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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【俳句の此岸】未来の主役として祝福された自我の終焉/私とは誰か~プレおたく世代の現在(32)

2017-09-19 09:54:50 | エッセー・評論

深秋や君の全力を世界は待ってるぜ   まほろば  最新作  即興

1980年代の空虚さは息が詰るほどだった。70年代の終焉のこれといった手応えは無かった。ただ確実に変わったものがある。それは街のすがたであった。例えば、吉祥寺駅前のどぶ板の飲み屋街は小ぎれいな路地に変貌し、ジャズ喫茶の老舗で吉祥寺の象徴でもあったFUNKYは影も形もなく消えてしまった。正確に言えば、ある場所に移転した。それは、路地を抜けたほんの1~2分の所であった。新しく出店した吉祥寺パルコのすぐ隣のビルの2階である。窮屈な階段を上ると、カウンターのみの狭苦しい、パスタ店と思えるほどの瀟洒な造りのいまで言うカフェバーに成り果てていた。かろうじて、旧店の地階に置かれていたJBLパラゴンが、店内の片隅に置かれていた。流れていたのはやはりジャズのままだったが、どこまでもイージーでライトな曲ばかりで、かつてのハードバップ中心の選曲を知らない者には、それがジャズであることにさえ気付かないほどであった。そんな変化の中で、私はコツコツと通信制大学のレポート作成作業に勤しんでいた。この吉祥寺から京王井の頭線の終点にあった【渋谷】も、同じくJR中央線快速で20分足らずで行き着く【新宿】も、以前のメインストリートの雑踏や路地裏の底知れないメタフィジック感といったものは一掃され、やはり西武パルコの未知の消費感覚や丸井のカジュアル感に支配されていた。何もかもが明るく、そして軽いものに根底から変貌してしまっていた。その原因の一つだったのが、70年代後半の政治の季節の終焉、経済の高度成長の終焉、そして《わたし》という・・いつか確実に訪れるであろう未来の大いなる理想世界の主役たるべく祝福された《自我》の終焉であった。こうして、1980年代という、私という存在の不確かさ極まりない、辺りに流れていたテクノポップのように何もかもが無機質で、おそらく無価値で・・おそらく完全に相対的で、まるでつかみどころの無い、薄明かりの底の地べたに沈み込み、ポッカリと開いた空洞の中の情けない存在でしかあり得なかった。かつて、1960年代末の革命に恋焦がれて・・藁をも掴む想いで上京した希望の星のような《わたし》は、もはや影もかたちも無かったのだ。・・・《続く》

プラスティックス テクノポップ 1980

 https://youtu.be/v_RM0kuYQR4?t=54


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【俳句の此岸】1970年代のモラトリアムからの脱出に失敗!/私とは誰か~プレおたく世代の現在(31)

2017-09-08 04:18:44 | エッセー・評論

*映画もらとりあむタマ子付

前田敦子の死ぬほどの青飛蝗とぶ   まほろば  旧作

私たち1970年代世代にとって、来る80年代とはどのような時代だったのだろうか。私は、1979年に音楽業界への参入を諦めると同時に、中央線文化の中心地であり続けた【吉祥寺】に舞い戻った。長兄が同地の大学出身で、団塊の世代の、彼の70年代前半の2留を経ての就職後に、そのアパートを引き継いで住んでいたのが最大の理由だが、1979年の終りに、今度は吉祥寺の北の端の別のアパートに住むことにした。ロックやフォークが衰退し、ニューウェイブやテクノポップの【無機質】な騒音が溢れ始めても、吉祥寺という街は、80年代に入っても70年代の若者文化の匂いがし続けていたのが良かった。20歳代後半に入っても、まだ若者でいるしかなかったのだ。当時、モラトリアム世代という言葉が流行していたが、まさに私のことを言った言葉だった。結局、ここに4年ほど居ることになったが、途中、別の大学の通信制に編入した。大学卒という肩書きも欲しかったが、モラトアリアムに身を置き続けるための理由が欲しかったのかもしれない。ちょうど1979年に遭遇した、俳句の世界への耽溺も同じ理由からだった。・・・《続く》

 

もらとりあむタマ子(主演 前田敦子) 2013

https://youtu.be/ifIVLwv_kt0?t=34

「もらとりあむタマ子」の画像検索結果


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【俳句の此岸】モラトリアムを脱しオタク化の道を歩む/私とは誰か~プレおたく世代の現在(30)

2017-09-05 03:12:38 | エッセー・評論

*1970年代への鎮魂曲『GOODBYE DAY』原曲&カバー付

私は1970年代前半に大学入学のため上京したが、それは70年安保闘争と全世界に吹き荒れたカウンターカルチャー運動に乗り遅れないがためであった。しかし、70年安保闘争は完膚無きまでに敗北を喫し、大学受験直後にTVでは浅間山荘事件が放映されていた。もはや世界と人間を理想のかたちに変える闘いはあっけなく終焉を迎えていた。入学した大学ではわずかな残り火が燻っていたが、1969年の蒲田闘争(佐藤訪米阻止闘争)の敗北を総括出来ないままに、70年代の痛々しいほどに晴れ晴とした空気に呑み込まれていった。彼らは、のちに【団塊の世代】と呼ばれ、日和ズムと呼ばれる転倒した【社会参加】への自己同一化、つまり就職・結婚への道をひた走った。彼らの背中をただ呆然と見送るしかなかった私たちは、彼らとは根本的に違う【キリギリス世代】【モラトリアム世代】と呼ばれ、彼らのように黒白ついた果ての【社会参加】など望むべくもなかった。全くの不完全燃焼のままだった。・・・《続く》

