獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その23)

2024-04-26 01:20:05 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
■1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
□2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
□3)日中貿易促進論
□4)鳩山内閣通産大臣
□5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生


1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論

公職追放となった湛山は、自ら反駁書を作成し、中央公職適否審査委員会と公職資格訴願委員会に提出するとともに、1947年(昭和22)6月、マッカーサーに対しても「マッカーサー元帥に呈する書」(『全集⑬』)を送付したものの、何らの効果もなかった。湛山は政治活動を含むすべての公的活動を禁止されたまま、まさに晴耕雨読の生活を余儀なくされた。とはいえ、長年培ったジャーナリストとしての耳目は健在であり、緊迫の度を深めつつある国際情勢に細心の注意を払い続けた。
1948年(同23)10月、冷戦の拡大という事態を受けて、アメリカ政府はNSC(国家安全保障会議)13―2文書を正式に承認し、非軍事化・民主化を目標とした対日占領方針を日本の経済的自立化へと転換した。折しも国内政局はGSが期待した片山・芦田両中道政権が相次いで自滅し、政権は再び自由党へと移動した。復活した吉田内閣は、翌49年(同24)1月の総選挙で圧倒的な勝利を収めて安定政権となる(第三次吉田内閣)と、いわゆるドッジ・ラインを遂行してインフレ収束に全力を上げるとともに、密かに講和への方途を模索していった。アメリカ政府もダレス(John F. Dulles)を対日講和問題の責任者に任命するなど準備を開始した。1950年(同25)を迎えると、講和問題は国論を二分する大論争となった。野党、労組、いわゆる進歩的知識人、マスコミらが理想的な「全面講和論」を主張したのに対して、政府・与党らはソ連陣営を除いた現実的な「単独(片面・多数)講和論」を唱え、吉田首相はこの観点から中ソを含むすべての当事国との全面講和を説く南原繁東大総長を「曲学阿世の徒」と罵倒した。また吉田は腹心の池田蔵相をアメリカへ派遣し、安全保障に関する自己の所見を伝えた。
ところが6月、突如朝鮮戦争が勃発した。前年10月、中華人民共和国が成立し、この年の2月、日米両国を敵視する中ソ友好同盟相互援助条約が締結されるなど、極東情勢が緊迫化しつつあったが、この戦争により、アジアでは冷戦が「熱戦」へと転化したのである。開戦のニュースに接した湛山は事態を憂慮せざるをえなかった。6月28日の日記には、「此の際米国としては一挙に世界の冷戦を解決することならんが、更にその後は世界国家の構想を要するならん、然らざれば世界平和は重ねて脅さるゝこと必然と考へられる」(「湛山日記」『自由思想』第五号所収67頁)とある。早速、論文「第三次世界大戦の必至と世界国家」(『全集』無)を執筆しはじめ、 7月20日に脱稿した。これは1万字に及ぶ長論文であり、石橋家の保管文書の中から筆者が発見するまで行方知れずのいわば幻の大作であった。その要旨は以下の通りである。

一 この戦争により第三次世界大戦は必至となった。なぜならば、朝鮮問題は米国にとって死活的であり、ソ連も後に引けないからである。というのは、南北朝鮮が共産朝鮮となり、台湾が「中共」領となれば、米国は日本を維持できなくなるばかりか、危険はフィリピン、オーストラリアに迫り、インドシナが共産化し、インドは米国離れを進めていくであろう。このような東アジア情勢は直ちにヨーロッパに波及し、北大西洋同盟(NATO)は瓦解して、共産勢力がヨーロッパ全土を席巻することになろう。ソ連の意図はここにあったに違いない。だから米国が断固として立ち上がったことは当然である。ここに米ソが正面衝突する必然性、いいかえれば第三次世界大戦への発展が免れない本質をもつのである。

