★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

2020-10-16 21:27:41 | 文学


かくあるを見つつ漕ぎ行くまにまに、山も海もみな暮れ、夜更けて、西東も見えずして、天気のこと、梶取の心にまかせつ。男もならはぬは、いと心細し。まして女は、船底に頭をつきあてて、音をのみぞ泣く。かく思へば、船子、梶取は舟歌うたひて、何とも思へらず。
  春の野にてぞ音をば泣く 若薄に 手切る切る摘んだる菜を 親やまぼるらむ 姑や食ふらむ かへらや


ここには「舵取の心」による歌があるが、歌の方は、心というより顛末をうたったものであり、心はむしろ船底に頭をくっつけて泣いている女たちにある。ここらあたりで、貫之が女のふりをしている理由がわかるね、船酔いに男のくせに弱かったんだね――という冗談はともかく、文学には、こういう、自分だと思ってみる枠を心として解放してしまうということがある。心とは我々の肉体より大きく形がない。

  夜べのうなゐもがな 銭乞はむ そらごとをして おぎのりわざをして銭も持て来ず おのれだに来ず
これならず多かれども、書かず。これを人の笑ふを聞きて海は荒るれども、心はすこし凪ぎぬ。


心は、そのまま舵取りたちの下品な歌をとりこみ、少し凪ぐのであった。それは水が凪ぐことと全く一緒で、船酔いに直結している心の現象である。

 この時分には秋になつたといつても、夕日の烈しさは昨日となつた夏にかはらず、日の短さも目にはたゝない。凌霄花はますます赤く咲きみだれ、夾竹桃の蕾は後から後からと綻びては散つて行く。百日紅は依然として盛りの最中である。そして夕風のぱつたり凪ぐやうな晩には、暑さは却て眞夏よりも烈しく、夜ふけの空にばかり、稍目立つて見え出す銀河の影を仰いでも、往々にして眠りがたい蒸暑に襲はれることがある。然し日は一日一日と過ぎて行つて、或日驟雨が晴れそこなつたまゝ、夜になつても降りつゞくやうな事でもあると、今まで逞しく立ちそびえてゐた向日葵の下葉が、忽ち黄ばみ、いかにも重さうな其花が俯向いてしまつたまゝ、起き直らうともしない。糸瓜や南瓜の舒び放題に舒びた蔓の先に咲く花が、一ッ一ツ小さくなり、その數もめつきり少くなるのが目につきはじめる。それと共に、一雨過ぎた後、霽れわたる空の青さは昨日とは全くちがつて、濃く深く澄みわたり、時には大空をなかば蔽ひかくす程な雲の一團が、風のない日にも折重つて移動して行くのを見るであらう。それに伴ひ玉蜀黍の茂つた葉の先やら、熟した其實を包む髯が絶えず動き戰いでゐて、大きな蜻蜓がそれにとまるかと見ればとまりかねて、飛んで行つたり飛んできたりしてゐる。一時夏のさかりには影をかくした蝶が再びひらひらととびめぐる。蟷螂が母指ほどの大きさになり、人の跫音をきゝつけ、逃るどころか、却て刃向ふやうな姿勢を取るのも、この時節である。

――永井荷風「森の聲」


近代になると、目は外界に釘付けになり、心はどこかに行ってしまう。心は、無理矢理に主体の名を借りて復活せざるを得ない。

えまさらず

2020-10-15 23:57:00 | 文学


かくて、宇多の松原をゆきすぐ。その松の数いくそばく、幾千年を経たりと知らず。もとごとに波うちよせ、枝ごとに鶴ぞ飛びかよふ。面白しと見るにたへずして、船人のよめる歌、
  見渡せば松の末ごとにすむ鶴は 千代のどちぞと思ふべらなる
とや。この歌は、ところを見るに、えまさらず。


そりゃ勝ってはいないだろうが……。松原自体がそんないいかな……。


言葉と身体

2020-10-14 23:36:38 | 文学


ラッヘンマンの「マッチ売りの少女」を聞いていたら、我々の世界というのはまだまだ描かれる余地があると思わざるを得なかった。我々のなかには日本の世界があるが、ここに流れ込んだいろいろな物があって、さまざまな変化をとげている。いまもそれは進行中であって、我々がそれを意識出来るとは限らない。

