石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
■第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第7章 政界
(つづきです)
大蔵大臣ポストを巡ってのトラブルが、湛山や石田らと鳩山との間に溝を作ってしまったことは確かであった。湛山は、「鳩山ブーム」で人気が沸騰した次の選挙後の第二次鳩山内閣でも、通産大臣を任命された。
選挙の結果、日本民主党185、自由党112、左派社会党89、右派社会党67、労農
党4、共産党2、諸派2、無所属6という議席数で、民主党は第一党になったが、それでも少数党内閣であることに変わりはなかった。安定化のために再び「保守合同」の話が表面化した。
昭和30年(1955)10月13日、社会党は左右が合同して社会党になった。
ほぼ1カ月遅れて11月15日、神田駿河台の中央大学講堂で保守合同の結成大会が開かれた。民主党と自由党の合同であったから「自由民主党」という名称に決まっていた。
合同の自民党と新生の社会党によっていわゆる「五五年体制」が出来上がった。鳩山、緒方、三木武吉、大野の4人が総裁代行委員、三役には岸信介幹事長、石井光次郎総務会長、水田三喜男政調会長が就任した。吉田茂、佐藤栄作、橋本登美三郎は入党しなかった。
その後、第三次鳩山内閣が発足して、湛山は3度目の通産大臣に就任した。蔵相はまた一万田であった。
「我慢、我慢だよ。石田君」
そう石田たちには言いつつも、湛山は大蔵大臣と通産大臣の違いを、息子の湛一にはこぼしもした。
「内閣の実権は、三木君と河野農相にあるんだ。予算にしてもそうだ。鳩山内閣の財政運営はただ予算規模を抑えるだけの、いわゆる健全財政だけでいいのか、と不満を持つんだ」
「お父さんだから我慢しているんでしょうね」
「うん、湛一。やっぱりヒラの大臣では駄目だね」
長男の湛一も父親に同情した。湛山は、その時だけ寂しそうな表情を浮かべた。
(つづく)
【解説】
その後、第三次鳩山内閣が発足して、湛山は3度目の通産大臣に就任した。蔵相はまた一万田であった。
保守合同後の自民党になっても、内閣の中枢からは締め出されたかっこうの湛山は、内心不満を抱くのでした。
獅子風蓮