獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その33)

2024-05-15 01:37:01 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
■おわりに

 


おわりに

湛山は、言論人・経済評論家・政治家という三つの社会的職種をもって、明治・大正・昭和の三つの時代に棹差した。その人物研究は、1970年代に本格的に開始されたのち、80年代には政治史、外交史、経済史、軍事史、社会思想史、文芸史などの学問分野で水平的拡大を見せたばかりでなく、アメリカ、中国、オランダでも相次いで湛山研究者が登場するなど国際化・多角化の様相を呈しながら、着実に発展しつつ今日に至っている。もはや湛山研究は市民権を得る始点から遠く離れ、その歴史的存在を明示する中間点をも通過し、その歴史的意義を集約する最終点へと接近しつつある。

ではこれら湛山研究を支えてきたものとは一体何であったのか。恐らく、「どうしてあのような困難な時代にこれほどの透徹した歴史認識をもち得たのか、いかにして日本の将来と世界の動きを洞察できたのか」との驚きや疑問、それが湛山研究者の共通項ではあるまいか。加えて、時の権力や圧力に屈することなく、世評にも惑わされず、ひたすら自己の信念に忠実に従う、その凜とした生き様と人生哲学に引き寄せられるからではなかろうか。湛山の軌跡は、惰性、大勢順応、世間的常識、畏服、軽挙妄動、不条理など一切無縁に等しい。以下、石橋湛山の本質について、ひとまず著者なりの結論を披瀝しておきたい。

まず第一は、自由主義と個人主義である。ジャーナリストとしても、エコノミストとしても、政治家としても、人間湛山を貫くのはこの自由主義と個人主義である。自由主義とは、すべての権威や権力のみならず、あらゆる既存の社会的制度や伝統的価値から自由であることを意味し、かつ政治・経済・文化などの諸領域においてさまざまな統制に反対し、個人の自由を主張すると同時に、個人の自由な行動を許容することである。つまり自由を求めることは、個人が権利を持つとともに責任と義務を有することでなければならない。しかもその場合の個人は、社会と有機的に結びついた個人でなければならない。その意味で、自由主義は個人主義と一体化すべきであった。湛山いわく、「自由主義の政策とは何ぞや。政治上、経済上、社会上、乃至思想道徳上に於ける個人の行動に機会の均等を与え、その自由を保障する政策之れなり」(1914年5月5日社説「断乎として自由主義の政策を執る可し」『全集①』)と。
湛山が自由思想家として尊敬した先人に、二宮尊徳と福沢諭吉がいる。二宮は「いかなる聖人君子の教えでも、自己の判断において納得しがたきものは用いない」など当時において革命的思想の持ち主であり、また福沢は「その門下に向い、自ら実行しうる確信のある主張でなければそれを唱えてはならぬと警(いまし)めていた」など言論人の真髄を示したことで、湛山は両者を高く評価したのである(1953年11月1日号時局「二宮尊徳翁と福沢諭吉翁」「全集⑬』)。極論すれば、湛山は「自由批評の精神亡び、阿諛(あゆ)の気風瀰漫(びまん)すれば、その国は倒れ、其の社会は腐敗する」(1913年6月15日号社会「文芸協会の破綻」『全集①』)と堅く信じたのである。とすれば、満州事変以降の当局による言論統制、また占領下GHQによる諸種の拘束は、彼には断じて承服できない事態であった。

第二は、合理主義と現実主義である。湛山は合理性を徹底して追求する。合理性を追求するということは、既成の通念や一般常識を突き放して、再度現実を冷徹に考察することである。その意味で、合理主義は現実主義と表裏一体とならざるをえない。「不合理な現実、無理な現実は、仮令(たとい)あったとしても、永続きはしない。真の現実として人間を支配するのは、合理性を有(も)って居る現実であります」(1939年9月30日講演「時局の見透と積極的産業革命の必要」『全集⑬』)と断言する湛山にとって、列強による植民地主義も、日中戦争も、大東亜共栄圏構想も非合理であり、非現実的であった。とくに戦前における日本の中国抑圧はその最たるものであった。現下の 中国はかつての中国ではない。国民意識に溢れ、自立性の強い社会の頂点に立っているのが蒋介石である。それゆえ、わが国は「東亜独占主義」(大アジア主義)を棄て、対等な日中提携路線を蒋介石政権との間で実現すべきであり、それが両国の平和のみならず、東アジア、ひいては世界全体の平和をもたらす、これが湛山の主張する合理性であった。
翻って、戦後の東西冷戦もまた非合理であった。冷戦は国際政治・経済・軍事・文化など多方面にわたり世界を分極化し、人的かつ物的往来や交流を遮断している。それは両陣営に対立と緊張をもたらしこそすれ、何らの利益ももたらさず、結局世界文明の発展を阻害する要因以外のなにものでもない。それゆえ、冷戦は遠からず地球上から消え去る運命にあると湛山は確信した。この観点から、フルシチョフ首相の平和共存路線の提唱や、キャンプ・デービッドでの米首脳会談開催を脱冷戦の兆候と洞察し、日本政府を尻目に自ら行動を起こしたのである。