これかれ互ひに、国の境のうちはとて、見送りに来る人あまたが中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさ等なむ、御館より出で給びし日より、ここかしこに追ひくる。この人々ぞ、志ある人なりける。この人々の深き志はこの海にもおとらざるべし。
これより、今は漕ぎ離れて行く。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来ける。かくて漕ぎ行くまにまに、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見みえずなりぬ。岸にもいふことあるべし。船にも思ふことあれど、かひなし。かかれど、この歌をひとりごとにして、やみぬ。
  思ひやる心は海をわたれどもふみしなければ知らずやあるらむ。


わたしが興味があるのは、上の「志」という言葉で、厚意ともとれるが、それだと何か据わりが悪い気がする。人々が遠くに離れてしまうこの場面では、やっぱり志みたいな、空中を飛びそうな言葉が選ばれた気がするのである。わたしは、歌の中の「思ひやる」よりも「志」のほうがいい気がするくらいだ。「思ひやる」は、「思ひやる越の白山知らねども一夜も夢に越えぬ夜ぞなき」という自身の歌をふまえているらしいが、これは恋の歌なので……。

我々の文化には、なにか感情を、油絵のように重ねて描いてしまう癖がないだろうか。

なんと、今日は、中曽根康弘の追悼を17日にやるんで、黙祷お願いしますみたいな文書が國から大学などに来たというんで話題になっていた。これだって、戦没者とか原爆の時の追悼のあれと同じなんだが、とにかく、――我々の一部は、同じような行為を反復して、元の感情を上書きしてしまいかねない。和歌だって、そんな機能を一部で持っていたに違いない。

わたくしも若い頃、入学式とかで「ニュルンベルクのマイタージンガー」を演奏させられていたが、それは、フルトヴェングラーがナチス時代に工場で演奏した一九四二年のような意味もなければ、帝国主義的な意味があるわけではない。本当は君が代だってそうなのだ。意味がまったくない。

こういう身体強制がいやなひとたちがどうするかというに、好きなことをして寝っ転がるみたいな行為もなにか別の意味での「強制」にみえるので、とにかくぼーっとする。最近、我々自身も学生もぼーっとし始めた。

菊池はそういう勇敢な生き方をしている人間だが、思いやりも決して薄い方ではない。物質的に困っている人たちには、殊に同情が篤いようである。それはいくらも実例のあることだが公けにすべき事ではないから、こゝに挙げることは差し控える。それから、僕自身に関したことでいうと、仕事の上のことで、随分今迄に菊池に慰められたり、励まされたりしたことが多い。いや、口に出してそう言われるよりも、菊池のデリケートな思いやりを無言のうちに感じて、気強く思ったことが度々ある、だから、為事の上では勿論、実生活の問題でも度々菊池に相談したし、これからも相談しようと思っている。たゞ一つ、情事に関する相談だけは持込もうと思っていない。

――芥川龍之介「合理的、同時に多量の人間味――相互印象・菊池氏――」


菊池寛もまた、初期の小説でしばしば我々の身体がどのように強制されるかを考えていたと思う。芥川龍之介は、菊池寛が女性関係を苦手にしているといいたいのかも知れないが、――なんとなく、菊池が恋愛を、身体から恋愛を強制するような形で発想している気がして、芥川龍之介はいやだったのかもしれないのだ。昨日のゼミで、芥川龍之介を読んでいて、彼の言葉とイメージに「力」を求める妙な感覚を感じた次第だ。それは言語への信頼とは違う。

天の川や仏

2020-10-12 23:12:48 | 文学


八日。さはることありて、なほ同じところなり。今宵、月は海にぞ入る。これを見て、業平の君の、「山の端逃げて入れずもあらなむ」という歌なむ思ほゆる。もし、海辺にてよまましかば、「波立ちさへて入れずもあらなむ」ともよみてましや。今、この歌を思ひ出でて、ある人のよめりける、
  てる月の流るるみれば天の川出づる港は海にざりける
とや。


