まほろば俳句日記

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【俳句をどう書くか】坪内稔典・・俗語が孕む《聖性》はどこから来るのか?/私の作句信条を読む(3)~新俳句入門

2018-12-15 07:14:33 | 新俳句入門

今夜は室内にいる分には意外に暖かい。暖房を入れ続けているのだから、当然と言えば当然のことだが。この記事シリーズで、総合誌「俳句界」10月号の特集『私の作句信条』の感想を書き始めた。一人わずか1ページなので、極めてわかり易い。皆が結社の主宰者で、当然一家言あるのだろうが、あまりにも常套的で面白くない。知的レベルが低いと言ってもよい。これまでいくつかの結社に入門し、句会にも度々出席して来たが、学ぶことは何も無かった。何より俳人である前にA級と言える人物が主宰を含めて全くいなかったのだ。それどころか、一般社会ではまるで通用しないチンピラ同然の人も少なからずいた。この特集の14名の中では、わずかに坪内稔典と夏石番矢が【俳句(定型)批判】を数十年にわたって続けており、何を言っているか聞いてみる価値がある。俳句(定型)批判とは、俳句形式が【定型性】を持っているか、おのれの作句の過程で常に問うことである。しかし、その《問い》が時代遅れのものであったり、自分一人の思い込みに過ぎないものなら無意味である。とりあえず坪内の【俗語を活かす】という主張の妥当性である。この点を深く掘り下げる前に、《俗なるもの》とは一体何かということである。少なくとも、その反対概念としての《聖なるもの》はとうの昔に失われている。ブログなどでもいまだに「聖人」扱いされている松尾芭蕉などの歴史上の俳句作者も、1980年代以降の【ポストモダン】と呼ばれる歴史そのものの断絶によって、言語認識の彼方に消失した。そのことの自明さを深めるためにこそ日々の句作があり得るはずである。坪内は俳句の《伝統》の三大要素として【定型】【季語】【俗語】を上げ、そのうち【俗語】が不十分であるとする。その根拠として、文語と歴史的かな遣いが(結社・俳壇に於いて)主流であり続けているためとする。確かにその通りであるが、同時にそれは近代俳句の有季定型主義(イデオロギー)の現場である《結社》に限られる。その結社の集合体である《俳壇》全体が、現代社会では相対的な存在でしかなく、俳人などという人種は極めてマイナー(少数派)な評価しか与えられていない。例えば、20歳代の若者が俳句に人生を賭けるなどと言えば、家族・学校・企業・地域などで排除の対象になってしまう。俳句はもはや《定型性》を喪失してしまっている。この事実を前提に【俗語を活かす】とは、さらにそもそも《俗なるもの》とはどのような意味で成り立つのか。まずはそこから検討してみる必要があるだろう。・・・《続く》

 

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