二 では戦争の推移はどうか。もしソ連軍が介入しなければ、米軍は近い将来に北朝鮮軍を破り、南朝鮮を回復できるだろう。ソ連は米国や国連との交戦を極力回避しようとしている。なぜならソ連は過去数年の冷戦で驚くべき勝利を収めてきており、危険な大戦に飛び込む必要はないからである。もしも南朝鮮での戦争が容易に決着しないならば、ソ連は秘かに北朝鮮を助けつつ、口で米国を非難するに止まるだろう。北朝鮮の南朝鮮併合はならずとも、戦争の遷延は米国、国連の権威を落とすことになるからである。しかし米国は本気で朝鮮への兵力投入を決意したらしい。それゆえ、米国は遠からず、北朝鮮軍を破って南朝鮮を回復するであろう。ただし米国はそれで満足せず、北朝鮮に対して今回の責任を問い、再侵略防止のための保障を要求しよう。ソ連は形勢がさらに悪化すれば、中国を使わないとも限らない。ただしソ連は相変わらず狡猾で表面に出ないだろう。以上の次第で、今回の事件はソ連の思惑通りとなる公算はきわめて乏しい。この際、米英その他の自由諸国は、国連の名の下に敢然戦端を開く決意をすべきである。それ以外に自由国家群の生きる道はない。

三 では米ソ両陣営のいずれが優勢であるか。米国は戦力でソ連よりも優位ではあるが、周辺の味方の数ではソ連の方が米国よりも優勢である。第三次大戦が起こる場合、東南洋で米国側の中にソ連側に対抗し得る国は一つもない。これに反してソ連側には中共がある。中共一国でも米国側は悩まされよう。日中戦争で中国が示した力は、今日さらに増している。ヨーロッパの形勢は英仏両国が控えているので、米国側にとって東南洋ほど弱体ではない。しかし最強力のドイツは朝鮮と等しく両分され、その東独は北朝鮮と同様にソ連の味方である。ヨーロッパでも力の均衡は米国側に有利だとは考え難い。この状態では米国の敗北の公算は大きいともいえる。

四 では米国は今後どうすべきか。米国陣営を強化しようとすれば、東洋では日本を、西洋では西独を、完全な米国側の味方とし、かつすべての味方国を物質的にも精神的にも強化しなければならない。米国は自己の味方への対処法を誤っている。米国は今その国力に慢心し、すべて世界一だと信じ、世界は意のままだと自惚れて、政府も国民も、他国を見下してはばからない。この点は日本のような占領地で顕著である。しかも米国の対外援助は偽善的・気紛的で、真に味方を作るという打算と誠意とに立脚していない。そのため、中途半端で徹底せず、被援助国民の信頼を得られない。また米国は援助国にうるさく干渉して、被援助国民の自主性を破壊し奴隷化する。奴隷は、いかなる場合でも、頼みになる味方ではあり得ない。他方、ソ連は政治的に敵と味方を明確に区別している。たとえばソ連の行なうパージは、共産勢力を助け、反共勢力を滅ぼすために用いられている。米国のパージにはそのような用意はない。また米国は第二次大戦中に尊重した蒋介石を見捨て、南朝鮮をも一時は見捨てるような放送をした。これでは米国は敵を養い、味方を滅ぼす術しか知らない、とさえ酷評したくなる。ここに米国は深い反省を必要とする。