わたくしは、東大の天体観測所が設置される程の空気の澄んだ地帯の近くの生まれであるから、満天の星空というのを経験したこともある。天の川は本当に白く流れているし、本当に、星明かりというものも存在する。ただし、わたくしのうまえたところなんか、上のオリオン座のリゲルが山の端にかかること屡々で有り、おおいぬ座のシリウスを余裕持ってみることが夢であったのに、香川に来たら、シリウスなんか結構な高さに見えるではないか。空がこんなに広いものだったとは知らなかった……。

で、今度はいつか機会をみつけて、海に沈む天の川をみてみたいものだ。たぶん水面とつながって見えるはずなのだ。

上の業平の歌は、伊勢物語の「飽かなくにまだきも月の隠るるか山の端逃げて入れずもあらなむ」である。山の端が逃げるはずはない。――もっとも、月とせめぎあっている山の端はゆらゆら揺れていることは確かである。

山越阿弥陀図の類いは、香川の海の民よりもわたくしのような人間の方が見る可能性が高いと思うのだ。とはいえ、伝説によると、石清尾八幡のある峰山の頂上あたりに大日如来が顕れたことがあったらしいから油断は出来ない。

心願を持つて、此は描いたものなのだ。其にしては繪樣は、如何にも、古典派の大和繪師の行きさうな樂しい道をとつてゐる。勿論、個人としての苦悶の痕などが、さうさう、繪の動機に浮んで見えることは、ある筈がない。繪は繪、思ひごとは思ひごとゝ、別々に見るべきものなることは知れてゐる。爲恭は、この繪を寺に留めて置いて、出かけた旅で、浪士の刃に、落命したのであつた。
今かうして、寫眞を思ひ出して見ると、彌陀の腰から下を沒してゐる山の端の峰の松原は、如何にも、寫實風のかき方がしてあつたやうだ。さうして、誰でも、かういふ山の端を仰いだ記憶は、思ひ起しさうな氣のする圖どりであつた。大和繪師は、人物よりも、自然、裝束の色よりも、前栽の花や枝をかくと、些しの不安もないものである。


――折口信夫「山越しの阿彌陀像の畫因」


わたくしは、近代の文学者達が、こんな感じで意味ありげに仏を見るのに少し異和感がある。ふつうに、みておれば、いきなり見えることもあると思うぞ……。

泣くセンスと涙のセンス

2020-10-11 23:12:20 | 文学


今日、破子持たせて来る人、その名などぞや、今思ひ出でむ。この人、歌をよまむと思ふ心ありてなりけり。とかくいひいひて、「波の立つなること」とうるへいひて、よめる歌、
 行く先に立つ白波の声よりもおくれて泣かむわれやまさらむ
とぞよめる。いと大声なるべし。持て来たる物よりは、歌はいかがあらむ。この歌を、これかれあはれがれども、一人も返しせず。しつべき人もまじれれど、これをのみいたがり、物をのみ食ひて、夜更けぬ。この歌主、「まだまからず」といひて立ちぬ。
ある人の子の童なる、ひそかにいふ。「まろ、この歌の返しせむ」といふ。おどろきて、「いとをかしきことかな。よみてむやは。よみつべくは、はやいへかし」といふ。「『まからず』」とて立ちぬる人を待ちてよまむ」と求めけるを、夜ふけぬとにやありけむ、やがていにけり。「そもそもいかがよんだる」と、いぶかしがりて問ふ。この童、さすがに恥ぢていはず。強いて問へば、いへる歌、
 行く人もとまるも袖の涙川汀のみこそ濡れまさりけれ
となむよめる。かくはいふものか。うつくしければにやあらむ、いと思はずなり。「童言にてなにかはせむ。媼、翁、手捺しつべし。悪しくもあれ、いかにもあれ、たよりあればやらむ」とて、おかれぬめり。


世の中には、なんというかセンスのない人間というものはいるものである。船で旅をしている人間に対して、白波よりも大きな声で私は泣きますよ、とか下品な歌を白波を恐れる一行の前でうたってしまう人あり。しかし、こういう人に「馬鹿なの?」と言ってしまうのも、それこそ空気が読めないというものである。最近は、注意されると「言ってくれないとわからない」と言ってくる人間が散見されるが、1から10まで間違っている人間にいちいち忠告していられるかというと、人間それほど暇じゃない。こういう人間を病気だという説もあるが、わたしは懐疑的だ。他人に寄り添え、みたいな倫理は、結局、他人になるべく関わらず、自己利益だけを追求する人間を量産する。はじめ善意がある人間まで妙な人間に対してはいやになってしまうのである。

