★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

縁暈

2020-03-04 23:11:43 | 思想


幾何学者が一個の三角を想像しながら、これを以て凡ての三角の代表となすように、概念の代表的要素なる者も現前においては一種の感情にすぎないのである(James,The Principles of Psychology, Vol. I, Chap. VII)。その外いわゆる意識の縁暈 fringe なるものを直接経験の事実の中に入れて見ると、経験的事実間における種々の関係の意識すらも、感覚、知覚と同じく皆この中に入ってくるのである(James, A World of PureExperience)。

如何なる精神現象が純粋経験の事実であるか。――経験の事実という観点から、こんな考察がされているが、いわば先行研究の検討みたいなものである。「意識の縁暈 fringe」の箇所がよくわからなかったので、たしか大学のだれかに聞きに行ったことがいったことがある気がするが、詳細は忘れてしまった。

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

あけぼのだって純粋経験だと思う。で、その経験の縁暈にはやうやう以下の種々のつらなりがある。それぞれが純粋経験として次々に経験される。

何しろ近頃の世の中は、――尠くとも知識階級は、まるで肚が坐つてゐない。何のことはない妄想家流であつて、ジャズだつてオネガだつてアッターベルヒだつてラヴェルだつてシトラウスだつてマーラーだつて、妄想家流――といつて妥当でなければ幻想家流である。彼等は、自分が自分の主人たり得てはゐない。神経的、或は潔癖精神的に幻想のげにも脆い臍の緒を掴へることによつて、心境の一断想を歌ふばかりである。それを聴いて感じられるものは、はや気分でさへない、云つてみれば気分の暈縁くらゐな所かもしれない。

――中原中也「音楽と世態」


現代の音楽好きは中也のこの認識を笑うであろう。ラヴェルやシュトラウスの音楽が精密なロジックで出来上がっていることがいろいろ分かってきたからである。ただし、中也の言いたいのは、例えば西田が「純粋経験」だとか「暈縁」だとか言ってみても、べつにぼやっとしていたわけではなく、ある種の科学的態度をもっていたということである。それがなくなって、我々がすべきことを失い意識のお化けみたいになっているというのが中也の警告だったのではなかろうか。

こういう時には、科学的に捉えうることと、社会としてのどうすべきかを分けて考えることは出来ず、――菌がなんか恐いので社会がきちんとしなきゃとか、そんな「気分は戦争」状態になるのだ。


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