五 では米国は日本への政策をどのように改めるべきか。
(1)米国は日本に完全の独立を与え、政治、外交、経済等についての一切の束縛を解かなければならない。単独講和を行なっても、つまらぬ束縛規定を残しては、依然日本を奴隷の位地に置くもので、それでは真に日本を米国側の強力な味方にはできない。
(2)米国は日本の陸海空軍を再建させなければならない。これは日本としてはありがたいことではない。しかし世界の恒久平和のためには、米ソ両陣営の対立をまず打破しなければならず、日本の再軍備もしばらく忍ぶ外ない。ただし軍備の規模は東洋で中ソ両国を押さえる程度でよく、憲法第二章(第九条)は「世界に完全なる安全保障制度が確立されるまで」との期限をつけて、しばらく効力を停止する。第二章を憲法から削除する必要はない。
(3)米国はカイロ宣言、ヤルタ協定およびポツダム宣言の失効を声明し、多くの対日制裁を解除しなければならない。当時の調印国の半数が背き去り、抜け落ちた宣言や協定が破棄されて当然である。まして日本を強力な味方にしようとする米国が、これらの宣言に固執して日本を苦しめ、その力を削ぎ、ソ連と中共とに利益を与えるのは愚に等しい。
(4)米国は速やかに日本人の公職追放を解除しなければならない。日本の完全な独立後に必要なのは人であるが、多数の有能者を追放し去った日本には、その人がない。だから米国は何よりも先にこの追放を解除する必要がある。
以上の四個条は、米国が日本を有力な味方にする方策である。単独講和で日本に名ばかりの独立を与え、国防は米国軍が引き受け、米国は日本を基地として、あるいは日本人をも国連軍の義勇兵に加え、極東で対ソ作戦を遂行するといった安易な構想では、日本を米国の真の強力な味方にはできない。これらは米国の過去5年の政策の逆転となるが、もし米国にこれだけの決断がつかないなら、第三次世界大戦は米国の負けであり、世界はソ連に征服されて米国も滅びるであろう。しかし米国が従来の方針を改め、一大決意をもって戦争に対処するなら、必ず米国側に勝利をもたらし、比較的短期に片付くのではないか。

六 ただし戦争が仮に米国側の勝利で終わるとしても、世界は決して恒久の平和を得られない。人類社会から戦争を絶滅し、世界に恒久平和を実現するには、ナショナリズムを絶滅する以外に方法はない。それには世界を一国家とし、その内部でナショナリズムが発育する素地を奪うことである。軍備制限や国連の設置ぐらいでは戦争を絶滅できない。世界を一国家に組織することは容易ではないが、40年の間に二度三度世界戦争を繰り返すような苦難から逃れるためには、世界国家の建設に進む決意を奮い起こすべきであろう。世界国家の建設は前例のない企てではない。国際連盟と国際連合は、世界国家に進む準備工作であり、また自由国として個々独立するステーツが連盟した北米合衆国の歴史も一種の世界国家建設の成功例である。人種、宗教、言語等を一にしても、それだけで社会は一つにはまとまらない。団結を可能にする根本条件は、その団結がもたらす利益が、その他の一切の利害や感情の衝突を越えて、はるかに大きいことである。今やこの点において、人類は世界国家を造るべき段階に達している。これを造らなければ、世界戦争は繰り返され、人類の文明は滅亡するに至るからである。

七 ではどのような世界国家を造るのか。世界国家は連邦共和国の形を取り、今日の諸国家はその下に主権の大部分を移譲して、一種の地方自治体として存立することになろう。世界共和国内の通貨は共通の単位に統一され、通商は自由に許され、各地方自治体は治安維持のための警察隊を備え、陸海空軍を不要とする。もしそれで不安ならば、各地方自治体に陸海空の世界警察隊を置き、これを世界共和国が指揮すればよい。もし世界国家がこのように組織されるならば、地球は永恒の楽園に化すであろう。まず自由国中の最強国の米国が、率先してその国境を撤去し、主権を人類の幸福のために譲る英断に出ることが、世界国家を実現し、恒久平和をもたらす第一の要件である。かくて米国も真に世界の王者となろう。あえて第三次世界大戦を戦う意味は、ここに求められなければならない。