とまれ、子供は、そういう事情がわからず、――いや分かりすぎる程分かっている可能性があるが、なんと返歌までつくってしまった。どうも嫌みが感じられる歌でもある。「汀のみこそ濡れまさりけれ」とは、どういう濡れ方であろうか?人間の濡れ方ではナイ。子供じみてはいないので、爺さん婆さんの印でも押して返してやったらとも思ったのであるが、――やはり、反応がおそろしい人間には何もしないに限る。返歌はやめておいた……。

◇美人の手…………何か快活らしい曲を弾いている。
……………………時々手を止めてハンカチで涙を拭うようす……。
――そのうしろから突然にパッと光線がさす――
◇美人の手…………ハッとしてハンカチを取り落す。
●探偵の手…………懐中電燈をさしつけつつ近寄る。
◇美人の手…………わなわなと慄え出す。
●探偵の手…………ピンセットで物を抓み上げる真似をして見せる。
◇美人の手…………宝石の包みを差し出しつつ、わななき悲しむ。
●探偵の手…………包みを受け取って中味を検め、固く結び直して無造作にポケットに入れる。
……………………くら暗の中に、拇指を出して見せ、食指とくっつけ合わせて「お前と共謀だろう」と詰問する体。
◇美人の手…………烈しくわななきつつ左右に振って否定し「ピアノを弾いていた。何も知らない」と主張する。
●探偵の手…………懐中電燈をつけ、ピアノのキーの上に落ち散った涙を一ツ一ツに照し出すうち、指先が感動して微かにふるえ出す。
……………………ともったままの懐中電燈をしずかにピアノのキーの上に置き、わななく女の白い手をハンカチごと両手で強く握り締め「御安心なさい」という風に軽くたたいて慰撫する。
――その上から涙がポトポトと滴たりかかる――


――夢野久作「涙のアリバイ」


どういう話だったわすれたが、文学では、なにかセンスのおかしな人間をはじく仕組みが必要だと思うのだ。探偵小説というのは、その点、そうではないものが多く生産されたところがある。探偵小説は、上の子供のように、物質的なものに接近し、人間を閑却しつつあった。それはそれで時代の流れでもあった、――そして、人間的なものに興味がない文学好きの量産に貢献したところがある。やはり、量の増大はたいがい大した結果を生まない。

腹鼓は海をさえ驚かす

2020-10-10 23:01:42 | 文学


浅茅生の野辺にしあれば水もなき 池に摘みつる若菜なりけり
いとをかしかし。この池といふは、所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃のものは、みな人、童までにくれたれば、飽き満ちて、船子ども腹鼓をうちて、海をさへおどろかして、波たてつべし。


わたくしは、うたよりも、「船子ども腹鼓をうちて、海をさへおどろかして、波たてつべし」が楽しいと思う。波が高い時は、船は出せない。そんな現実を吹き飛ばす。だからこそ「水もなき」という言葉、ひいては、それと対照的な「若菜」が輝く。

秋も末のことですから、椋の木の葉はわずかしか残っていませんでした。その淋しそうな裸の枝を、明るい月の光りがくっきりと照らし出していました。そして一本の大きな枝の上に、狸がちょこなんと後足で座って、まるいお月様を眺めながら、大きな腹を前足で叩いているのです。

