獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その85)

2024-10-21 01:40:36 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(つづきです)

湛山は周恩来との秘密会談も持った。その席上で、持論である「日中米ソ平和同盟」を打診した。
「いいですか、米ソの冷戦は世界を東西に分極化して、政治、経済、軍事、イデオロギーなど多面的に敵対する事態を生んでいるのです。これは貿易立国を目指す日本にとっては死活問題なのですよ。もしも冷戦が第三次世界大戦にまで発展したなら、核兵器によって世界文明と人類が滅亡する危険につながると思うのです。しかし、今や米ソには緊張緩和の動きがあります。そこで、日中、日ソの関係改善に立って、そこにアメリカを加えた四カ国の多国間関係を再構築する。それが、日中米ソ平和同盟の骨子なのです」
「石橋先生、その案は原則的には賛成です。これからの世界は、先生がおっしゃったこの四つの国がリードすることになるでしょう。とりわけ日本の経済に関する役割は大きいと思いますよ。その構想はぜひ進めたいですね」
「周首相、もう一つ提案があります。いや、お願いと言ってもいいでしょう。中国による台湾への武力行使はやらないでほしいのです。平和のうちに一つの中国をつくってほしいのですよ」
「分かりました。先生の心配には及びません。中国から台湾への武力行使はしませんから」 
湛山は、二つの大きな提案に基本的に周恩来が同意したことに満足した。
「梅子、中国に来た甲斐があったよ」
梅子はホテルで、いつになく機嫌のよい夫を見て安心した。
湛山は共同声明に署名した後に、劉少奇国家主席とも会談して、9月26日に帰国した。

(つづく)


解説

「周首相、もう一つ提案があります。いや、お願いと言ってもいいでしょう。中国による台湾への武力行使はやらないでほしいのです。平和のうちに一つの中国をつくってほしいのですよ」
「分かりました。先生の心配には及びません。中国から台湾への武力行使はしませんから」 

湛山と周首相とのこの秘密会談の内容は重要です。

現在の中国共産党のトップが、この会談の精神を思い出していただければいいのですが。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その84)

2024-10-20 01:29:55 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(つづきです)

羽田に湛山一行を見送りに来た人々は三千人もいた。湛山は、訪中を前にして語った。
「訪中に当たって私はこれを言っておきたいのです。まず、人間の幸せは資本主義とか共産主義とかいうイデオロギー面で対立するのは不幸である、ということです。今はアイゼンハワーとフルシチョフの米ソ相互訪問が予定されるなど、緊張緩和の兆しが見られることです。日中両国は将来、提携する運命にあります。従って経済問題だけ解決すればよいというのでなく、政治と経済は分離できないのです。とはいえ、私は目下の日本政府が行なっている安保条約改定交渉に支障をきたすようなことは絶対に致しません。中国は人民公社などが建設期にあり、その成否のほどは不明ではあるが、日本はこうしたことに協力するのが望ましいと考えます。日本の現在の姿を中国首脳に説明し、その立場を認めさせ、日中両国の共存が可能かどうかを話し合ってくるつもりでおります」


湛山は疲れてはいたが、まず廖副主席と会談し、次に周首相と2時間も会談した。会議は終始和やかなムードの中で進んだ。ただ、共同声明の起案部分で難航した。岸内閣の中国敵視政策や二つの中国を作る陰謀、といった問題がネックになったのだった。湛山は「石橋三原則」に添って反論した。


「石橋・周共同声明」は5本の柱からなるものであった。

一、石橋、周双方は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきであると認めた。

二、この目的を実現するために日中両国民は領土主権の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和共存の五原則と、バンドン会議の十原則に基づき、両国民の友好の促進に努力し、国民の相互信頼を深め、両国現存関係を改善し、また一日も早く両国の正常な関係を回復するよう協力するべきである。

三、周恩来はこのために日本が外来の干渉を振り切り、中国敵視政策を排除し、二つの中国を作る陰謀に参加すべきではないと指摘した。石橋はこれに対して良識ある日本人士はかかる思想や行動を容認したことはなく、今後も容認しないと表明した。

四、石橋は日中両国の政治、経済、文化の交流と発展は実情に応じて努力すべきものと語った。周はこれに同意すると表明し、そして日中両国の政治、経済の発展は必ず結合して行うべきで、分離できないと指摘した。石橋もこれに同意した。