第三は、実利主義と民主主義である。「人間の無限の欲望は社会の進歩と発展の原動力である」と理解するプラグマティスト湛山にとって、政治も外交も経済も法制も、いや何よりも国家自体が、すべて人間社会に奉仕すべき存在であり、公益をもたらすための道具として創造されたものにほかならなかった。したがって、内外の環境の変化により既成の社会的制度がもはや国民に利益をもたらすものではなくなった場合、それは新しい制度へと移行する必然性があった。わが国において元老や藩閥などの寡頭政治体制が政党中心の議会政治体制へと脱皮したのも、また敗戦を機に軍国主義・全体主義・統制主義体制が崩壊し、他律的にせよ、民主主義・自由主義・平和主義体制が出現したのも当然の成り行きであった。あるいは中国において清朝が中華民国、中華民国が中華人民共和国へと移行したのも必然性があった。すべての規準は国民生活の向上に寄与する体制であるか否か、その体制が社会的利益をもたらすか否かであり、それ如何で政権交替とか体制変革といった社会現象が起こり得ると湛山は理解していた。
ただしその受益者はあくまでも一般国民であり、断じて一部の支配階層なり特権階級(藩閥や軍部や華族など)であってはならなかった。湛山は論壇に登場した明治末期からすでに国民主権論者であった。「如何なる場合に於いても『最高の支配権』は全人民に在る、代議政治はその発現を便宜にする方法で、現在の処之れに代るべき手段はない」(1915年7月25日号時論「代議政治の論理」『全集①』)と説く湛山は、元老政治や藩閥・軍閥政治に反対し、議会制民主主義の実現を目指し、普通選挙による国民の政治参加を強く求めた。その主権在民思想は、戦前、絶対的権威を帯びた天皇制をも例外としなかった。湛山の歴代の天皇ならびに天皇制に関する評価は、その存在がいかなる国家的社会的利益をもたらしたかとの実利性から考察されており、明治神宮建設に異を唱えるなど、皇国史観の呪縛から完全に逃れていた。
かといって湛山はバタ臭い共和主義者ではなかった。むしろ彼は日本人として当然のごとく、日本社会の利益、日本国民の利益を念頭に置くとの点で日本主義者たる立場を示した。戦前「小日本主義」を提唱した湛山は、「大日本主義」全盛時代においてはまさしく非国民的扱いを受けたが、植民地放棄論にしても21カ条要求反対論にしても、「大欲」を満たすために「小欲」を捨てるよう主張した愛国者であった。敗戦後、あえて政界に転身したのも、日本の窮状を救うがための明治人的ナショナリズムと愛国の心情に駆られた末の決断であった。もちろん彼は排他的で国権的で教条的な愛国主義者ではなかった。さまざまな困難な条件の下でも、弾圧の下でも、「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」と日蓮の『開目鈔』一節を唱え、自説を曲げずに日本の真の発展を願った日本主義者であった。ちなみに太平洋戦争で湛山は愛児和彦(海軍主計中尉)を喪っている。

