限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第11回目)『中国四千年の策略大全(その 11)』

2022-07-24 10:05:47 | 日記
前回

中国の特産品と言えば「茶」と「絹」で、北方の遊牧民族の特産は馬だといえる。自国にない特産品を交易するのはお互いにとって利益なはずだが、国境での交易管理がまずく、交易が途絶えてしまった。そこで、知恵を出したのが、「智嚢」(知恵袋)といわれた明の政治家、楊一清だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻 8 / 338 / 楊一清】(私訳・原文)

チベットには良馬が多くいる。中国茶を輸入して健康飲料としている。昔は蜀の茶でチベット馬を購入していたが、いつの頃からか、その習慣がすたれてしまった。大量の茶の輸出でずる賢い商売人は大いに儲けたが、肝心の馬を得ることができないこともあった。楊文襄はあらためて西域の馬を扱う役所の設置を朝廷に求め、同時に民間人が私的に交易するのを禁止した。それによって政府が中国茶販売の利益を独占することができ、再びチベット馬を数多く集めることができた。

〔馮述評〕
楊一清が以前、陝西巡撫吏の時、平虜と紅古の2ヶ所に城を築いて固原の防御とし、さらに黄河ぞいに城壁を築き、靖虜を守った。安化王の反乱を征伐した時、張永に策を授けて奸宦の劉瑾を葬った。いわゆる「出ては将、入りては相」の器の人物だ。彼の練った計画は尽く成功したので、人は彼を「智嚢」と呼んだ。唐代の名政治家の姚崇になぞらえたのももっともだ。

西番故饒馬、而仰給中国茶飲療疾。祖制以蜀茶易番馬、久而寝弛、茶多闌出、為奸人利、而番馬不時至。楊文襄乃請重行太僕宛馬之官、而厳私通禁、尽籠茶利於官、以報致諸番。番馬大集、而屯牧之政修。

〔馮述評〕

其撫陝西、則創城平虜、紅古二地、以為固原援。築垣瀕河、以捍靖虜。其討安化、則授張永策以誅逆瑾。出将入相、謀無不酬、当時目公為「智嚢」、又比之姚崇、不虚也!
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楊一清の政策というのは、現代風にいうと、レアアースの貿易を国家が管理して、輸出量を調整することで、最大の利益を確保した、ということだろう。このように知恵が泉のごとく湧いた楊一清も最後は、政敵に足をすくわれ憤死した。



次は北宋の時代の宰相・丁謂の話。北宋の時代は、文人政治が輝いた時代といってもいいだろう。王朝の創建者の太祖(趙匡胤)や太宗(趙匡義)の文人優遇の政治理念から数多くの名臣が輩出した。それら名臣の言行を、南宋の朱子が『宋名臣言行録』にまとめた。もっともいくら名臣が多いといっても、やはり奸臣はいるもので、次に紹介する丁謂もその一人だ。

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 馮夢龍『智嚢』【巻 8 / 346 / 丁謂】(私訳・原文)

宋の時代(祥符年間)、宮中に火事があって宮殿の復旧を丁謂が命ぜられた。復興材料の土をどこから採ってこようかと悩んだが、都の大路を掘り返して大量の土を得た。その跡が大きな溝となったのでそこの近くを流れる汴水から水を曳いてきて運河とし、筏を組んで復興物資の運搬に使った。復興が終わってから、不要となった瓦やがれきなどをその溝に埋め込んでまた元通りの路とした。これによって3つのこと(土の採取、荷物の運搬、ゴミの搬出)がスムーズにいき、経費が大幅に削減できた。

祥符中、禁中火。時丁謂主営復宮室、患取土遠、公乃命鑿通衢取土、不日皆成巨塹、乃決汴水入塹中、引諸道竹木牌筏及船運雑材、尽自塹中入、至公門事畢、卻以拆棄瓦礫灰壌実於塹中、復為街衢、一挙而三役済、計省費以億万計。
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私は、丁謂のこのアイデアは非常に素晴らしいと思うが、馮夢龍は次のように否定的な評価を下す。

「丁謂は確かに立派なことを考えたが、これは宰相の為すべきことではない。つまり論語にもいう『つまらない人間はグランドデザインは描くことはできないが、小手先のことなら器用にこなす』類の人だ。」(此公尽有心計、但非相才耳、故曰:「人不可大受、而可小知。」)

丁謂に対して馮夢龍のような否定的な評価がでる背景には、丁謂が王安石の改革派(新法派)に属していた上に、上司の寇準を失脚させたとして、非常に悪い評価が定着しているからである。日本と異なり、一端、評価が下されれば、それを覆すのは至難のわざだ。何代経っても悪人の子孫は悪人とみなされたままだ。本場、中国やそれを承けた朝鮮における儒教の名教というのは、「人のふみ行うべき道を明らかにする教え」とされ、良い教えのように聞こえるが、別の面から見れば断罪した人に対しては冷酷極まりない教えでもあるのだ。こういった白黒をはっきりつけるやり方はとても日本人の琴線には響かない。それゆえ、儒教は心底から日本人の心を捉えることはなかった、といえる。

ちなみに、丁謂のこのアイデアから「一挙而三役済」(日本流には一挙両得)という成句ができた。

続く。。。
コメント
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