五、石橋は以上に関連して、日本の現状と現存の国際関係は満足できない点があり、最大の努力を尽くして一日も早く改めるとともに、その実現を逐次促進すべきであると表明した。周はこれに対し歓迎の意を表するとともに、日本が一日も早く上述の希望を達成することを望み、中国人民はこの目標の実現のためになされる日本国民の努力を大いに支持し、日本の国民の独立、自由民主、平和と中立の願望に心から同情を寄せるものであると述べた。

(つづく)


解説

「石橋・周共同声明」は、今読んでも素晴らしい内容だと思います。

池田大作氏は周首相と会談したことを終生の誇りとしていましたが、その前に、この石橋・周会談があったのですね。

おそらく、池田氏は湛山の行動の軌跡を丁寧になぞったような気がします。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その83)

2024-10-19 01:37:00 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(つづきです)

昭和34年6月、湛山は中国の周恩来首相に書簡を送った。これがいわゆる「石橋三原則」である。

一、日中両国はあたかも一国のごとく一致団結し、東洋の平和を護り、併せて世界全体の平和を促進するよう一切の政策を指導すること。

一、両国は右の目的を達するために経済、政治、文化において極力国境の障碍を撤去し、交流を自由にすること。その具体的方法については実際に即して両国が協議決定すること。

一、両国がソ連、米国その他と結んでいる従来の関係は、相互に尊重して俄(にわか)に変更を求めないこと。

間もなく中国側から廖承志人民外交学会副主席の返書が届いた。
「周恩来首相が8月22日付で正式に招待してくれたよ。9月7日から26日まで20日間、中国を訪問することになるが、おまえも一緒に行くんだよ。いいね」
湛山は、妻の梅子に訪中を共にすることを命じた。
周首相が日本人に正式の招待状を出したのは、これが初めてであった。
こうして湛山は梅子を連れ、宇都宮徳馬、加藤常太郎両代議士、経済評論家で『東洋経済新報』の編集局長だった高橋亀吉、湛山秘書の室伏祐厚らのほか、新聞記者などを含めて12人で訪中することになった。
しかし、湛山の訪中計画が明らかになると、自民党主流派から「時期尚早ではないか」、「石橋は日米安保の改定に水を差す気か」などという声が出てきた。
ところが当然のことながら、社会党は湛山の訪中を支持した。
だが、自民党の中でも松村謙三、河野一郎、石井光次郎らは湛山を励ました。
「日中友好問題は、石橋さんの生涯をかけた懸案事項であり、必ず日中は友好関係を取り戻さなければならない。その先鞭を石橋さんがつけてくれるのだから、期待して待っています。元気で行ってきてください」

(つづく)


解説

湛山の訪中計画が明らかになると、自民党主流派から「時期尚早ではないか」、「石橋は日米安保の改定に水を差す気か」などという声が出てきた。

自民党内の激しい反発を押し切って、湛山は中国訪問の途に就きます。


獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その82)

2024-10-18 01:33:51 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
■終 章
□あとがき


終 章

(前略)

湛山は残る政治生命を日中関係の正常化に費やした。
だが、岸内閣はアメリカとの関係一辺倒に走り、日中関係は極度に悪化した。岸の考えは、鳩山・石橋両政権時代に逆に冷却化した日米関係を改善することにあった。
岸は、日中貿易は中国承認を意味しない、中国の通商代表部に特権は与えないなどを明示して、中国に対して強硬な態度に出た。
「岸君はどういう気持ちなのかな。折角、中国との国交を視野に入れてやってきたこれまでの努力を水の泡にするとはな」
湛山は、自分のやってきたことをすべて否定しようとする岸信介に大きな失望を覚えていた。
中国は政経不可分原則に立っていたが、岸は政経分離を原則にして日中貿易の拡大を図った。だが、両国間は日増しに険悪の度合いを深め、昭和33年(1958)5月、とうとう日中関係は断絶状態に陥った。
「僕はね、築き上げた日中関係が崩壊するのを黙って見てはいられないんだ」
徐々にではあるが健康を回復した湛山は、自分自身が中国に行くつもりになっていた。
「先生、中国政府の意向を打診してみましょうか」
日中貿易の関係者からそんな電話があって、湛山は、
「ぜひやってみてくれんかね。北京在住の西園寺公一君や日中貿易促進会の鈴木専務らが、間に立ってくれるはずだから」

(つづく)


