石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
■第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第5章 小日本主義
『東洋時論』は、大正元年(1922)10月1日発行の第三巻第十号をもって廃刊が決まった。
「いいかい、時論はあと2回発行して終わりになる。終わりよければすべてよしだ。頑張っていい論文を書いてくれたまえ。それから後は君が主張していたごとく、一本化して新報の内容をもっと充実させよう」
三浦は『東洋経済新報』の新たなる第一歩について、湛山の覚悟を促した。
「斬新な内容で、主義主張をきっちりした論陣で、読者に訴えていこうじゃあないか。個人の解放、自由の伸張という新報の基本的な考え方はどこまでも維持していくつもりだ。植松さんの主張であった軍備拡張反対も、変えない。総合すれば、帝国主義批判ということだね。普通選挙の実施には 当面、一番力を入れたい」
三浦は、湛山に覚悟を促すと同時に、自分自身のこれからの編集方針を語って聞かせたのだった。三浦銕太郎は明治7年(1874)、静岡県生まれ。東京専門学校を出て、東洋経済新報社に入った。旧姓を山下という。新報社では、植松考昭より2歳年長だったが、入社が遅かったので植松を補佐する形で論陣を張った。三浦は植松とともに、その後の湛山の論壇における基礎を形づくった。
湛山とは、この後も公私にわたって生涯の付き合いが続いていく。
「分かりました。社是に従って書かせてもらいます。もとより、新報社の考え方は、僕の学んできたこれまでのすべてと合致しておりますから、僕自身にとっても問題はありません。頑張ります」しかし、廃刊までのあと2回分、湛山は『東洋時論』を担当しなければならなかった。
明治天皇の大葬の日に、日露戦争の英雄とされてきた乃木希典夫妻が殉死し、大きなニュースになった。だが、こうしたことも湛山は冷静な目で見つめ、対処した。湛山にとって、それよりももっと心に引っかかっている問題があった。明治神宮建設であった。
『東洋時論』大正元年9月号に、湛山は明治時代の意義などを盛り込みながら、明治神宮建設問題について、その是非を問いかけた。
多数の国民が最大の特色を「帝国主義的発展だ」と見るであろう明治時代を、湛山は「政治、法律、社会の万般の制度および思想に、民主的な改革を行なったことにその最大事業があった」と考えた。
〈なるほど、陸海軍は非常な拡張を見たし、大きな戦争も二度経験した。台湾も樺太も朝鮮も日本の版図になった〉
帝国主義による発展を、そのように評価したとしても、そのうえでなお、
〈国民が軍事費の圧迫に青息吐息である〉
と否定的な見解を湛山は明確にした。そして、むしろ明治元年に発せられた「五箇条の御誓文」や明治8年の元老・大審両院開設の詔勅、明治14年の国会開設の詔勅などを通していくたびか繰り返されて宣言された「公論政治」、「衆議政治」すなわち「デモクラシーの大主義」に大きな評価を与えていた。
「この大主義はますます適用の範囲が拡張されて、その輝きは大きくなろうとも、決して時勢の変化によってその意義を失ってしまうようなことはないと僕は思うんです」
「同感だね。帝国主義的な伸張を評価したら、この国はまだまだ膨張を続けてしまって、今に取り返しがつかなくなってしまうだろう」
「全く僕も同じ考えなんです。どこかで制動装置を働かせないと、日本は滅亡の瀬戸際に行ってしまうような……」
湛山は、三浦と語った内容をそのまま文章にした。
(つづく)
【解説】
「同感だね。帝国主義的な伸張を評価したら、この国はまだまだ膨張を続けてしまって、今に取り返しがつかなくなってしまうだろう」
「全く僕も同じ考えなんです。どこかで制動装置を働かせないと、日本は滅亡の瀬戸際に行ってしまうような……」
『東洋経済新報』の論調は、あくまでリベラルであり、その先見性に驚きます。
獅子風蓮