以上のとおり湛山は、朝鮮戦争に関しては、国内で有力であった南侵説(米国の指令により、南朝鮮が北朝鮮に対して侵略を誘発したとの説、あるいは米・南朝鮮・台湾の共同謀略説)を取らず、米国が遠からず北朝鮮軍を破って勝利を収めるであろうこと、ソ道は直接介入せず、背後から北朝鮮を支援し、米国や国連を牽制する方策を取り、場合によっては中国軍を介入させる可能性のあることを予想した。同時に、朝鮮戦争を起点とする第三次世界大戦の勃発を必至とみなし、その大戦では、アメリカ側が決してソ連側に対して優位ではなく、したがってアメリカは自国陣営の強化に着手しなければならない、そのためにはアメリカは日本や西ドイツをはじめとする自由諸国に対する従来の傲慢な態度を改めねばならないと主張した。もしアメリカが深く反省し、味方の陣営を建て直すことができれば、大戦の最終的勝者となり得るであろうが、ただし、それによって恒久平和は達成されないと湛山は警告を発し、世界戦争を永久に葬り去るには、世界国家を建設しなければならず、ナショナリズムを絶滅した世界共和国が誕生する時こそ、地球上に恒久平和が訪れるのであり、アメリカはそのための牽引車的役割を果たさねばならない、と説いたのである。

結局、朝鮮戦争を契機として第三次大戦が起こるとの予想は湛山の杞憂に終わったが、戦争の推移に関する鋭い洞察と、世界平和への熱意と、厳しいアメリカ批判の視角から今後の日米関係の在り方を明快に論じていることは注目に値する。しかもここでは冷戦に対する懐疑的な所信を吐露していると同時に、湛山の理想とする「世界国家論」が顕現している。その意味で、この論文はのちの「日中米ソ平和同盟」構想の起点と位置づけられるべきであろう。なお公職追放中の湛山は、公の目を憚りながら、この論文を内外のしかるべき関係筋に配布することを企図し、その要旨を邦文タイプしたり、英文にも翻訳するなどしている。7月26日に宮川三郎(新報社会長)にそのはしがきを郵送、8月31日に依頼していた英文タイプ19部を宮川より受け取り、9月3日、橋本徹馬と会い、一部を旧知のバートン・クレーン(ニューヨーク・タイムズ東京支局記者)に手渡すよう依頼している「湛山日記」『自由思想』第三号所収70、76、77頁)。
もう一点、湛山のこの論文で気付くことは、日本の防衛・憲法・国連の政策や解釈に関して、終戦直後に湛山が提示した戦後構想との間に重大な変化を見出せることである。すなわち、第一に防衛については、冷戦発生以前の「軍備不要論」から、冷戦発生以後、限定的ながら「再軍備論」へと転じている。第二に、憲法第九条の「積極的支持」から、「世界に完全なる安全保障制度が確立されるまで」同条規定を「部分的に停止する」方向へ転じている。第三に、国連の世界的役割を「高評価」する姿勢がもはや見られない。いずれも朝鮮戦争勃発に伴う緊迫した極東情勢の現実を踏まえた態度の変化であった。
実は、極右(自由党河野派や吉田グループ)と極左(日本共産党)に対抗して中道路線を歩んだ芦田均前首相が、やはり朝鮮戦争を境として、再軍備論に転じている。湛山と芦田は新憲法肯定派であり、皇室に対しても一定の距離を置くなど、ニュー・リベラリストと呼称できるが、両者の再軍備論に共通するのは第三次世界大戦への危機感であった。オールド・リベラリスト吉田の場合、第三次世界大戦の危機という認識を持ったことは恐らく一度としてなく、他の党人派の指導者に至っては、大部分、占領によって国際政治の動向から隔離されていたため、冷戦の厳しさについての認識から無縁であった。したがって鳩山を含む党人派は、再軍備問題をもっぱら民族の気概といったナショナリズムの観点から受け止めたにすぎない。芦田の場合、同様のレトリックを使いながらも、その背後に対外的危機認識が存在しており、それが彼の主張の出発点であった(大嶽秀夫著『再軍備とナショナリズム』141~2頁)。
ただし湛山には芦田のような反共主義はみられず、参戦した中国が朝鮮を支配したのちにソ連と共同して日本包囲網を形成するといった危機感はなかった。むしろ湛山にとってはアメリカの態度こそが問題とされた。つまり西側陣営のリーダーとしての資質をアメリカが欠いている、だから早急に従来のその狭い考え方から脱却しなければならない、そのためには同盟国となった日本や西ドイツを完全に自立化させ、両国を含む西側諸国全体の利益を考慮するとともに、世界大戦の危機を地球上から抹消するといった全人類的利益をも考慮し、その上での行動に着手すべきであると主張した。その根底に、いぜん日本の占領体制を統括するアメリカへの不満と不信の念があったことは否めない。湛山は朝鮮戦争に先立つ半年前、「GHQ或は米国政府には日本防衛の日米同盟締結の意図ありと。ありそうの想像であるが、それは畢竟曾(か)つての日満同盟の米国版に外ならず、日本国民は果してこれに満足するや」(1月4日の「湛山日記」『自由思想』第三号所収49頁)と記している。湛山の眼には、噂される日米同盟は日本の満州国化、つまりアメリカの傀儡国化を強いるものと映ったのである。逆に芦田には湛山のような対米批判は見られず、GHQのニューディーラー派と米国政府に全面的に依存した首相時代の延長線上にいた。アメリカを信頼し、その将来を楽観する点では、芦田と吉田は共通していたといえる。