ポンポコ、ポンポコ、ポンポコポン、
ポンポコ、ポンポコ、ポンポコポン。

 次郎七と五郎八は、あっけにとられて、暫く狸の腹鼓を聞いていました。それから初めて我に返ると、五郎八は次郎七の肩を叩いて言いました。
「空手で戻るのもいまいましいから、あの狸でも撃ってやろうか」
「そうだね」と次郎七も答えました。「狸の皮は高いから、可哀そうだが撃ち取ってやろう」
 そして二人は鉄砲に弾丸をこめ始めました。
 ところが、その話が聞えたのでしょう、狸は腹鼓をやめて、じろりと二人の方を見下ろしました。そしておかしな手付を――いや、狸ですから足付というのでしょうが、それをしますと、急に狸の姿が見えなくなって、後には椋の木の頑丈な枝が、月の明るい空に黒く浮き出してるきりでした。
 次郎七と五郎八とは、またあっけにとられて、夢でもみたような気がしました。それからいまいましそうに舌打ちをして、弾丸のこもった鉄砲をかついで、帰りかけました。
 八幡様の森を出て、村の中にはいろうとすると、これはまた意外です、道のまん中にさっきの狸が後足で立って、こちらを手招きしながら踊ってるではありませんか。
 次郎七と五郎八とは、黙って合図をして、鉄砲でその狸を狙い、一二三という掛声と共に、二人一緒に引金を引きました。ズドーンと大きな音がして、狸はばたりと倒れました。二人は時を移さず駆けつけてみますと、これはまたどうでしょう、大きな石が弾丸に当たって、二つに割れて転がっているのです。
 二人はばかばかしいやら口惜しいやらで、じだんだふんで怒りました。きっと狸に化かされたに違いないと、そう思いました。そして、是非とも狸を退治してやろうと相談しました。


――豊島与志雄「狸のお祭り」


近くの神社は、狸祭りで有名なんだが――、小学生達が狸に扮して楽しそうである。しかし、狸は可愛いだけではない。海を波ただせる程である。

文学を失うとクズが代わりを務める

2020-10-09 23:48:09 | 文学


二日。なほ大湊に泊まれり。講師、物、酒おこせたり。
三日。同じところなり。もし、風波の、しばしと惜しむ心やあらむ。心もとなし。
四日。風吹けば、え出で立たず。まさつら、酒、よき物奉れり。この、かうやうに物持て来る人に、なほしもえあらで、いささけわざせさす。物もなし。にぎははしきやうなれど、負くる心地す。
五日。風波やまねば、なほ同じところにあり。人々、絶えず訪ひに来。
六日。昨日のごとし。


日記といっても防備録みたいな側面があるから、こんな時もある。六日なんか、正直にいえば、なんも書くことがなく、本当は五日と同じだったかすら怪しい。

総合的・俯瞰的にみて、日記というものは不要不急のものであって、どうかんがえてみてもそうじゃないでしょうか。

今度の首相はアウトサイダー的な側面を持っているから一瞬期待したことはたしかだが、前のひとみたいに、血と理念に関わるルサンチマンすらなく、ひとことでいえば、いじめが多いクラスでたまたまいろいろな都合でパリシ番長みたいな人間が委員長になってしまったパターンだろう。しかし、これは案外我々のまわりでもあるのではなかろうか。彼はそんな風潮に乗っただけのはなしで、彼自身に責任はあるが、文学のレベルだといいポジションに位置する何者かだ。

前の首相のまねをする人達は、ポエム野郎みたいな、――朦朧とした夢を語る側面があったが、今度は、ただひたすら明確な国策遂行という全員アイヒマン的な何者かになる可能性があり、――いずれにせよ、生きる目的を失っていることに気付いていない人達である。

わたくしがこの業界に住むようになってもう何十年もたつのだが、ひたすらずっと、政治や学問を嫌う人間達からのマウンティングや厭がらせをうけてきたのだ。金をちらつかせた交渉の仕方には目に余るものがあり、いずれいろいろとバラして死んで行く人があらわれるかもしれない(そういう根性がない人が出世するからむりかも)が、文学や思想だけがそういうものを表現出来る。

 私は、いま、多少、君をごまかしている。他なし、君を死なせたくないからだ。君、たのむ、死んではならぬ。自ら称して、盲目的愛情。君が死ねば、君の空席が、いつまでも私の傍に在るだろう。君が生前、腰かけたままにやわらかく窪みを持ったクッションが、いつまでも、私の傍に残るだろう。この人影のない冷い椅子は、永遠に、君の椅子として、空席のままに存続する。神も、また、この空席をふさいで呉れることができないのである。ああ、私の愛情は、私の盲目的な虫けらの愛情は、なんということだ、そっくり我執の形である。

