこ
爆発の予兆の空のいいにおい

意味鮮明でなおかつ心に残るものを抜粋してみた。もとより現実の光景ではない。作者にとって対象となるものの独りよがりな擬似認識などどうでもよく、外界との一次的な交感の渦中で違和感とも一体感とも違う何らかの空間性を言葉(喩)に定着することが目指されている。蝶二頭の交尾の姿の荒寥さ、乳母車のあかんぼうにかかる霧の重量感、聖マリア像の俗なる空虚、どじょうに仮託した己れの存在の荒々しいぬめり感。そのあげく春暁のひだるさの実感の元凶として言葉を発する異物としての「のどちんこ」に思い到り、全ての荒寥さの一瞬の帰結としての「爆発」の予兆の空のにおいに達する。そこで初めて《いいにおい》として外界と分け隔てない己の生存の証しに遭遇する。荒寥とは作者の内部と外部をつなぐ不分明さを〈俳句〉という定型の現場でかろうじて言い止めることに他ならない。・・《続く》

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