さて朝鮮戦争は、1950年(同25)秋に中国政府が人民義勇軍を介入させたことで新局面を迎えた。この結果、中国は国連から侵略者の烙印を押されたばかりか、米中接近の可能性を葬り去り、両国の敵対関係を国際的に固定化させた。ひいてはアメリカをして日本をアジアの有力な同盟国、いわゆるアジアの反共防波堤とすることを決意させた。ここを起点として「単独講和」(サンフランシスコ対日平和条約)と「日華平和条約」の方向が定まり、中ソ両国を排除したいわゆるサンフランシスコ体制の形成が促される。すでに4月から5月にかけて、吉田首相が腹心の池田蔵相を渡米させ、日本がアメリカに基地の提供を申し出る代償として米軍を独立後もそのまま駐留軍として日本防衛の任に当らせるとの条件を秘かに提示したことなど、この時点の湛山は知る由もなかった。政治活動を禁止され、言論活動をも封じられた湛山としては、こうした事態を静観する以外になく、焦慮の日々を送ったであろうことは想像に難くない。
ところで同年末、鳩山筋から湛山に対し、再来日を予定しているダレスと極秘に会見する話が持ち込まれた。そこで湛山は急遽その準備に入り、大晦日にダレスに提出する文書「米国に日本はいま何を望むか」(『全集』無)を脱稿した。これは前記論文 「第三次世界大戦の必至と世界国家」の日米関係に関する部分を敷衍していた。その要点とは、日本は講和条約の早期締結を希望するが、その場合、(a)米国は他国の同意がなくても日本と平和条約を締結する。(b)国連憲章はあらゆる国際取決めに優越され、カイロ、ヤルタ、ポツダムの三宣言を廃棄する。(c)平和条約の締結と同時に、日本の軍事占領は終了する。(d)平和条約締結後、日本は米国・その他の諸国と個別的集団的自衛の取決めを行う。(e)米国およびその他の諸国の軍隊は、前項の取決めにより、日本に駐在可能とする、というものであった。