第四は、世界主義と平和主義である。湛山は日本という国家レベル、アジアという広地域レベル、そして世界という地球的規模のレベルで思考する。これら三重のレベルでの永続的発展こそ、湛山が理想とする世界の平和と繁栄にほかならなかった。しかし現実はその理想と正反対の方向へと進んだ。1910年代と30年代は強大国が弱劣国を侵略する弱肉強食の時代であった。これに対して湛山は、「隣り同志が互に親善でなければならぬ、礼節を守らなければならぬと云うは、決して個人間のみの事ではない。国と国との関係に於いても之れと同様の態度を取らなければ、各国民の生活は永遠に幸福なるを得ない」(1915年6月5日号社説「日支親善の法如何」『全集①』)と唱えるなど、帝国主義的独占支配を時代遅れと見做す近代的な国際秩序観をすでに顕示していた。そしてこの趣旨から、国権主義や排他的な地域主義を全面否定し、門戸開放原則をより徹底させた「世界開放主義」を提唱したのである。
半面、湛山は第一次大戦後の国際連盟、また第二次大戦後の国際連合といった超国家的な国際的平和機関の設立に熱意を示すなど、平和希求的であった。平和確立のためには、国際政治と国際経済両面における摩擦解消こそ肝要であり、そのため各国間の政治と経済も世界的規準で考察されなければならず、その文脈から外交の果たす潤滑油的役割が軽視されてはならなかった。湛山は商人的「道徳」とパワー・ポリティクスに依拠した外交の運営や国際関係の実態を一応肯定した。たとえば、「唯一の途は功利一点張りで行くことである。我れの利益を根本として一切を思慮し、計画することである。我れの利益を根本とすれば、自然対手(あいて)の利益を図らねばならぬことになる、対手の感情も尊重せねばならぬことになる。……我等は曖昧の道徳家であってはならぬ、徹底した功利主義者でなければならぬ、然る時にここに初めて真の親善が外国とも生じ、我れの利益は其の中に図らるる」(1915年5月25日号社説「先ず功利主義者たれ」『全集①』)と論じ、功利主義の効用を説いている。ただしその根底にはかなり強度の宗教的倫理が隠されていたといえる。それは幼少時より、いわば空気のように摂取された仏教哲学ばかりでなく、中学・大学以来のキリスト教的倫理に裏付けられていた。つまり湛山の平和への強い願望は、日蓮の平和を求める実践主義、あるいはキリスト教者の世界主義的思考と重複する。
ともすれば湛山の思想や行動はアジア主義者のそれと映る。竹内好氏は湛山を「自由主義者にしてアジア主義者」と規定した上で、「それは私が多年さがし求めて、ほとんどあきらめていた類型であった」と論じている(同「わが石橋発見」『日本と中国のあいだ』所収357頁)。しかも同氏が指摘するとおり、湛山が決して西欧かぶれしたリベラリストではなく、日本的土着性をもったリベラリストであったことは「型破り」であろう。しかし湛山が古くは樽井藤吉や岡倉天心、新しくは松村謙三や岡崎嘉平太のような中国ないしアジアに対する熱情ではなく、醒めた眼でアジアを見ていたことは見逃せない。むしろ湛山の精神的基盤は、福沢諭吉のような脱亜論を起点とし、その上での平等互恵・平和共存関係に基づいた日中提携、アジア諸国の共存共栄の追究にあった。そして湛山はアジア内にとどまらず、世界大の規模からアジアを位置づけていた。これらの理由から、竹内氏の湛山の規定は、「自由主義者にして世界主義者」と修正すべきである。

以上のとおり、湛山はその言論にしても政治活動にしても、発想が柔軟であり、一定の枠にはまらない。一般人の常識を超えた気宇壮大なスケールを示すことさえある。小日本主義、植民地放棄論、日中米ソ平和同盟構想、いずれも非凡で独創性あふれた発想と論理体系である。また湛山は、東洋と西洋の宗教哲学を併せもち、政治・経済・外交という多角的視野から、日本の発展と世界平和の実現に絶えず焦点を合わせて、「有髪の僧侶」として類い稀な実践行動を展開した。「単騎出陣型」の剛毅さと「至誠天に通ず」式の楽観主義は、日本の政界ではアマチュア政治家そのものであったが、同時にそれが人間的魅力でもあった。

(つづく)


解説
かといって湛山はバタ臭い共和主義者ではなかった。むしろ彼は日本人として当然のごとく、日本社会の利益、日本国民の利益を念頭に置くとの点で日本主義者たる立場を示した。戦前「小日本主義」を提唱した湛山は、「大日本主義」全盛時代においてはまさしく非国民的扱いを受けたが、植民地放棄論にしても21カ条要求反対論にしても、「大欲」を満たすために「小欲」を捨てるよう主張した愛国者であった。敗戦後、あえて政界に転身したのも、日本の窮状を救うがための明治人的ナショナリズムと愛国の心情に駆られた末の決断であった。もちろん彼は排他的で国権的で教条的な愛国主義者ではなかった。さまざまな困難な条件の下でも、弾圧の下でも、「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」と日蓮の『開目鈔』一節を唱え、自説を曲げずに日本の真の発展を願った日本主義者であった。

私が最も理想とする政治家です。


……我等は曖昧の道徳家であってはならぬ、徹底した功利主義者でなければならぬ、然る時にここに初めて真の親善が外国とも生じ、我れの利益は其の中に図らるる」と論じ、功利主義の効用を説いている。ただしその根底にはかなり強度の宗教的倫理が隠されていたといえる。それは幼少時より、いわば空気のように摂取された仏教哲学ばかりでなく、中学・大学以来のキリスト教的倫理に裏付けられていた。つまり湛山の平和への強い願望は、日蓮の平和を求める実践主義、あるいはキリスト教者の世界主義的思考と重複する。

宗教的倫理観に裏打ちされたプラグマティズム(功利主義)、私が目標とする思想です。

 

獅子風蓮



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