★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

顔ともの

2022-01-22 23:07:54 | 文学


うき波の雄島の海女の濡れ衣 濡るとな言ひそ朽ち果つとも

恋の歌であるがなかなか好きな歌である。「濡れ衣 濡るとな言ひそ」というずっこけたリズムに続いて「朽ち果つとも」としゃんとしているところがいいと思う。ここには心の律動があって、表情はないのではないだろうか。うき波がかかって濡れる海女の衣とはじまったことによって、海女の衣に視線は縛り付けられていて、わたしは、それが「泣き濡れた顔」には思われない。想像してもいいが、あまり想像しなくても良い気がするわけである。濡れる衣は古典の世界で、――一部近代でもよくあらわれるものだが、顔を避けることが心に集中することになっているような気がして、わたくしたちの文化に染みついた「物」好きの視点への屈折は頑固だなと思うわけである。

若き文士たる宇佐見りん氏の「顔パックの悲しみ」というエッセイには、

容姿が自分の作品の印象に何か悪い影響でも及ぼしたらと思うと、想像するだけで落ち込みそうになる。顔パックの穴からはみ出た目尻には、今も美容液が染みる。だが、その痛みがなかったのなら、私はおそらく小説を書いていないのである。

という部分が出てきてわたしはけっこう驚いた。単なる想像であるが、近代文学の男の作家たちは自分では案外いい顔だと思っていた節がある。それは、作品と密通している顔ではない。そこには、文学及び文学者という観念の壁があったように思われる。しかし、宇佐見氏の場合は、整形しなければ作品が傷つく可能性があったのだ。

恋愛をあまりに美化してしまつた結果、恋しあふ男女は、あまりに現実的な明日の生活にまで生きのびる意欲を失つてしまふのです。とすれば、歴史を通じて日本人は「望みをもたなかつた」のではなく、各時代ごとに容易に望みに達してしまつてゐたといへないでせうか。

――福田恆存「日本および日本人」


ついに、こういう意見さえも吹き飛ばす時代がやってきたのではなかろうか。私なんかはつい、人はすべて顔よりもルサンチマンが優先されていると考えがちではあるが、どうも最近は何かが違ってきている。


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