――太宰治「思索の敗北」


そういえば、太宰は、最近問題になっていたスギなんとかとかいうひとの「女性はいくらでも嘘をつく」という発言と似たようなことをネタに書いている。

 圭吾は、すぐに署長の証明書を持って、青森に出かけ、何事も無く勤務して終戦になってすぐ帰宅し、いまはまた夫婦仲良さそうに暮していますが、私は、あの嫁には呆れてしまいましたから、めったに圭吾の家へはまいりません。よくまあ、しかし、あんなに洒唖々々と落ちついて嘘をつけたものです。女が、あんなに平気で嘘をつく間は、日本はだめだと思いますが、どうでしょうか。」
「それは、女は、日本ばかりでなく、世界中どこでも同じ事でしょう。しかし、」と私は、頗る軽薄な感想を口走った。


――太宰治「嘘」


要するに、日本は、太宰の描くような案外通俗的な文学レベル、さえ失ってしまったのだ。だから、平気でそれを公の場で言ったり行ってしまう。文学は、人間の姿を内面に押し込め、公のものと分離する役割を担っていたのである。文学を失うとクズが代わりを務める。

押鮎の口をのみぞ吸ふ

2020-10-08 23:11:16 | 文学


元日。なほ同じ泊なり。
白散を、ある者、夜の間とて、船屋形にさしはさめりければ、風に吹きならさせて、海に入れて、え飲まずなりぬ。芋茎、荒布、歯固めもなし。かうやうの物なき国なり。求めしもおかず。ただ、押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎、もし思ふやうあらむや。


「ただ、押鮎の口をのみぞ吸ふ。この吸ふ人々の口を、押鮎、もし思ふやうあらむや」(ただ押鮎の口をしゃぶるばかりなのだ。この吸い付いている人々の口。押鮎はもしかしたら何か思うんじゃないかしら?)

思いません。なぜなら、押鮎は死んでいるからだ。

だいたい、魚の屍体を刺身とか言ってうまいうまいと更に虐殺している人間はいったいなにを「思」っているのであるか。同じような疑問を、上田秋成が「夢応の鯉魚」で持っている。いま読み返している時間がないのであれなのであるが、思うに、主人公は坊主で絵描きであって、そんな人物でなければ魚の境地には達しなかったのだ。その坊主は、一度死んだが、魂が魚になってある宴会に引きだされて食われかかるのだ。――これは入神の境地だ。そうでなければ、せいぜい、上のように、魚はキスされてどう思う?みたいな下品な疑問しかでてこない。最近は、擬人法みたいな浅ましい技法がそれとわからないほどに一般化して、動物にも人間にも暴力的になってしまった。

今年は東京の釣人で、富士川は大いに賑った。けれど、少し遠いために遠州の天竜川の鮎はあまり人に知られていない。天竜は富士よりも水量の多い川だ。それだけに、鮎はより多く大きく育つ。
 何年振りかで今年の天竜川は、よく澄んでいた。この頃釣れる鮎は、百匁を超えるものが少くないと土地の釣友からたよりがあった。卵を抱えた大鮎の味噌田楽――想像しただけで唾液が舌に絡る。


――佐藤垢石「秋の鮎」


いまだに、食べものについて話す人は余り好きじゃない。




對酒當歌 人生幾何

2020-10-06 23:58:22 | 文学


  棹させど底ひも知らぬわたつみの深きこころを君に見るかな
といふあひだに、楫取もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、早く往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」とさわげば、船に乗りなむとす。
 この折に、ある人々、折節につけて、漢詩ども、時に似つかはしきいふ。また、ある人、西国なれど甲斐歌などいふ。「かくうたふに、船屋形の塵も散り、空行く雲も漂ひぬ。」とぞいふなる。


わたくしは、以前から、曹操が文人としても優秀で、対して劉備のつくった蜀はあまり文書を残していないとか言われていることが気になっている。現在にいたるまで、文書を残したり、文章を書いたりすることは、特殊な行為なのであって、われわれのような職業の者はそれをわすれてはならないと思うのだ。
文章を書きすぎ、読み過ぎている人間は、現実がその外部にあるような気がしてしまうのであるが、ふつうはそんなことはなく、文章のために現実をつくり、――みたいなことは、倫理以前にいつも起こっている。文書を残さない官僚や、矛盾を気にしない政治家というのは、単に近代官僚制度の住人として滑稽な程頭が悪いだけであって、人間で無い訳ではない。