 来生たかお 『GOODBYE DAY』  1981

 https://youtu.be/04zKSpeMG-Q?t=103

来生たかお       〃        1990(LIVE)

 https://youtu.be/klKQDRAeYN0?t=67

来生たかお      〃       2011(LIVE)

 https://youtu.be/cqtGfGkHykk?t=81 

                    *

松田聖子カバー 『GOODBYE DAY

 https://youtu.be/YGNnwsVuOIQ?t=99

大沢たかお(光源氏)    〃

https://youtu.be/eY1jRTtxAx0?t=140

斉藤友美          〃

https://youtu.be/xePILGMq09s?t=18


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小便の泡立ってゐる野焼き後/北大路翼を読む(6)

2017-09-04 04:20:26 | エッセー・評論

*末尾に梶浦由紀BEST付

吉野家は敗北の味夏の雨   北大路翼  その3

この句について、当ブログで2回観賞して来たが、結論めいたことはまだ書いていない。もう一度読み込んでみたい。吉野家をはじめ牛丼チェーンが出来たのは、1970年代の終り頃なので、もう40年の歴史がある。牛丼(牛めしとも)は並盛りで280~380円で推移して来た。安くて早いのが人気の理由だが、もう一つ貧しさもある。とりあえず、空腹を満たしておき、仕事やギャンブルに励む人々のイメージがある。消費年齢は学生から中年サラリーマンまで幅広くカバーしている。当初、女性やファミリーの行く場所ではなかったが、最近ではOLや女性フリーターにも抵抗が無くなり、休日などはテーブル席に家族連れも目立つようになった。そんな中で、時代が変わってもこの句に詠み込まれた【敗北感】はある固定層に確実に受け継がれている。
彼はことし39歳になった。と言うことは、1978年生まれであり、20歳になったのは1998年ということになる。20歳代をほぼ2000年代(0年代と呼ぶ)の10年間に過ごしたことになる。親は【団塊の世代】であり、所謂【団塊ジュニア】ということになる。親は70年安保が敗北し、1970年代に世の中が、何事も重さ・真剣さから軽さ・不真面目さに価値基準を移した時代を生き抜いた。1970年代とは、現代にある若者文化のほぼ全てが出揃った時代に当たり、彼の親たちはその変化を横目で見ながら、部下や目下には高所から傍観して世紀変わりを見届けた世代であった。子には説教の一つもしただろうし、北大路のような所謂オチコボレには冷視線を浴びせつつも、未知の【不確定】として傍観していたに違いない。わが子が青春期にあって、早々と【敗北の味】を知ってしまったことに対しても、自身の同時代を重ねたに違いない。北大路の作品には、そんなはずはないのだが、親たちの時代の【敗北感】をまるで踏襲するかのようなリアルさがある。・・次回は、他の作品を交えながら、作者の来歴や現在の作句環境なども含めて、この【敗北感】の由来をもう一歩突っ込んで追及してみたい。・・・《続く》
 
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梶浦由紀 BEST

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西東三鬼『酷烈なる精神』批判②/坪内稔典を読む(3)

2017-08-28 00:09:14 | エッセー・評論

ところで、これほどまでに私たちの近代的知(対象的認識)とそれに基づく〈定型表現〉を蹂躙してしまう〈国家意志〉とは、どのように現出して来るのだろうか。続けて、坪内はいう。

三鬼の言い方にならうなら、ぼくたちは、個々に、その生活において、いやおうなく〈国家意志〉の内側にいる。ぼくたちは国家によって首根を押さえつけられている。階級社会においては、国家が一部の階級の利益を、社会の共同利益として仮構し、その仮構のために、国家がひとつの権力として現れる。・・・単に、酷烈なる精神を唱えても、階級社会への眼が曇っていては、一切はきれい事にしか終らない。戦後の三鬼が立っていたのは、こういうきれい事に大きく加担した場所だったのである。文化はーというより、法・道徳・宗教・言語規範などの意識は、ぼくたちの生活のなかで、いつも〈国家意志〉に刺し貫かれいる。自然(季)や伝統に、また俳句形式に身をゆだねることは、ぼくたちが、その生活において、無意識のうちに〈国家意志〉にからめとられ、それに慣らされていることである。一見して平和で、安定してみえる時代こそ、ぼくたちがその感性の基盤を、〈国家意志〉に侵蝕される危機は強くなる。ぼくたちが自らの言葉を獲得するためには、ぼくたちの俳句の根拠を、〈国家意志〉とのあらがいに晒す以外にはない。

・・・《続く》

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