ここでは「単独講和」と「日米安保条約」を一体化して、独立後の日本の安全保障を確保する構想が示されており、その基本点に関する限り、湛山・鳩山と吉田との間の相違は見られない。しかも「吉田は、自国の防衛をアメリカという他の国に依存している事態は日本人の自律性、独立心を損なうおそれがあり、長期的には改善すべきであると考え、そのために『再軍備』が必要だと判断していた。そして1951~52年当時は、彼の考える再軍備が憲法改正を必要とするとの憲法解釈から、将来は憲法の改正を考えていた」(前掲「再軍備とナショナリズム』69頁)とすれば、三者の見解はますます重複する。
ただし湛山は、日本国民の多数は、国内の米軍基地と米軍駐留に満足せず、日本の非武装化を本心から願っているが、冷戦という世界の現状から「やむなく再軍備する」のであり、したがって、早期に日本が「非武装国へと復帰する」ことを希望し、「たとい再軍備を行なうとしても、それは全く臨時の処置とし、非武装を宣言せる憲法の改正は望まない」との主張において、吉田とは一線を画していた。
周知のとおり、吉田の再軍備反対の理由は、 (1)経済的負担、(2)周辺諸国の反対、(3)野党の反対と国民の反軍感情(ないし憲法九条の存在)、(4)軍国主義復活の危険であったが、いずれもやがては解消する一時的要因であり、これらの条件が時間の経過とともに変化すれば再軍備の条件が整うとの認識を背景としていた。とはいえ、吉田は日本の経済復興に関する見通しは悲観的であり、したがって防衛力整備のための経済的制約は長期間存続するものと考えていた(同右書17~8頁)。これに対して湛山は、吉田同様、経済優先主義の観点から漸進主義の再軍備論の立場であったが、吉田とは逆に日本の経済復興について楽観的であり、日本の経済力を増大させ、ひいてはアメリカと経済的に対等となることで、日本の自主性を獲得すべきであると考えていた。
一方鳩山は、民族主義・国家主義の観点から、吉田や湛山よりも再軍備と憲法改正に関して直截かつ徹底的であった。すなわち、日本が国防上アメリカ依存から脱却することが急務であり、そのためには独立国として独自の軍備を有し、早急に国防国家体制を築くことを重視した。これに対して湛山は、前記の経済復興優先の見地から、独力の国防体制を指向する政治的意図はなかった。この点で湛山はむしろ吉田の基本路線と重複していたのである。鳩山と湛山はともにGHQ・GSによる政治的パージに処されているにもかかわらず、鳩山には湛山のような反米感情が表面化していない。 湛山の反米感情の中には不当な理由でパージという強権を発動したアメリカへの反発が間違いなく込められていたであろうが、基本的には鳩山同様、ナショナリスティックな観点から、吉田政権の「対米依存」方針(いわゆる対米従属路線)に反対であったからである。すなわち、対日平和条約は、絶対にアメリカおよびその他の諸国が日本の政治に干渉する余地を残してはならない。アメリカは過去5年余の対日政策で、日本を奴隷化するに等しい独裁者的干渉を加えてきた。このため日本の政治改革は混乱と不備とを伴い、経済復興は期待通りに進まず、反米に駆り立てられ、共産党は勢力を拡張した。それゆえ早急にアメリカはこの誤った政策を訂正せよ、と厳しく迫った。
ここでもやはり湛山の対米自主独立の気概が感じられるものの、日本の経済面と安全保障面でアメリカに依存せざるをえないところに、この見解の最大のジレンマと限界があった。
1951年(同26)2月6日夜、湛山は鳩山、石井光次郎、そして仲介者の『ニューズウィーク』(Newsweek) 記者のパケナム (Compton Pakenham) とともに、帝国ホテルで秘かにダレスと会見した。英訳された文書を提示しての会見であったが、通訳上にも問題があり、湛山は「面会の結果は、むしろ失望なり、なおよく考えて見る要あり」と日記に感想を記している(「湛山日記」『自由思想』第四号所収)。失望した理由は不明であるが、彼にとって期待はずれであった。さて、この極秘会談の前後から、湛山の周辺ではパージ解除の気配が漂いはじめた。しかし当時は講和以後もパージは継続するとの悲観的予想が根強く、したがって、湛山自身は追放解除の実現に懐疑的であった。しかも吉田が湛山と鳩山の追放解除を意図的に妨害しているとの噂が流れていた。吉田はその背景としてマッカーサーの指示があったと証言している(前掲『回想十年③』90頁)。ともかく6月20日、湛山の待望した公職追放解除が公式に発表された。ここに4年余の追放生活に終止符を打ち、湛山は政界へ復帰した。ときに66歳であった。

 

 


解説
あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。


獅子風蓮



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。