上の場面でも、漢詩を詠んだり甲斐歌をうたったり……人々がしている。貫之のなかでは、それに対する自らの歌の特異点みたいなものがあったにちがいない。

和歌の世界は、おそらく、文章の世界と自らの意識などがわかれていても平気な意識への批判があるんじゃないかと思うだ。近代文学を学んでもいても思うが、――。そうすると、自らをふくめた世界は情景としてあらわれて来るのであった。「棹させど底ひも知らぬわたつみの深きこころ」というのは、そういうもんじゃないかな……。これをあらためて行為のほうを近づけて行く必要はない。そうしてしまうと、人は別のことをしてしまうものである。

短歌行 曹操孟徳

對酒當歌
人生幾何
譬如朝露
去日苦多
慨當以慷
幽思難忘
何以解憂
惟有杜康


酒を飲むというのは、行為と風景を愛でるのと、その中間にあるみたいなところがあるよね……違うか

感情の延びる風景

2020-10-04 23:17:40 | 文学


二十七日。大津より浦戸をさして漕ぎ出づ。かくあるうちに、京にて生まれたりし女児、国にてにはかに失せにしかば、このごろの出で立ちいそぎを見れど、なにごとも言はず、京へ帰るに、女児のなきのみぞ悲しび恋ふる。ある人々もえ堪へず。この間に、ある人の書きて出だせる歌、
  都へと思ふをものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり
またある時には、
  あるものと忘れつつなほなき人をいづらと問ふぞ悲しかりける


物語としてこういうところは本当に上手なのである。現実の描写がいつのまにか、行き先で死んだ女の子、ひいてはそれを悲しむ人々に延びて行く。この旅は、四国への旅なのではなく、そういう感情に延びていく何ものなのかなのである。

といひけるあひだに、鹿児の崎といふところに、守の兄弟、またこと人これかれ、酒なにと持て追ひ来て、磯に下りゐて別れがたきことをいふ。
守の館の人々の中に、この来たる人々ぞ、心あるやうには、いはれほのめく。


延び行った先に、人々が酒などを持って追いついてくる。これが「心ある」という感じで、歌そのものよりもこういう情景が心を象っているとおもうのである。

わたくしは、歌の世界と現実世界がなんか離れてきたと思われてきた当時の世界を想像する。

源氏物語がその背後にある夥しい蒙昧の民の群衆に存立の礎をもつように、我々の時代の文学もこの伝統的愚民にその大部分を負う。

――三島由紀夫「八月二十日のアリバイ」


三島由紀夫が思いえがいているのは、その「存立の礎」にその実、愚民を遠ざかった距離ではなく、移動する彼らの「心ある」情景を見出そうというのだ、と思う。途中で、そうではなくなって愚民じゃなく、群衆になってしまった気がするんだが……

わたしはあまり諦めたくないと思っている。

青いカエルもいる

2020-10-03 23:13:01 | 日記


みんなおれの前で擬態する

みやこいでゝきみにあはむとこしものを こしかひもなくわかれぬるかな
となむありければ、帰る前の守のよめりける、
しろたへのなみぢをとほくゆきかひて われにゝべきはたれならなくに
ことひとびとのもありけれどさかしきもなかるべし。


最後の悪口は何?


2020-10-02 23:36:15 | 文学


二十四日。講師馬のはなむけしに出でませり。ありとある上下、童まで酔ひ痴れて、一文字をだに知らぬ者、しが足は十文字に踏みてぞ遊ぶ。

こういう場面が楽しいところで、弓を持って踏ん張ると庭に足がめり込んでしまうアマテラスとは全然違う。完全に人間の世界である。

広い世の中にはこの一枚の十円札のために悲劇の起ったこともあるかも知れない。現に彼も昨日の午後はこの一枚の十円札の上に彼の魂を賭けていたのである。しかしもうそれはどうでも好い。彼はとにかく粟野さんの前に彼自身の威厳を全うした。五百部の印税も月給日までの小遣いに当てるのには十分である。
「ヤスケニシヨウカ」
 保吉はこう呟いたまま、もう一度しみじみ十円札を眺めた。ちょうど昨日踏破したアルプスを見返えるナポレオンのように。


――芥川龍之介「十円札」


同じ十でも、ちょっとこっちは人間から離れ始める。わたくしは、勝手に古代文学研究に親近感を懐いているのであるが、要するに――人間離れをしたいという欲望がそうさせるのかもしれない。