石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。
まずは、定番というべきこの本から。
増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)
目次)
□はじめに
■第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに
第1章 幼年・少年・青年期
■1)おいたち... 日蓮宗を空気として
□2)山梨県立第一中学校...アメリカン・デモクラシーへの誘い
□3)早稲田大学...プラグマティズムの感動
□4)東京毎日新聞社... 人生の転回点
□5)東洋経済新報社...再スタート
1)おいたち... 日蓮宗を空気として
石橋湛山の88年に及ぶ生涯を貫く、あの剛毅・反骨・熱情・楽観・リベラル・合理性といった特異な人格は、一体いかにして形成されたのか。やはり幼少期から青年期に至る生活環境が彼の信条体系形成に深く寄与している。
石橋湛山(幼名省三・せいぞう)は1884年(明治17)9月25日に東京で誕生した。世は欧化主義の全盛時代で、日本政府の高官や華族が条約改正のため諸外国要人を鹿鳴館に招き、日夜、舞踏会を催していた頃である。湛山の実父杉田湛誓(たんせい・1855―1930)は日蓮宗僧侶であり、のちに日布(にっぷ)と改名し、総本山身延山久遠寺第八一世法主に選ばれた俊英である。当時湛誓は東京市麻布区芝二本榎(現在の東京都港区二本榎)にあった日蓮宗の最高学府、東京大教院(今日の立正大学の前身)の助教補(助手)を務めていた。母石橋きん(1868―1933)は江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋藤左衛門の次女であった。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で、同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓とも親しかった。湛山は二人の長子として生まれ、当時の宗教界の因習に従い、母方の姓を名乗ったのである。
翌年、湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現増穂町)の昌福寺住職へ転じたため、湛山は母とともに甲府市稲門(現伊勢町)へと移住した。都会暮らしに慣れた母にとって、田舎での生活は淋しくかつ窮屈であったに違いない。その母の下で、幼少の湛山は東京の「お坊っちゃん」風に育てられた。木登りや水泳は固く禁じられたというから、地元の子供たちとの間にかなり隔たりがあったろう。1889年(同22)4月、大日本帝国憲法発布直後、稲門尋常小学校に入学。そして同3年生の7歳のとき、湛山は初めて父と同居することとなり、稲門から約20キロ奥まった増穂村の小学校に転校した。こうして世俗社会とは異質な寺院での生活が始まった。湛山は学校から帰ると徹頭徹尾厳格そのものの父に呼び付けられて、漢文の素読を学ばされた。妹と弟が相次いで生まれたのはこの頃である(のちさらに妹2人と弟1人誕生)。湛山は生まれて初めて両親や妹弟に囲まれた生活、一般家庭で営まれるごく普通の団欒生活を味わうことができたのである。しかしそれも長くは続かなかった。
日清戦争が勃発した1894年(同27)、10歳の折、父が静岡市池田の本覚寺住職に転じることになり、湛山は中巨摩郡鏡中条村(現若草町鏡中条)の長遠寺住職である望月日謙(にちけん・1865―1943)に預けられた。日謙ものちに身延山久遠寺第八三世法主となった傑僧で、湛誓の厳格さに比して、包容力があり多くの有能な人材を育て上げた人物として知られる。日本医師会会長として医学界に長く君臨した武見太郎も、かつて日謙の警咳に接し、感化されたひとりである(同氏の筆者への証言)。当時湛誓と日謙は、明治維新期における廃仏毀釈運動の打撃から立ち直るため、布教活動はもとより、県内の日蓮宗僧を率いて学校を建設したり雑誌を創刊するなど一連の改革に携わった同志でもあった。湛誓はこの進歩的で「春風のかおるがごとき」日謙にわが子の教育を託したのである。以来、実質的な親子の関係は断たれた。湛山は幾度となく手紙を出したが、父母から返事をもらえなかった。
後年、湛山が父に対して日謙に預けられた理由を尋ねると、「孟子に『古者子を易(か)えて、之れを教ゆ」(自分の子を教えることは難しいから、他人の子を取り易えて教える)とあるではないか」という一言であった。湛山自身は、「もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいは、その余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。……望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と述懐している(石橋湛山著『湛山回想』15頁)。とはいえ、いまだ自立するには早く、父母の愛情を欲しながら も満たされない日々を送った経験は、湛山の人格形成にどのような影響を及ぼしたか測り知れない。人間湛山に顕著な独立自尊・自力本願の精神は、あるいはこのような環境が強く作用したのかもしれない。同時に、この世に生を受けて以来、実父および養父を介して日蓮宗の教義をあたかも空気のごとく摂取しつつ成長した(これを仏教用語で「薫習(くんじゅ)」という)ことが、日蓮主義という湛山の精神的支柱の形成に大きく寄与したことは紛れもない事実である。
【解説】
人間湛山に顕著な独立自尊・自力本願の精神は、あるいはこのような環境が強く作用したのかもしれない。同時に、この世に生を受けて以来、実父および養父を介して日蓮宗の教義をあたかも空気のごとく摂取しつつ成長した(これを仏教用語で「薫習(くんじゅ)」という)ことが、日蓮主義という湛山の精神的支柱の形成に大きく寄与したことは紛れもない事実である。
日蓮宗の流れからは、国家主義的な日蓮主義も生まれました。むしろこちらが主流でしょう。
一般的に「日蓮主義」といえば、国柱会の創設者・田中智学と顕本法華宗元管長・本多日生を中心に明治期に近代主義的に体系化した仏教思想を指します。
しかし、石橋湛山の場合はおなじ日蓮宗の中で育ちながら、国家主義とは正反対のリベラルな平和主義を持つに至りました。
その違いは何なのでしょう。
その辺に注目しながら、読み続けていきたいと思います。
獅子風蓮