解説

「僕はね、築き上げた日中関係が崩壊するのを黙って見てはいられないんだ」
徐々にではあるが健康を回復した湛山は、自分自身が中国に行くつもりになっていた。

日中国交正常化のために湛山は動き出しました。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その81)

2024-10-07 01:37:45 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
■第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第8章 悲劇の宰相

(つづきです)

22日、精密検査。
この発表に社会党は「総辞職」を要求した。
党内は固唾を呑むような状況になった。
政局は大きく動く。誰もがそんな予感を持った。
「22日の診断結果で1ヶ月以内の静養なら頑張る。だが、それ以上なら総辞職」
三木は宣告するように断言した。
「先生、残念です」
22日夜。精密検査の結果が出た。「2ヶ月の静養を要す」。万事休すであった。
病床の湛山に総辞職の意志を伝える石田の頬に大粒の涙が光った。
「君、何事も運命だよ。運命だよ」
湛山は、石田の手を握ってはっきりした声で言った。
その夜、官房長官室に党三役、幹部閣僚を集めた石田は、すべてを報告した。総辞職反対の電話や申し入れも多かった。
「2ヶ月なら、何とか乗り切れる。せっかくの政権を投げ出すな」
「我慢することが大事だ。石橋内閣が倒れたら、日本が変わる」
だが、すでに骰子は投げられていた。
23日午前1時20分、石田は、病床で湛山が作成した 岸臨時代理と三木幹事長宛ての「石橋書簡」を記者団に読み上げた。その中の「私の政治的良心に従います」という条りで、記者団から「ほうっ」と声にならない嘆声が洩れた。
2月23日午後2時、石橋内閣は総理のいない臨時閣議を開いて総辞職を決めた。総裁公選から71日、総理就任から63日の短命内閣であった。しかし、この2ヶ月間には、湛山のそれまでの人生のすべてが詰まっていた。「ビー・アンビシャス」が、「ビー・ジェントルマン」が、そしてプラグマティズムが、小日本主義が。
「父さん……。決して無駄でも間違いでもなかったよ。短い63日だったけど、父さんにとっては72年間を凝縮した63日だったんだ。未練はないだろう? そう、何事も運命なんだから……」
うとうととする湛山の夢に和彦が現われて、白い歯を見せて笑った。湛山も満面の笑顔で和彦に頷いた。

2月25日、岸が首班指名され、岸内閣が成立した。
27日、首相の所信表明演説の代表質問に立った社会党の浅沼書記長は「政治家はかくありたいもの」と前置きして、石橋書簡の全文を読み上げた。
浅沼は、志半ばの湛山の胸中を思いやり、出処進退の潔さに感動して、時には声を詰まらせながら読み終えた。

〈私はいろいろ考えました末、この際思い切って辞任すべきであると決意するに至りました。友人諸君や国民多数の方々には、そう早まる必要はないという御同情あるお考えもあるかも知れませんが、私は決意いたしました。私は新内閣の首相としてもっとも重要なる予算審議に1日も出席できないことが明らかになりました以上は、首相としての進退を決すべきだと考えました。私の政治的良心に従います。……これがこの際私として政界のため国民のためにとるべきもっとも正しい道であることを信じて決意をした次第であります。
2月22日  

      
 内閣総理大臣 石橋湛山〉

       ◇

嵐の2ヶ月が去った。心ある人々は、無限の期待と深遠な興味を蔵しながら、慌ただしく去っていった石橋政権への無念の思いを鮮明にした。
後に「あの時にもしも石橋政権が2年続いてくれたら、ずいぶん世の中は変わったであろう。アジアの有り様も違っていただろう」としみじみ話した政治家や政治評論家は多い。

「先生、手続きはすべて終わりました」
「おお、石田君か。苦労をかけたねえ」
「読書ですか」
「うん、ちょっとね。ケインズをね。気にかかっていたことがあるからさ」

湛山が築地の聖路加病院を退院するのは、4月27日であった。その後、しばらく伊豆長岡で静養し、さらに7月の終わりには避暑を兼ねて山中湖畔の別荘に移った。

 

 


解説

22日夜。精密検査の結果が出た。「2ヶ月の静養を要す」。万事休すであった。
病床の湛山に総辞職の意志を伝える石田の頬に大粒の涙が光った。
「君、何事も運命だよ。運命だよ」

こうして、湛山は潔く首相を辞するのでありました。


獅子風蓮