というわけで、沢木耕太郎『流星ひとつ』(新潮社、2013年)を読んでみました。
(目次)
□一杯目の火酒
□二杯目の火酒
□三杯目の火酒
□四杯目の火酒
□五杯目の火酒
□六杯目の火酒
□七杯目の火酒
□最後の火酒
■後記
後記
そのとき私は31歳だった。
当時の私は、いくらか大袈裟に言えば、日夜、ノンフィクションの「方法」について考えつづけていた。
そこに至るまでの私はと言えば、まず、大学を卒業した直後から26歳までの4年間をノンフィクションの書き手として仕事をしたあと、すべてを放擲(ほうてき)し、1年ほど異国を旅していた。旅に出た私は、たぶん、ノンフィクションを書くという仕事から離れようとしていたのだと思う。偶然のことから入ったジャーナリズムの世界だったが、そしてその世界での4年間は瞬く間に過ぎてしまったと思えるほどスリリングだったが、どこか違和感を覚えていたのかもしれない。はっきりと意識はしていなかったが、ジャーナリズムとは異なる世界を求めて日本を出ていったような気がする。
しかし、27歳で日本に帰ってくると、ふたたびジャーナリズムの世界に舞い戻り、むしろ前よりも激しい勢いでノンフィクションを書きはじめることになった。
私には、他の人のようにジャーナリストとしての使命感があるわけではなかった。その私がノンフィクションを書くときのエネルギー源としたのが、「方法」に対する強いこだわりだった。
できるだけ繰り返しをせず、常に新しい方法で書く。
初期の頃の私は、「ぼく」がさまざまな世界を訪れ、さまざまな人に会い、さまざまに感じたことを書く、というスタイルを貫いていた。
旅から戻った私は、その「ぼく」を自覚的なものに少しずつ鍛え上げていこうとしたが、その果てに、常にまとわりついてくる「ぼく」に中毒し、やがて一人称を捨て、徹底した取材による三人称で描きたいという願望を抱くことになる。
その方法は、『危機の宰相』を経て、30歳のとき『テロルの決算』を書くことで一応の達成を見た。
しかし、いったんそこに至ると、今度は取材というものの危うさ、脆弱さが気になりはじめ、次は一転して、「私」の見たもの聞いたもの、つまり取材ではなく、自分の経験したものだけで書いていくという方法を徹底してみたいと思うようになった。それは、やがて、32歳のときに『一瞬の夏』という作品として世の中に出ていくことになる。つまり、ノンフィクションの書き手としての私の31歳とは、『テロルの決算』から『一瞬の夏』に移行する、過渡的な時期にあたっていたのだ。
その31歳の私は、1980年の3月から朝日新聞の小説欄にノンフィクションの作品を連載することになっていた。私は、その欄に、のちに「私ノンフィクション」と呼ばれるようになる『一瞬の夏』を発表することにし、1979年の夏の終わりから執筆を開始した。新聞に連載するのは初めての経験であり、しかもその小説欄にノンフィクション作品を載せるということで気負っているところもあったのだろう、連載が始まる前に最後まで書き終えておこうなどと思っていた。
すべての材料は手の内にある。1年の出来事を時系列に従って書けばよい。執筆はさほど難しくなく、順調に書き進むことができていた。
10月に入り、友人の紹介で、伊豆の山奥の温泉宿に長期滞在し、執筆をするというようなこともした。それは、まさに、かつての偉大な文筆家を模倣することで、自分をそうした書き手に近づけたいという幼い虚栄心がさせた行為であったろう。
(つづく)
【解説】】
私には、他の人のようにジャーナリストとしての使命感があるわけではなかった。その私がノンフィクションを書くときのエネルギー源としたのが、「方法」に対する強いこだわりだった。
沢木耕太郎さんは、ノンフィクションを書くにあたって「方法」に対する強いこだわりがあったとのこと。
それが、一風変わった、このインタビュー『流星ひとつ』を生み出したのですね。
獅子風蓮