限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・117】『ira furor brevis est: animum rege』

2018-09-02 20:30:46 | 日記
顔回は孔子の弟子であるが、孔子からは「私以上の人間」だと認められたほどの君子であった(『論語』《公冶長》)。もっとも世間の評価は、「顔回は孔子の驥尾に付したので、世間に名前が知られるようになった」(顔淵雖篤学、附驥尾而行益顕)と、やはり師の孔子の方が上であると評した。

しかし、孔子が顔回を誉めるにはいろいろと理由がある。その一つが『論語』《雍也》に「弟子の顔回は、学を好み、怒っても理性を失わない」(有顔回者好学、不遷怒)という点だ。私は、大学生のころから『論語』は今までに何十回となく読み返しているが、そのうちに孔子の人間像を自分なりにつかめるようになった、と感じる。論語をよく読むと分かるが、孔子は案外、激情に駆られる人であったようだ。つまり、むかっ腹を立てると、冷静さを失ってしまうような人であった。それ故、顔回が亡くなってから、「この点においては、わしは弟子の顔回にはかなわない」と、愛弟子の子貢にはつい本音をもらしてしまったのだ。

ところで、この「怒」という字は論語にはここ1個所にしか見えない。老子もチェックしてみると、第68章に「善戦者不怒」(善く戦う者は、怒らず)と1個所に見えるにすぎない。



遠く、古代のギリシャには孔子や顔回に匹敵するような賢人がいた。有名な七賢人の一人であるキロンは「怒」については、端的に「怒りを抑えよ」(Control Anger)と述べている。(ディオゲネス・ラエルティオス 『ギリシア哲学者列伝』 1-3-70)


ここに登場する θυμοσ と言う単語は日本語で「怒り」、英語で "anger" と訳されている。この単語はラテン語では anima という単語に相当し、「魂・息」、「感情、意志」のような意味もあるが、「激情、怒り」の意味もあるという。実際、ローマの詩人ホラティウスの『書簡詩』(1-2-62)には、キロンのこの言葉を直訳したかの如く animum rege の句が見える。
【原語】ira furor brevis est: animum rege
【私訳】怒りは短き狂気である。怒りを抑えよ。
【英訳】Anger is short-lived madness: rule your passion.
【独訳】Der Zorn ist eine kurze Raserei: beherrsche deine Leidenschaft.


ホラティウスは怒りといういのは、「短き狂気だ」(ira furor brevis est)と認識し、自分の強い意志でコントロールする(animum reger)必要があると述べる。というのは、一旦、怒りに身を任せてしまうと、その内に怒りに自分自身が支配されてしまうという。あたかも「人、酒を飲む」が、その内に「酒、人を飲む」に変わってしまうようなものだ。

最近(2018/9/1)、Web上に
 「バスの窓たたき割る無表情の女…運転手をひいて逃走」
という動画が投稿されていたが、まさにホラティウスのいう通りの状況だった。このような動画を見せられると、アメリカでは自動車のクラクションを鳴らしてはいけない、と言われる意味がよく理解できる。

詩人・ホラティウスは思想的には、エピクロス派に属していたようだ。ストア派の賢人セネカに "De Ira"(怒りについて)というエッセイがある。かなり以前に読んだので、記憶が定かではないが、ホラティウスと同じような意見を述べていたように思う。東西(中国、西洋)、場所や時代や思想背景は違えども、賢人の目指すところはどれも「修己・自制」にあると言える。

そこで一句:「賢人はシャバで修己に務め、愚人はムショで修己に苦しむ」
コメント
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